瓜生外吉
日本の海軍軍人 ウィキペディアから
日本の海軍軍人 ウィキペディアから
瓜生 外吉(うりう そときち[1][2][3][注釈 1]、安政4年1月2日(1857年1月27日) - 昭和12年(1937年)11月11日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。位階は正二位男爵。
加賀藩支藩の大聖寺藩士・瓜生吟弥(禄高は90石[5])の次男として生まれる。藩の洋式軍事学問所「壮猶館」の分校七尾語学所を経て、明治5年(1872年)、海軍兵学寮に入る[6]。キリスト教に帰依し、東京第一長老教会(明治7年〈1874年〉に設立)のメンバーになる[7]。カロザースの築地大学校で学ぶ[8]。
明治8年(1875年)にアメリカに留学。明治10年(1877年)9月にアナポリス海軍兵学校に入校[9]、明治14年(1881年)6月に同校を卒業し、同年11月2日[10][注釈 2]に大日本帝国海軍の海軍中尉に任官。
「摂津」分隊長、「海門」分隊長、「扶桑」分隊長、海軍大臣伝令使、将官会議書記、参謀本部海軍部第3局第2課長、防護巡洋艦「浪速」副長、砲艦「赤城」艦長などを歴任。
明治24年(1891年)、海軍大佐・横須賀鎮守府海兵団長となり、フランス公使館付海軍武官、「秋津洲」艦長を歴任。
「扶桑」艦長を務めていた明治30年(1897年)10月、瀬戸内海を航海中に荒天のため防護巡洋艦「松島」・防護巡洋艦「厳島」との接触事故を起こして「扶桑」の船体を大破させ、翌年4月に軍法会議で軽禁錮3か月の判決を受けた。
復帰後、佐世保鎮守府軍港部長、「松島」艦長、戦艦「八島」艦長を経て、明治33年(1900年)に海軍少将・軍令部第1局長。常備艦隊司令官を経て、明治36年(1903年)12月に第2艦隊司令官[注釈 3](第4戦隊司令官)に補され、日露戦争(明治37年〈1904年〉2月6日に開戦)劈頭の 仁川沖海戦(同年2月9日)で勝利した。同年6月に海軍中将に進級。
戦後、竹敷要港部司令官を経て佐世保鎮守府司令長官に親補され、明治40年(1907年)9月に男爵を授けられた。
その後は、将官会議議員を経て、明治42年(1909年)5月から、妻の繁子と共に、日米関係を改善する命を帯びてアメリカに出張し、互いの母校であるアナポリス海軍兵学校(メリーランド州)とヴァッサー大学(ニューヨーク州)を訪問した[11]。明治42年12月に横須賀鎮守府司令長官に親補された。大正元年(1912年)10月に海軍大将に親任され、大正2年(1913年)5月に予備役に編入された(昭和2年〈1927年)〉1月に退役)。
大正3年(1914年)にはパナマ運河開通記念博覧会に日本代表として参列。大正11年(1922年)から3年間貴族院男爵議員を務めた。
大正11年の冬頃から、膠原病(当時は治療不能)の症状が顕在化して行動の自由を失い、長い闘病生活に入った[12]。昭和3年(1928年)11月3日に妻の繁子が病没した(満67歳没)[13]。
アメリカと深い縁を有する瓜生は、昭和12年(1937年)7月に勃発した日中戦争による日米関係の急激な悪化を憂い、連邦上院議員を務めるアナポリス海軍兵学校同期生に手紙を書いた[14]。瓜生の手紙は、"Dying Hero Wrote for Peace"[14]と題して同年11月12日付(アメリカ時間)のニューヨーク・タイムズ紙に掲載されたが[14]、瓜生は11月11日(日本時間)に神奈川県小田原市(瓜生は膠原病の症状緩和のために気候が温和な小田原市に転居していた[12])の病院で老衰により死去していた(満80歳没)[15]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.