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清棲 幸保(きよす ゆきやす、1901年〈明治34年〉2月28日 - 1975年〈昭和50年〉11月2日)[1]は、日本の鳥類学者。宇都宮大学教授。
戦前は華族で、爵位は伯爵。位階は正五位。伊達政宗の男系子孫である。旧姓・真田(真田伯爵家)。清棲家は、旧皇族(伏見宮家)から臣籍降下した華族。初代当主が、伏見宮邦家親王の第15王子の清棲家教で、2代当主が幸保である[2]。
幸保は、鳥類の渡り、繁殖、食性、日本アルプス、中国、朝鮮などの鳥の生態を研究、特に野鳥の写真を撮影し、貴重な資料とした。日本における野鳥撮影の第一人者である[3][4]。 14年をかけたて完成させた「清棲図鑑」と呼ばれる『増補改訂版・日本鳥類大図鑑全3巻、増補版1巻』は戦後最高の鳥類図鑑で名著と名高く、黒田長禮による『鳥類原色大図説』、山階芳麿による『日本の鳥類と其の生態』と並び、日本鳥類三大図鑑と呼ばれ、多くの鳥類学者に影響を与えた[5]。
1901年(明治34年)2月28日、旧松代藩第10代藩主・真田幸民(真田伯爵家)の三男として東京府東京市麻布区材木町(現在の東京都港区六本木)に生まれる。また、父方の祖父は伊予国宇和島藩第8代藩主で、伊達伯爵家の伊達宗城。
学習院初等科の頃から、昆虫採集や鳥の標本作成に興じる。学習院では成績優秀かつ容姿端麗で知られた。学習院高等科を卒業。
東京帝国大学理学部動物学科に入学。在学中、伏見宮家出身の貴族院議員・宮中顧問官の清棲家教伯爵の養子となり、1923年(大正12年)に養父の死に伴って22歳で家督を相続、同年8月10日に伯爵を襲爵した[1][6]。
東京帝国大学卒業後、1927年(昭和2年)まで徳川義親侯爵が設立した徳川生物学研究所の研究員となる(1924年(大正13年)4月17日付『朝日新聞』で、徳川らと共に紹介されている)[7]。
1925年(大正14年)、伏見宮博恭王の第二王女・敦子女王と結婚。敦子との間に二男二女をもうける[8]。
1932年(昭和7年)、農林省畜産局鳥獣調査室に奉職。併せて、京都帝国大学大学院で川村多実二に師事し、鳥の生理学的研究を行う。
1936年(昭和11年)、最初の妻・敦子と死別。享年30[9]。
1942年(昭和17年)、文部省資源科学研究所にて、極東地域の鳥の生態を研究。
1947年(昭和22年)に清棲みつと結婚[10]。みつとの間に、地球惑星科学者 / 地球宇宙化学者として富山大学教授などを歴任した清棲保弘[11][12]や鳥類学者の清棲保之など三男一女をもうける。
1954年(昭和29年)、宇都宮大学講師。のち助教授をへて、教授。1964年(昭和39年)に教授を退官。
1956年(昭和31年)5月4日、博士論文「日本鳥類の生態に関する研究」により理学博士(京都大学)を取得。
1975年(昭和50年)11月2日、老衰のため東京都目黒区の自宅で死去。74歳没。喪主は妻みつ。
代表的な著作に名作と名高い『日本鳥類大図鑑』全3巻(1952年、講談社)や『原色日本野鳥生態図鑑1 2』がある。 他にも『野鳥の事典』、『日本北アルプスの鳥』、『花・鳥・虫・写真随筆』など多数。 みつとの間の子である保之も鳥類学者であり、1974年(昭和49年)には共著として『渡り鳥』(保育社)を出版している[13]。
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