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清棲 家教(きよす いえのり、1862年6月19日(文久2年5月22日) - 1923年(大正12年)7月13日)[1][2]は、皇族(伏見宮家)出身の日本の華族(伯爵)。佛光寺第26代管長を務めたあと還俗し、貴族院議員、官選県知事などを務めた。
臣籍降下した後、形式的ではあるが皇籍復帰した直近最後の人物である。
文久2年(1862年)、伏見宮邦家親王の第15王子[1]として江戸で[2]生まれる。幼称は六十宮[2][3]。
慶応2年(1866年)に臣籍降下して真宗仏光寺第25代管長教応(法名は真達、鷹司政通三男)の養子となる。明治元年(1868年)、仏光寺を相続[1][4][5]、仏光寺第26代管長となった。明治5年(1872年)には華族に列し、寺の所在地から取った渋谷(しぶたに)を家号として[1][4]、渋谷 家教(しぶたに かきょう)と称した[4]。明治13年(1880年)、大教正[2]。
明治21年(1888年)6月28日に渋谷家を離籍[4]した上で、同日付で形式的に伏見宮家に皇籍復帰したのち、臣籍降下(賜姓降下)して伯爵清棲家教となった。
官報には次のように記載されている[6]。
- 引用註:官報の書式では姓名は下揃えのため、/は空白を指す。
- ○授爵及辭令
- ○明治二十一年六月二十八日
- 授伯爵 / 正四位 清棲家教
- 思召シヲ以テ伏見宮ヘ復歸被仰付 / 佛光寺住職正四位 澁谷家教
- 華族に被列 / 正四位 清棲家教
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妻は倉橋泰顕の長女、満子[1]。子の隆教は渋谷家を継いだため(明治29年に男爵となる[4])、清棲伯爵家は真田伯爵家から養子に入った幸保が相続した[1]。なお、幸保は後に、家教の甥に当たる伏見宮博恭王の第2王女、敦子女王と結婚している[1]。
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