Loading AI tools
空海によって9世紀初頭に開かれた大乗仏教の宗派 ウィキペディアから
真言宗(しんごんしゅう)は、空海(弘法大師)によって9世紀(平安時代)初頭に開かれた大乗仏教の宗派で日本仏教のひとつ。空海が長安に渡り、青龍寺で恵果から学んだ中国密教(唐密)を基盤としている。
空海は著作『秘密曼荼羅十住心論』『秘蔵宝鑰』で、当時に伝来していた仏教各派の教学に一応の評価を与えつつも密教を最上位に置き、十段階の思想体系の中に組み込んだ。最終的には顕教と比べて、密教(真言密教)の優位性、顕教の思想・経典も真言密教に包摂されることを説いた。 天台密教を台密と称するのに対し、真言密教は東寺を基盤としたので東密と称する[1]。 教王護国寺(東寺真言宗総本山)を総本山としている。
平安時代初期の大同元年(806年)、空海が中国(唐)より帰朝。その後空海は、弘仁7年(816年)に高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創。弘仁14年(823年)には、嵯峨天皇より勅賜された教王護国寺を真言宗の根本道場として宗団を確立した。同年、東寺に対して「真言宗の定額僧五十口を置き、他宗の僧の雑住を禁じる」旨の官符を賜った。また、淳和天皇に「真言宗所学経律論目録」を作り、献上した。
空海は入定に際し、住持していた寺院を弟子に付嘱した。
教王護国寺は実慧、金剛峯寺は真然、神護寺は真済、安祥寺を恵運、寛平法皇(宇多天皇)が開基した仁和寺、醍醐寺は聖宝、円成寺は益信などがあり、これらの寺院に年分度者(国家公認の僧侶の養成)を許可され、それぞれの寺院が独立した傾向を持っていった。後に、東寺長者が真言宗の最高権威者とする制度が確立する。
観賢が東寺長者・金剛峯寺座主を兼ね、教王護国寺東寺を本寺とし、金剛峯寺を末寺とする本末制度を確立。金剛峯寺は本末争いに負け、一時的ではあるが、東寺長者が真言宗を統括することになった。
高野山は落雷により伽藍・諸堂を焼失したり、国司による押妨などにより衰微し、無人の状態になるまでに至った。この状態が平安時代中期まで続くが、藤原道長が高野山に登山(山上の寺社に参詣すること)したことにより復興が進み、皇族・摂関家・公家が高野山への登山が続いた。
宗団は、師資相承を重視するため、事相(真言密教を実践するための作法。修法の作法など)の違いにより分派していった。ただし、教学(教義)そのものは空海により大成されていたため、平安時代半ばまで宗内論争は殆どなかった。
11世紀末、覚鑁(興教大師)は、大伝法院を創建、教学の振興のために大伝法会の復興を行った。東寺の支配から高野山の独立を図り、東寺長者が金剛峯寺の座主を兼職する慣例を廃止し、金剛峯寺座主に任ぜられたが、金剛峯寺方(本寺方)の反発を受け失敗した。その後、座主を辞して根来山(和歌山県)に隠棲した。これより、金剛峯寺方(本寺方)と覚鑁の流れを汲む大伝法院方(院方)との間で長い派閥抗争が続いた。両派は、古義(古義真言宗)・新義(新義真言宗)に分かれていった。のちに両派は教義的にも、一密成仏や法身説法などについて違いが生じることとなる。
1290年(正応3年)には、頼瑜が大伝法院を根来山に移し、大日如来の加持法身説(新義)を唱えて、新義真言宗の教義の基礎を確立した。
徳川家康の保護を受け、1601年(慶長6年)に玄宥が、根来寺にあった智積院を京都・東山七条に再建した。のちに真言宗智山派の総本山となった。
南北朝時代に東寺の僧、杲宝・賢宝(げんぼう)らが東寺不二門教学を大成させて、大日如来の本地加持説(古義)を説いた。高野山では「応永の大成」と称される古義派教学の発展があり、寳性院宥快が而二門(ににもん)の教学、無量壽院長覚が不二門の教学を振興させた。
江戸時代に入ると、江戸幕府は仏教界に対して新たな宗教統制を講じ、1604年(慶長14年)に関東真言宗古義法度が出された。
1615年(元和元年)7月24日には、徳川家康が真言宗諸法度を真言宗諸本山・諸寺に対して出し、幕府の監視下に置かれることになった。同時に、幕府の宗教政策である寺壇制度が確立した。宗門改などを行うことで行政機関の役割を果たし、幕府の支配体制に完全に組み込まれた。
寺壇制度は諸本山・末寺にとっては財政的な安定を得たが、一部の諸本山・末寺に綱紀のゆるみも起きた。このことから、浄厳・慈雲らが戒律に関心をよせ、戒律の研鑽・研究による復興を行った。
明治維新以降、神仏分離が推進され、宮中での勅修法会が廃止となって、宮中行事における仏教色の排除が図られた。それに伴い廃仏棄釈も起り、真言宗の寺院は本山・末寺にかかわらず大きな打撃を受けた。真言宗に属している神宮寺が廃されて、神社に改められることもあった。僧籍を離脱して、神社の神職になったり、還俗する僧も現れた。政府は寺院の所有している土地の返納を要求して、強制的に返納または没収措置を取った。勅願所・門跡の称号も禁止され、財政基盤も失って多くの寺院関係が廃寺に追い込まれた。廃仏毀釈の機運に仏教各派も危機感を募らせ、各派が団結して仏教を宣揚して、邪論を廃すべく各宗同盟会を結成した。1869年(明治2年)東京の大徳院にて、各宗同盟会の大会が開催され、高野山明王院主の高岡増隆が推されて盟主となった。神葬祭が盛んであったため無住寺院が増え、そのことでも廃寺は続き、深刻な事態になっていった。
1872年(明治5年)、古義真言宗を統括すべく管長職が設置され、金剛峯寺住職の降魔研暢が命じられた。1873年(明治6年)3月29日、太政官達が下り、教王護国寺東寺と金剛峯寺の両寺が、古義真言宗の総本寺と定められた。
政府の宗教政策である一宗一管長制が、古義・新義真言宗各本山にも求められた。古義真言宗からは教王護国寺東寺と金剛峯寺が、新義真言宗からは智積院と長谷寺が各々交替で真言宗の管長に就任することになった。管長は全真言宗を統括し宗務に当たることとなり、真言宗にも一宗一管長制が導入されることとなった。
しかし、1878年(明治11年)、仁和寺・大覚寺・広隆寺・神護寺・西大寺・法隆寺・唐招提寺が古義真言宗から離脱し、仁和寺内に西部真言宗と称する宗派を立てて、独自の管長を置く。また、新義真言宗の智積院・長谷寺も離脱し、真言宗新義派と称して独自の管長を置き、古義真言宗の金剛峰寺・東寺は合併して、古義真言宗から真言宗と称して独自の管長を置いた。こうして、真言宗は一宗一管長制が瓦解して、西部真言宗・真言宗新義派・真言宗となり、3人の管長が存在する状態となった。このことは、政府の知るところとなり、内務省から、一宗一管長制を採るよう通達があった。これを受け、霊雲寺において、古義派・新義派で合同会議が行われた。結果、1879年(明治12年)に正式に合同が図られた。あわせて、教王護国寺東寺を総本山にして、長者の称号を復することになった。
1896年(明治29年)、醍醐寺が真言宗からの分離独立、金剛峯寺も同様の請願が、真言宗宗会に提出された。この請願は内務省で審議されたが、結局、不認可となった。
1899年(明治32年)10月、真言宗宗会にて、画一宗派(かくいつしゅうは。古義・新義真言宗各派が合同協力して、全真言宗を統括していく)と分離独立派(古義・新義真言宗の各本山には、歴史的経緯や事相(真言密教の修法・儀礼)の流派の違いなどから、各本山ごとで独自の宗派を立てて、宗団を維持していく)の二派による対立があり、紛糾した。
1895年(明治28年)6月、真言律宗(西大寺)に対して独立が認可される。
1900年(明治33年)9月、真言宗高野派(金剛峯寺)・真言宗御室派(仁和寺)・真言宗大覚寺派(大覚寺)・真言宗醍醐派(醍醐寺)・新義真言宗智山派(智積院)・新義真言宗豊山派(長谷寺)・律宗に対して独立が認可された。 さらに、1907年(明治40年)、真言宗東寺派(東寺)・真言宗山階派(勧修寺)・真言宗泉涌寺派(泉涌寺)・真言宗小野派(随心院)が独立し、真言宗は解体された。
真言宗各派の独立により、東寺を真言宗の総本山とする制度が終焉する。
古義真言宗系宗派は、古義八派(真言宗高野派・真言宗御室派・真言宗大覚寺派・真言宗東寺派・真言宗山階派・真言宗泉涌寺派・真言宗醍醐派・真言宗小野派)となり、古義八派連合制度を組織した。
1925年(大正14年)、古義八派連合制度は解体され、宗派の自主独立制が採られた。
1926年(大正15年)、真言宗高野派・真言宗御室派・真言宗大覚寺派は、合同して古義真言宗を組織した。古義真言宗はほかの古義真言宗系宗派との間に真言宗各派協約を締結し、教師・住職の人材交流・相互協力を行った。
日中戦争下の1941年(昭和16年)3月、政府の宗教政策により古義真言宗・新義真言宗系の宗派が合同し、大真言宗が成立する。政府の主導によりこれまでの歴史的経緯や教義の違いを無視して無理やり合同させた。戦時中は、敵国降伏の祈祷が大真言宗の各本山・末寺において度々行われた。
戦後、大真言宗から独立していく古義真言宗・新義真言宗の宗派が相次いだ。新しい宗教法人制度が制定され、その動きは加速した。古義・新義の諸宗派から更に別れ、修験道・儒教・道教等と組み合わさって独自の教義を唱え、真言宗系新宗教と分類される宗教団体が幾つか成立した。真言宗醍醐派に属していた伊藤真乗は真如苑を開いた。これらの団体は、他の仏教系新宗教と異なり、真言宗との関係はおおむね良好である。
宗祖・空海(弘法大師)への敬慕が篤く、10世紀には高野山で空海の入定信仰が起こり、弘法大師信仰(大師信仰)を説いている。
弘法大師信仰の高まりのなかで、稚児大師、修行大師、入定大師、鯖大師、秘鍵大師、日輪大師などで信仰の対象になった。
宗祖・空海は、讃岐国屏風浦(現・香川県善通寺市)の出身で、仏教者であるとともに思想家、著述家、また「三筆」の1人に数えられる能書家として、後の日本文化に多大な影響を与えた人物である。彼は延暦23年(804年)、遣唐使船に同乗して唐に渡り、長安・青龍寺の恵果から密教の奥義を授かった。また、唐で多くの仏典、仏具、仏画などを得、日本へ請来した。
弘仁7年(816年)には高野山(和歌山県伊都郡高野町)の地を得て、ここに金剛峯寺を開創、弘仁14年(823年)には、平安京の官寺であった東寺を嵯峨天皇より下賜され、これら両寺を真言密教の根本道場とした。
835年(承和2年)3月21日に、62歳で高野山で入定した。空海が入定してから86年後の延喜21年(921年)に、弘法大師の諡号が醍醐天皇より贈られた。
密教がインドで起こり、中国を経て、空海(弘法大師)に伝えられ、日本で独立した宗派として真言宗を開くまでに、八祖を経て伝えられたとする伝承があり、真言八祖(しんごんはっそ)という。
付法(ふほう)の八祖と伝持(でんじ)の八祖の二つがあり、空海は著作『秘密曼荼羅教付法伝』『真言付法伝』で、真言密教の起源と付法の七祖・伝持の七祖(付法・伝持の八祖の内、弘法大師を除く七祖)の伝記や付法の系譜を記している。
真言宗のほとんどの寺院は、本堂などに真言八祖((伝持の八祖)・絵像で制作されることが多い)が祀っているのが特徴の一つである。
真言宗の法流の正系を示している。教主大日如来の説法を金剛薩埵が聞いて教法が起こり、真言宗の教えが伝わった系譜である。
真言宗の教えが日本に伝わるまでの歴史に関わった8人の祖師。付法の八祖のうち、仏尊である大日如来、金剛薩埵を除き、2人の祖師を加えた。八祖大師(はっそだいし)とも称される。
手に印を結んだり仏具などを持っているが、これは悟りの本質をあらわしている。
中心とする本尊は、宇宙の本体であり絶対の真理である大日如来。
教理として、4つ。六大(六大縁起)の教え、曼荼羅の教え、三密修行と、上記の即身成仏が有る。
教学として、大日経の教学と、金剛頂経の教学、2つの お経で説かれる教えが、根本所依とされる。
真言密教を学んでいくうえで、事相(じそう)と教相(きょうそう)が重要視される。
事相とは、真言密教を実践する方法、すなわち修法の作法(灌頂・護摩・観法・印契・真言などの行法)を指す。これに対し、教相とは、真言密教の理論である。
教相を学んでいくことで、真言密教の理論を理解し、理論を実践する方法を行うために事相を学ぶ。教相の裏付けのない、事相は無意味な動作になってしまうという。
事相・教相の両方を学ばなければ、真言密教が理想とする境地への到達は出来ないとされている。事相・教相の両方を習得する重要性を説くたとえとして、事相・教相を車の両輪に置き換えて説く場合がある。また、慈雲は「事相を離れて教相なく、教相を離れて事相なし、事教一致して、密義をつくすべき」と述べた。
9世紀半ば(平安時代前期、律令制度から王朝国家に至る転換期)から、事相の研究が盛んとなった。益信に始まる広沢流(ひろさわりゅう)、聖宝を祖とする小野流(おのりゅう)が起こった。両派は、それぞれ六流に分かれて、野沢十二流(根本十二流)になり、やがて三十六流になった。その後、法流は、あわせて100余りを数えた。真言密教の事相の流派は、すべて、広沢流・小野流の二流から分かれた。
平安中期に益信に始まる広沢流、聖宝を始祖とする小野流が起こった。両派は、それぞれ六流に分かれて、野沢十二流(やたくじゅうにりゅう)、または、根本十二流と称される。
野沢十二流の定義では、持明院流を広沢流に入れない。また、中院流を小野流に入れない。いずれの法流も、高野山に移ったためである。これは、御七日御修法など公請の修法に関与しないために区別されただけで、野沢十二流は、東密事相の法流をすべてを示したものではない。
特徴は、儀軌を重んじる。寛朝が建立した京都市右京区嵯峨広沢にある広沢池の南にある遍照寺の所在地名が語源となっている。
広義では、東密事相を2分した場合、小野流の対をなす法流。狭義では、広沢流内の法流、仁和三流、広沢三流をあわせて広沢六流と称する。しかし、六流に属する法流は一定しておらず、観音院流・仁和御流系の北院流・慈尊院流などを入れる説もある。保寿院流・仁和御流・西院流(にしのいんりゅう)を仁和三流と称し、華蔵院流・忍辱山流(にんにくせんりゅう)・伝法院流を広沢三流と称する。
小野流は、真言宗善通寺派大本山随心院(旧称・曼荼羅寺)がある京都市山科区小野が語源となっている。聖宝を小野流元祖、随心院を開創した仁海を小野流流祖とする場合もある。口伝口訣を重じるのが特徴である。
広義では、東密事相を2分した場合、広沢流の対をなす法流。狭義では、小野流内の流派、醍醐三流(理性院流・三宝院流・金剛王院流)と勧修寺三流(随心院流・安祥寺流・勧修寺流)を指す。単に随心院流のみを指す場合もある。
真言宗は日本の仏教宗派の中では分派の多いものの1つである。13世紀末に古義真言宗と新義真言宗に別れ、さらにそこから多種多様な教義が展開して現在に至っているのが特徴である。
大日如来の本地法身説の教学(古義)による。現実世界の一事一物が法身(真理そのものを仏の身体とみなす)の大日如来の説法であると説いている。
覚鑁(興教大師)を派祖とし、大日如来の加持身説の教学(新義)による。現実世界の一事一物は、加持身の大日如来の説法であると説いている。
昭和14年(1939年)の宗教団体法成立により、真言律宗以外の宗派は真言宗として統合された。しかし、戦後は分派独立が相継ぎ、現在は約50の宗派がある。そのうち主要な16派の18の総大本山が、昭和33年(1958年)6月15日に、真言宗各派総大本山会(各山会)を各山の連絡親睦・共通事業の主宰を目的に結成された。これらの寺院を真言宗十八本山という。
各山会の事業として、後七日御修法のほかに密教学芸賞及び密教教化賞の授与がある。受賞者は以下の通りである。
真言宗各派総大本山会所属の各宗派管長・山主と真言宗各派総大本山会所属の各宗派から選んだ定額僧により、毎年1月8日から1月14日までの一週間(21座)にわたって、東寺・灌頂院にて後七日御修法(ごしちにちみしほ)を行っている。真言宗最高の秘儀とされている。
後七日御修法は真言院御修法(しんごんいんみしほ)などと呼ばれ、通称は御修法(みしほ・みしゅほう)と呼ばれている。真言宗最高の秘儀・厳儀とされる。
正月1日から7日まで宮中で行われている、神事である宮中前七日節会に対する行事。834年(承和元年)に、仁明天皇の勅を奉じて、空海(弘法大師)が宮中真言院にて、国家安泰・玉体安穏(ぎょくたいあんのん)・五穀豊穣・万民豊楽(ばんみんぶらく)を祈って行われてから、毎年、宮中の恒例行事として正月に行われていた。
南北朝時代の戦乱期や地震などを含めて、数度、中断する時期があったが、後水尾天皇と醍醐寺座主義演の尽力により、1623年(元和9年)に170年ぶりに復活された。1871年(明治4年)に廃仏棄釈の影響により廃止されるまで行われていた。
釈雲照らの嘆願により、1883年(明治16年)1月8日に復活した。そのときから、修法を行う場所を宮中から東寺・灌頂院に移した。
1920年(大正9年)以降は、古義真言宗と新義真言宗の各本山が協同して修法を行うようになった。
1968年より、各山会の事業となった。
修法は、合計21ヶ座行われる。勧修寺流(金剛界法)と西院流(胎蔵界法)の両界を1年置きに交互に修し、息災・増益の護摩と五大明王、十二天、聖天法などを併せて修する。
前日の7日、修法に出仕する供僧が、東寺の集会所で習礼を行う。
初日(開白)の1月8日には、宮内庁より、天皇の御衣を納めた唐櫃を捧持した勅使を東寺・灌頂院に遣わして、御衣を東寺灌頂院道場の内堂の瑜伽壇上に安置する。
11日(中日)・14日(結願)は勅使が、東寺・灌頂院の道場において焼香し、参拝をされる。同日14日、勅使に御衣奉還の儀式を東寺灌頂院の前堂にて行い、後七日御修法は成満する。
修法で使用する念珠・五鈷杵・袈裟などは、空海(弘法大師)が唐(中国)より持ち帰った法具である。以前は、東寺長者が大阿闍梨を務めていた。
結願後に限り、東寺灌頂院道場への一般参拝が許されている。
これらの宗派はほとんどが戦後の分離独立であるが、寺院そのものは古くからあったものや新設されたものなど、さまざまである。