紀三井寺
日本の和歌山県和歌山市にある仏教寺院 ウィキペディアから
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紀三井寺(きみいでら)は、和歌山県和歌山市紀三井寺[注 1]にある救世観音宗(ぐぜかんのんしゅう)[1]の総本山の寺院。山号は紀三井山。院号は護国院。本尊は十一面観世音菩薩(十一面観音)。寺号は金剛宝寺であるが、紀三井寺の名前で知られている。西国三十三所第2番札所。
紀三井寺 | |
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境内 | |
所在地 | 和歌山県和歌山市紀三井寺1201 |
位置 | 北緯34度11分06.6秒 東経135度11分24.1秒 |
山号 | 紀三井山 |
院号 | 護国院 |
宗旨 | 古義真言宗 |
宗派 | 救世観音宗 |
寺格 |
総本山 勅願所 関東祈祷所 |
本尊 | 十一面観音(秘仏、重要文化財) |
創建年 | 伝・宝亀元年(770年) |
開山 | 伝・為光 |
正式名 | 紀三井山金剛寶寺護國院 |
別称 | 紀三井寺 |
札所等 | 西国三十三所第2番 |
文化財 |
楼門、鐘楼、多宝塔ほか(重要文化財) 本堂、開山堂、大師堂ほか(県指定有形文化財) 木造天部立像、絹本著色地蔵菩薩立像、木彫釈迦如来像ほか(市指定有形文化財) 日本名水百選 日本さくら名所100選 |
公式サイト | 紀三井寺のホームページ |
法人番号 | 6170005000386 |
本尊真言:おん まかきゃろにきゃ そわか
ご詠歌:ふるさとをはるばるここに紀三井寺 花の都も近くなるらん
寺号は金剛宝寺と称し、宗教法人としての公称は護国院であるが、古くから紀三井寺の名で知られる。楼門前の石柱には「紀三井山護国院」、本堂前の石柱には「紀三井寺」とある。「紀三井山金剛宝寺」「金剛宝寺護国院」ともいう。宗派としては真言宗山階派に属していたが、1951年(昭和26年)に独立して救世観音宗総本山を名乗り、山内子院6か寺および末寺14か寺を包括する[2]。
寺域は紀ノ川河口平野の南部にある名草山(なくさやま、標高228.7m)の西側中腹(標高50m辺り)にあって、境内から和歌浦湾を一望のもとに収める[2]。山内に涌く三井水(さんせいすい:吉祥水・清浄水・楊柳水)は紀三井寺の名の由来とされ、いずれも水源には慶安3年(1650年)の年記とそれぞれの名水の名を刻銘した砂岩製の水槽がある。これらの水槽は紀州藩主徳川頼宣の命により設けられたものである[3]。また、三井水は1922年(大正11年)に昭和天皇が和歌浦に投宿した際に調理用水として献上されたほか、1985年(昭和60年)3月に環境庁(現・環境省)が選定した「名水百選」に選ばれている[4]。境内は観桜の名所として名高く、日本さくら名所100選にも選ばれている[5]。また、本堂向かって左の桜の木が和歌山地方気象台のソメイヨシノの標本木に指定されており、近畿地方では最も早く開花することが通例であることから、「近畿地方に春を呼ぶ寺」としても知られている。
伝承によれば、宝亀元年(770年)に唐の僧・為光が日本各地を行脚していた時、名草山山頂から一筋の光が発せられているのを見た。光の元をたどって名草山に登った為光は、そこで金色の千手観音を感得した。為光は自ら十一面観音像を彫刻し、胎内仏としてその金色千手観音像を奉納し、草堂を造って安置し、千手観音を秘仏として納めたのが紀三井寺の始まりであるという。名草山に三つの霊泉(清浄水、楊柳水、吉祥水)があることから「紀三井山」という山号になったといわれるが[6]、『紀伊続風土記』は付近の旧地名「毛見(けみ)」(毛見浦)が転じたものと伝える[7]。
平安時代末期には後白河法皇によって当寺は勅願所と定められて以後隆盛を極め、鎌倉時代には止住する僧侶も五百人を越えたと伝えられる[6]。
紀三井寺の中世の寺領と記録について、『紀伊続風土記』は次のように伝える。
〔前略〕合せて四十九町中世以後寺領とす。天正十三年豊臣太閤征伐の時、皆没収せらる。此ノ時寺に伝ふる所の綸旨院宣種々の文書等皆散失す。 — 紀伊続風土記[8]
このため、中世の紀三井寺について詳しいことは分からないが、各種の資料から断片的に見出される記述からは、日前國懸社と深い関係にあると見られていたことが分かる。嘉禎4年(1238年)の日前宮文書によれば、毛見郷は日前宮領に属し、名草山を「三井之神山」と称しているほか、日前國懸社神主家57代国造紀俊文の詠歌にも名草山の名が見える。また、応永年間(1394年 - 1428年)には、日前國懸社の祭礼に警固の兵士を送ったという。その他、興国寺の開山たる心地覚心(法燈国師)が招かれて、紀三井寺の南に紀三井寺僧妙蓮のために建立された報恩寺仏殿の落慶法要を営んだと興国寺の記録にある[7]。
前出の通り、中世紀三井寺の寺領は49町を算したが、天正13年(1585年)羽柴秀吉による紀州征伐の際に没収されて失われた。慶長6年(1601年)に和歌山城主浅野幸長により紀三井寺村内の13石が寄進された。次いで、紀州徳川家初代の徳川頼宣によって8石と燈明料をが寄進されたほか、境内の地子が免じられ、正保4年(1647年)には境内における殺生が禁じられている[8]。また、紀州徳川家歴代藩主が頻繁に来山し、当寺は「紀州祈祷大道場」として尊崇された[6]。
室町時代以降には西国三十三所ないし熊野詣での隆盛により、多くの参詣者が訪れた。中世の紀三井寺は多くの僧侶・子院が一体混然として一山を形成する一山寺院であって[9]、妻帯僧が寺僧となり、本堂脇には造営・修造のための勧進を担う穀屋(今日の穀屋寺)[注 2]があったという。寺僧の中からは、法用を勤める法橋として年老14名が充てられ、これを当寺の詠歌の詠み手でもある花山院の永宣旨によって許可されたというが、その永宣旨は伝来しない[10]。穀屋は比丘尼寺であって、観音御影や牛玉宝印の木版を所持し、参詣者に配札していた[11]。
穀屋寺には複数の勧進関連の文書が伝来する。文安6年(1449年)の勧進状は、嘉吉元年(1441年)に何らかの壊滅的打撃(おそらく南朝残党と紀伊守護畠山氏の衝突による兵火)があったことを示唆する内容が記され、諸堂を再建したものの、なおも未成であった多宝塔復興のための勧進であった[8]。大永2年(1522年)の勧進状では、堂舎修理のための勧進を仰いでおり、堂塔の再興修復が穀屋によって担われてきたことが分かる[8]。また、元禄11年(1698年)の「穀屋寺移転ニ付口上書」は、天正13年(1585年)に穀屋比丘尼の春古は羽柴秀吉の紀州攻めに際して、秀吉との直接交渉に臨んで山内安堵の証文を得たことにより焼討を回避した[12]と伝えており、このように積極的な活動を示した穀屋は、他の諸寺社にも見られるように堂舎の再興修復を通じて、それまで以上に大きな役割を果たし、寺内における地位を高めた[13]。
秀吉の紀州攻めの翌年、天正14年(1586年)に本願坊が創建され、後の明暦年間(1655年 - 1658年)に護国院と改称した。後に本坊となる護国院はそれ自体が本願勢力であり[14]、初代の本願に任じられた良純房は、吉原村の出身で姓は林氏であったと伝えられる[8]。近世における徳川政権の寺院政策は、当初、それに先立つ織田信長・豊臣秀吉のそれと同じく、武装解除と中世以来の寺領没収、および新たな朱印領の賦与であったが、のちに寛文5年(1665年)の諸宗寺院法度において一山寺院に対する統一した政策が出され、その一環として寺内秩序や勧進活動への制限が行われたことにより、本願勢力は地歩を後退させられた[15]。紀三井寺では、宝永2年(1705年)に穀屋寺が山麓の楼門外に移転させられ[8]、宝暦3年(1735年)には紀三井寺と本末関係が結ばれて、かつては寺内の有力子院であった穀屋寺はいち末寺に格下げされた[16]。
当寺は長らく真言宗山階派の寺院であったが、1951年(昭和26年)に独立して救世観音宗(ぐぜかんのんしゅう)の総本山となった。山内・県下あわせて16ヶ寺の末寺を擁する[6]。
近年ではバリアフリーを強化しており、2020年(令和2年)11月13日には山腹の駐車場から本堂を結ぶエレベーターが設置された[17]。次いで、2022年(令和4年)4月5日には紀三井寺ケーブルが完成し、楼門の下にケーブルカーの駅が設けられ、山腹の駅まで上がれるようになった[18]。ここから延びる道を進むとエレベーターに乗ることができる。
JR紀三井寺駅から徒歩10分ほどのところに境内入口の楼門が建つ。そこから231段の急な石段を上りきったところが境内の中心部で、正面に六角堂、右手に2002年(平成14年)建立の新仏殿、左手には本堂などが建つ。本堂脇の石段をさらに上ったところには多宝塔などがある。楼門の下にはケーブルカーがあり、そこから平坦な道を進むとエレベーターに接続している。このエレベーターで本堂の横にまで行ける。
和歌山市指定名勝。紀三井寺の寺名のもととなったとされる「清浄水」、「楊柳水」、「吉祥水」の3つの湧き水である。紀三井寺の三井水(さんせいすい)として名水百選に選定されている(1985年〈昭和60年〉)[4]。清浄水は参道石段の途中右側にある小滝である。楊柳水はそこから小道を入った突き当たりにある井戸。吉祥水は境内からいったん楼門を出て右(北)へ数百メートル行ったところにある井戸である。楊柳水と吉祥水は荒廃していたのを20世紀末に復旧整備したものである[27]。
重要文化財の仏像はいずれも平安時代中期から後期の作品である。
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