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江戸時代後期の考証学者 ウィキペディアから
狩谷 棭斎(かりや えきさい、安永4年12月1日(1775年12月23日) - 天保6年閏7月4日(1835年8月27日)は、江戸時代後期の考証学者である。名は初め高橋真末、後に改名して望之(もちゆき)[1]、字は卿雲、通称は津軽屋三右衛門(11代目)、別号を求古楼。戒名は常関院実事求是居士。
江戸の下谷池之端仲町に生まれる[2]。父は書籍商・高橋高敏[2]。25歳で従祖弟・狩谷保古の養子となる。津軽藩御用達という富裕な町人身分にして、幼少時から学問を好み、1794年ころから屋代弘賢に師事して和漢の学を授けられた。
棭斎は青年期の頃より古代日本文化の考証につとめ、考古遺品の収蔵と並行して金石文・古銭の研究を行っていたが、やがて漢籍善本の蒐集と校閲にすすみ、書誌学の方面にて非凡な見識を示した。たとえば「説文」について、もっとも親交のあった松崎慊堂と山梨稲川らと共同で討究した。「度量衡」については、1790年以来、西遊(近畿方面への旅行)を10回近く行ったほか、1832年には正倉院御物の諸尺拝観を実施するなど、いわゆる実証主義に徹した。「和名抄」についても松崎慊堂と研究会を重ね、比較考証に精細を極め、町人の学者として北静盧(屋根屋三右衛門)・市野迷庵(市野屋三右衛門)とあわせて「三三右衛門」と称される[3]。晩年は浅草の住居を「実事求是書屋」と称した。
晩年の森鷗外が、史伝(『澀江抽齋』、『伊澤蘭軒』、『北條霞亭』の続編)の著述を意図し、資料を集めたが公務と病で果たせなかった。
二女の俊(たか、とし)は、伊沢蘭軒の二男で幕府の奥医師となった柏軒(1810-1863、盤安)に嫁いだ。才女として知られ、「今少納言」と呼ばれた[4]。
『狩谷棭斎全集』「日本古典全集」全9冊、1927-28年、同刊行会。正宗敦夫・神田喜一郎ほか校訂
『狩谷棭斎全集』「日本古典全集」オンデマンド版・現代思潮新社、2008年
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