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東京都港区の町名 ウィキペディアから
浜松町(はままつちょう)は、東京都港区の町名。現行行政地名は浜松町一丁目および二丁目。住居表示実施済み区域である。郵便番号は105-0013(芝局集配区)[3]。
港区北東部に位置し、芝地区総合支所管内に属する。JR山手線・JR京浜東北線・東京モノレール羽田空港線の浜松町駅、都営地下鉄浅草線・都営地下鉄大江戸線の大門駅がある。町域の大部分は浜松町駅・大門駅を中心としたビジネス街・商業地であり、ビル街の中に住宅が混在している。東京国際空港(羽田空港)へ延びる東京モノレール羽田空港線の起点駅があることから、日本では主に駅名として広く知られている。
浜松町一丁目は、天正18年(1590年)に徳川家康が江戸城に入城して以来、江戸城の城下町として整備された。慶長3年(1598年)、徳川将軍家菩提寺である増上寺が麹町より現在地に移った。慶長6年(1603年)には、東海道が現在の国道15号線上に定められ様々な店が並び商業地域の中心となり、軒を連ねる店の後ろには、松平家や森家、酒井家など、徳川将軍の家臣である大名屋敷が建ち並び、いわゆる江戸の町が形成された。浜松町一丁目の北側は「芝新銭座」(しばしんせんざ)と呼ばれ、寛永13年(1636年)にこの地に江戸における最初の銭貨鋳造所が設けられ、寛永通宝が鋳造されていたと伝えられている。芝の鋳造所は元文年間(1736年~1741年)頃に姿を消したとされているが、後世まで「新銭座」として地名が受け継がれ、旧町名は「芝新銭座町」という。
その後、「福澤屋諭吉」が誕生した明治2年(1869年)。当時、福澤諭吉と慶應義塾はこの「芝新銭座」に居を構えていた。それまで特定の名称がなかった「福澤塾」は「慶應義塾」と命名され、この新銭座の地が「慶應義塾」の発祥地。時に慶応4年(明治元年)。その敷地400坪余に100人程の塾生を収容できる塾舎が建てられ、本格的な英学塾が発足した。
浜松町二丁目の貿易センタービルの南裏側(旧芝浜松町四丁目の一部)は、かつて芝新網町(しばしんもうちょう)と呼ばれ江戸時代から続く三大貧民窟の一つであり、乞胸(ごうむね)・願人(がんにん)など江戸特有の賤民の居住地であった[6]。いずれも徳川時代の旧非人系の被差別部落であり、資本主義の発展の元で都市スラムとして拡大した。日露戦争(1905年)後、都市の拡大とともに、貧民窟には様々な圧力が加わった[7]。下谷万年町や芝新網町では、地価の高騰で家賃が上がり、多くの人々は場末の細民街に移動した。特に屑物屋は営業規則の施行で、荒川区の日暮里や三河島へと移転。四谷鮫ケ橋では、新宿南町の長屋へ移動していく人が多かった。
慶長年間、芝増上寺の代官である奥住久右衛門が名主を務め、この地が久右衛門町と呼ばれるようになる。元禄9年(1696年)、遠州浜松出身の権兵衛が名主となり、町名が久右衛門町から芝浜松町に変更され、芝浜松町一丁目から四丁目が成立した。
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[8]。
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