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1657年に江戸で発生した大火 ウィキペディアから
明暦の大火(めいれきのたいか)は、明暦3年1月18日から20日(1657年3月2日 - 4日)までに江戸の大半を焼いた大火災。かつてはこの年の干支から丁酉火事(ひのととりのかじ)、出火の状況から振袖火事(ふりそでかじ)、火元の地名から丸山火事(まるやまかじ)などとも呼んだ。
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明暦の大火・明和の大火・文化の大火を江戸三大大火と呼ぶが、明暦の大火における被害は延焼面積・死者ともに江戸時代最大であることから、江戸三大大火の筆頭としても挙げられる。
外堀以内のほぼ全域、天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、死者数については諸説あるが3万から10万と記録されている。この大火で焼失した江戸城天守閣は、再建する意見があったが、幕閣の重鎮であった保科正之が資金を市街の復興に充てるとする意見を主張し、これが採用されたため再建されることは無かった。そして現在に至るまで江戸城天守閣は復元も含めて再建されていない。
関東大震災・東京大空襲などの戦禍・震災を除くと日本史上最大の火災であり、ローマ大火・ロンドン大火・明暦の大火を世界三大大火とする場合もある。
この火災の特記すべき点は火元が1か所ではなく、本郷・小石川・麹町の3か所から連続的に発生したもので、ひとつ目の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し、結果的に江戸市街の6割、家康開府以来から続く古い密集した市街地においてはその全てが、焼き尽くされたことである。
このことは、のちに語られる2つの放火説の有力な根拠のひとつとなっている。
当時の様子を記録した『むさしあぶみ』は、火災発生の当時について
扨も明暦三年丁酉正月十八日辰刻ばかりのことなるに、乾のかたより風吹出ししきりに大風となり、ちりほこりを中天に吹上て空にたまひきわたる有さま、雲かあらぬか煙のうずまくか、春のかすミのたな引かとあやしむほどに、江戸中の貴賤門戸をひらきえず、夜は明ながらまだくらやミのごとく、人の往来もさらになし
去年霜月の比より今日に至る迄、既に八十日ばかり雨一滴もふらで
としており、火事の様相を
さしもに深き浅草の堀死人にてうづみけり、その数二万三千余人、三町四方にかさなりて、堀はさながら平地になるのちのちにとぶ者ハ前の死骸をふまへて飛ゆへに、その身すこしもいたまずして河向ひにうちあがり助かるものおほかりけり、とかくする間に重々にかまへたる見付の矢倉に猛火燃えかかり大地にひびきてどうと崩れ死人の上に落かゝる、さて人にせかれ、車にさへぎられていまだ跡に逃おくれたるものどもハむかふへすすまんとすれバ前にハ火すでにまハり、後によりハ火のこ雨のごとくにふりかゝる、諸人声々に念仏申事きくにあハれをもほよす間に前後の猛火にとりまかれ、一同にあつとさけぶ
声、上ハ悲愴のいただきにひびき、下ハ金輪[注釈 1]の底迄も聞ゆらんと、身の毛もよだつばかりなり、
3回の出火の経過は以下のようであったと考えられている。
火災後、身元不明の遺体は幕府が本所牛島新田に船で運び埋葬し、供養のため現在の回向院が建立された。また幕府は米倉からの備蓄米放出、食糧の配給、材木や米の価格統制、武士・町人を問わない復興資金援助を行った。松平信綱は合議制の先例を廃して老中首座の権限を強行し、1人で諸大名の参勤交代停止および早期帰国(人口統制)などの施策を行い、災害復旧に力を注いだ。松平信綱は米相場の高騰を見越して、幕府の金を旗本らに時価の倍の救済金として渡した[要校閲]。それを受けて、地方の商人が江戸で大きな利益を得られるとして米を江戸に送り、幕府が直接に商人から必要数の米を買いつけて府内に送ったため、府内に米が充満して米価も下がった。
この大火を契機に江戸の都市改造が行われ、御三家の屋敷が江戸城外に転出するとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。また、市区改正が行われるとともに、防衛のため千住大橋だけであった隅田川の架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、隅田川東岸に深川など市街地が拡大されるとともに、吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだ。
さらに防災への取り組みも行われ、火除地[4]や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された[4]。現在でも上野広小路などの地名が残っている。幕府は防火のための建築規制を施行し[5]、耐火建築として土蔵造[6]や瓦葺屋根[7][8]を奨励した[5]。
しかし、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われる通り、江戸は以降もしばしば大火に見舞われた。事実、翌年の明暦4年1月10日(1658年2月12日)には再び本郷から神田・日本橋一帯を焼く火災に見舞われている[9]。
出火原因は放火説と失火説があるが、現在も特定されていない。
本妙寺の失火が原因とする説は、以下のような伝承に基づく。この伝承は大火後まもなくの時期に唱えられており、矢田挿雲が細かく取材して著し、小泉八雲も登場人物名を替えた小説を著している。
お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(数え17歳)は、本郷の本妙寺に母と墓参りに行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり、赤面して下を向く。梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か、食欲もなくし寝込んでしまう。名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていたのと同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。しかし痛ましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった。
当時、棺にかけられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていた。この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16歳)のものとなる。ところがこの娘もしばらくして病で亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(16歳)の手に渡る。ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺にかけられ、本妙寺に運び込まれてきた。
さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ち上がったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった。
このことから、この伝承は前述の振袖火事の別名の由来にもなっている。しかし、同時代の浅井了意は大火を取材してこれを「作り話」と結論づけている。
江戸の都市改造を実行するため、幕府が放火したとする説。
当時の江戸は急速な発展による人口の増加にともない、住居の過密化をはじめ、衛生環境の悪化による疫病の流行、連日のように殺人事件が発生するほどに治安が悪化するなど都市機能が限界に達しており、もはや軍事優先の都市計画ではどうにもならないところまで来ていた。しかし、都市改造には住民の説得や立ち退きに対する補償などが大きな障壁となっていた。そこで幕府は大火を起こして江戸市街を焼け野原にしてしまえば都市改造が一気にできるようになると考えたのだという。江戸の冬はたいてい北西の風が吹くため放火計画は立てやすかったと思われる。実際に大火後の江戸では都市改造が行われている。しかし先述のように、幕府側も火災で被害を受けており、江戸城にまで大きな被害が及んだため、幕府放火説には疑問が存在する。
本来、火元は老中・阿部忠秋の屋敷だった。しかし「火元は老中屋敷」と露見すると幕府の威信が失墜してしまうため、幕府が要請して「阿部邸に隣接する本妙寺が火元」ということにして、上記のような話を広めたとする説。
これは、火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあわなかったどころか、元の場所に再建を許されたうえに触頭にまで取り立てられ、大火前より大きな寺院となり、さらに大正時代にいたるまで阿部家が多額の供養料を年ごとに奉納していることなどを論拠としている。江戸幕府廃止後、本妙寺は「本妙寺火元引受説」を主張している。
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