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気比松原(けひのまつばら)は、福井県敦賀市の景勝地。虹の松原、三保の松原に並び、日本三大松原の一つとされ[1][2]、1934年(昭和9年)に国の名勝に指定[3]されている。また、若狭湾国定公園の一部であり、みなとオアシス敦賀の構成施設の一つでもある。
『万葉集』や『日本書紀』にも詠まれており、古くから知られる敦賀の景勝地である。日本の白砂青松100選、日本の名松100選、日本の自然100選、レクリエーションの森に選定されている[1]。松原の中には散策路がめぐらされている。
敦賀湾の奥に面し西側半分を占める、長さ約1.5キロメートル、広さ約34万平方メートル[4](このうち国有林は、幅0.4キロメートル、長さ約1キロメートル、面積32ヘクタール[5])の松原で平均樹齢は約200年の17,000本の赤松・黒松が並ぶ。日本の海岸の松林は黒松が多いが、気比松原では赤松が85パーセントを占めている。
普段は静かでひっそりとした場所であるが、夏は市営松原海水浴場として開放され、近畿や中京からの海水浴客で賑わい、また日本海一と自称する花火大会と併せて行われる灯籠流しの会場として賑わう。冬は、雪化粧された松林と日本海の荒波とがあいまった壮麗な風景となる。
年に2-3回ほどマツ材線虫病防除の薬品を散布するため、立ち入り禁止となる日がある。また、マツ材線虫病の感染拡大を防ぐため、感染木の伐倒駆除や殺菌剤樹幹注入による防除もおこなわれている。
平安時代の9世紀には、石川県羽咋郡志賀町福浦港の福良津と共に渤海使のための施設松原客館が置かれた。古来より氣比神宮の神苑として神人が近隣住民の利用を管理していたが、戦国時代に入ると1570年(永禄13年/元亀元年)の織田信長の越前攻略により氣比神宮の所領などが没収され、このときに松原も没収された。江戸時代には小浜藩の御用木(藩有林)となり、近隣住民は藩への納税によって燃料となる松葉採集を行ってきた。松原はこうした管理によって後世へと残った[6]。
明治時代以降は官有林となり、1899年(明治32年)に国有林野法制定とともに国有林となった。現在、潮害防備保安林および保健保安林に指定され、林野庁福井森林管理署によって保護管理がなされている。
国有林の面積は1898年(明治31年)時点には約76ヘクタールあったが、明治末から大正時代にかけて松原村小学校、敦賀商業学校、松原神社などに使用され約65ヘクタールになり、1943年(昭和18年)には船舶用の材木として伐採され約33ヘクタールまで縮小、さらに太平洋戦争後、住宅や道路も作られ、現在の約32ヘクタールとなった[1]。
また、戦時中は日本陸軍の高射砲陣地が築かれ、敦賀空襲の際には敵機(P47、B-29)と交戦している。現在の松原グラウンド周辺にあったという。
松原内の駐車場近くに設置されている「一夜の松原由来碑」によれば、以下のような伝承がある[7]。聖武天皇の時代に、外国から異族の大船団が来襲した。そのとき、一夜にして松林が出現し、氣比神宮の神の使いである白鷺が、松の頂に多数とまった。これを見た異族は、大軍勢の旗指し物とみて、恐れをなして、逃げていったという。これに由来し、「一夜の松原」とも呼ばれるようになった。
気比の松原は古くから多くの貴人、歌人、文化人に愛で賞されており、近代以降に以下のような多くの記念碑や句碑などが建立されている[2][8][7]。
〒914-0801 福井県敦賀市松島町
東側には戦災を免れた古くから残る住宅が寄り集まっている。松原を囲むように住宅や学校が立地している。
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