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福岡県の城 ウィキペディアから
水城(みずき)は、福岡県太宰府市・大野城市・春日市にまたがり築かれた日本の古代の城。城跡は、1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡「水城跡」に指定されている[1]。
水城 (福岡県) | |
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水城跡 概観 | |
城郭構造 | 古代の城 |
築城主 | 大和朝廷 |
築城年 | 天智天皇3年(664年) |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 土塁・城門跡・外濠跡 |
指定文化財 | 国の特別史跡「水城跡」 |
位置 | 北緯33度31分4.97秒 東経130度29分33.56秒 |
地図 |
『日本書紀』に、「・・・。また、筑紫国に大堤(おおつつみ)を築き水を貯へしむ、名づけて水城(みずき)と曰ふ」と、記載された城である[注 1]。
白村江の敗戦後、倭国には唐・新羅軍侵攻の脅威があり、防衛体制の整備が急務であった。天智天皇三年(664年)の唐使来朝は、倭国の警戒を強めさせた。この年、倭国は辺境防衛の防人(さきもり)、情報伝達システムの烽(とぶひ)を対馬島・壱岐島・筑紫国などに配備した[2]。そして、敗戦の翌年に筑紫国に水城[注 2]を築く。また、その翌年に筑紫国に大野城が築かれた。ともに大宰府の防衛のためである[3]。
水城は、大野城のある四大寺山(大城山)と[注 3]、西側の大野城市牛頸(うしくび)地区の台地の間の、一番狭いくびれ部を塞ぐ形で造られている。全長約1.2キロメートル×高さ9メートル×基底部の幅約80メートル・上部の幅約25メートルの二段構造の土塁で、東西の端部の東門と西門が開く。土塁の基底部を横断して埋設された木樋(もくひ)は、長さ79.5メートル×内法幅1.2メートル×内法高さ0.8メートルである。土塁の博多側の現水田面より5メートル下に、幅60メートル×深さ4メートルほどの外濠が存在する[3]。
水城は、平野を遮断する直線的な土塁と外濠をあわせもつ「城壁」(防塁)である。中央に御笠川が北流する沖積地の軟弱地盤に築かれる。土塁の最下層部に多量の枝葉を混入し、基礎地盤を強化する、敷粗朶(しきそだ)工法で施工されている。また、土塁の上層部は、土質の異なる積土を10センチメートルほどの単位で硬く締め固めて積まれた、版築(はんちく)土塁である[4]。
水城は、博多湾側の福岡平野から筑紫に通じる平野を閉塞する「遮断城」である。東門と西門が設けられ、福岡方面から2道が通過していた。西門は3期の変遷が確認され、大宰府と筑紫館(後の鴻臚館)を結ぶ、儀礼的な外交の主要道として8世紀後半まで機能していたとされている[5][6]。
水城の西方に、丘陵の間を塞ぐ複数の小規模の土塁遺構がある。水城と一連の構築物で、「小水城(しょうみずき)」と総称される。土塁の長さ約80メートルの「上大利小水城」・土塁の長さ約100メートルの「大土居小水城」[注 4]・土塁の長さ約80メートルの「天神山小水城」[注 4]などである[7]。
また基山町にも、基肄城に連なると考えられる関屋土塁跡やとうれぎ土塁跡があり、これらも小水城と呼ばれる。
天智政権は白村江の敗戦以降、唐・高句麗・新羅の交戦に加担せず、友好外交に徹しながら、対馬 - 九州の北部 - 瀬戸内海 - 畿内と連携する防衛体制を整える。また、大宰府都城の外郭は、険しい連山の地形と、それに連なる大野城・基肄城と平野部の水城大堤や小水城などで防備を固め、この原型は、百済の泗沘都城にあるとされていた[8]。しかし当時はまだ大宰府が機能していなかったとして否定されつつある。
遺構に関する事柄は、概要に記述の通り。
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