Loading AI tools
日本のグラフィックデザイナー ウィキペディアから
杉浦 非水(すぎうら ひすい、1876年〈明治9年〉5月15日 - 1965年〈昭和40年〉8月18日)は、近代日本のグラフィックデザイナー。本名は杉浦朝武(すぎうら つとむ)[1]。日本のグラフィックデザインの黎明期より活動し、商業美術の先駆けであり現代日本のグラフィックデザインの礎を築いた人物の一人として重要である。
1876年愛媛県松山市で、白石朝忠の長男として生まれる[2]。のち杉浦祐明の養子になる[3]。
当初は日本画家を志し、四条派の画家松浦巖暉に師事。1897年の上京後は川端玉章に師事し、東京美術学校日本画選科に入学[4]。この東京美術学校在学中に洋画家の黒田清輝より洋画や欧風図案の指導を受け、図案家へ転向する。1901年に同校卒業[5]後は大阪三和印刷所に勤め、図案部主任に就任。しかし、翌年同社図案部解散のため退社。このころから雑誌の表紙などでモダンな欧風の図案(アール・ヌーボー)を発表し、話題を集める。1904年には教諭心得として島根県立第二中学校へ赴任[6]。翌年、再び上京し東京・中央新聞社[3]に入社。
1908年、三越呉服店の嘱託デザイナーとなり、『みつこしタイムス』の表紙を担当する。1910年には三越呉服店の図案主任に抜擢され、中央新聞社を退社。1911年、雑誌『三越』を発刊。1913年、外国向けの公式ジャパンツーリスト英文日本案内パンフレットの装丁を手がける。1921年、日本美術学校図案科講師。飲料メーカーカルピス社の顧問[3]となる。1922年、絵画・図案研究目的でヨーロッパへ留学。1924年に帰国し、ポスター・創作図案研究団体『七人社』[3]を杉浦非水、新井泉、久保吉朗、須山浩、小池巌、原万助、岸秀雄、野村昇ら7人で結成し、同年に第1回の展覧会を三越にて開催。このころからドイツの近代美術表現を取り込む。1927年、月刊ポスター研究雑誌『アフィッシュ』創刊。このころに「地下鉄開通」のポスターを制作。1929年、帝国美術学校(現:武蔵野美術大学)図案科長に就任。大蔵省専売局(現:JT日本たばこ産業)の嘱託として翌年からタバコのパッケージ図案を任される。1937年、全日本商業美術連盟を結成、委員長に就任。
1934年、三越を退社。1935年 同盟休校事件によって帝国美術学校を辞任し、多摩帝国美術学校(現:多摩美術大学)の創設に参加する[7]。同校の校長・図案科主任を兼任する[3]。1955年、日本芸術院恩賜賞受賞。1958年、紫綬褒章受章。1965年、勲四等旭日小綬章受章。同年8月18日没。墓所は東京都港区白金の松秀寺。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.