Loading AI tools
低地にある下町に対して、高台にある地域を指す言葉 ウィキペディアから
山の手(やまのて)とは、低地にある下町に対して、高台にある地域を指す言葉である。山手(やまて)とも。
低地に向かって、多数の谷の浸食を受けた台地が入り込んだ地形の地域を指す言葉である。手の形に似た台地であるためという俗説があるが誤りで、「手」は方向を表す(上手―かみて・下手―しもてと同じ)。山側(山の方向)にあたる台地を山の手という。
東京においては歴史的に、江戸時代前期の御府内(江戸の市域 = 朱引、もしくは大江戸)において、江戸城の近辺とその西側の高台の山の手台地(武蔵野台地)を幕臣などの居住地帯である武家屋敷として開発した。
江戸時代中期以降は、江戸の人口増加によって土地が不足し、下町の本所や深川などの城東地区(江戸城の東側)にも武家屋敷が造成されるようになり、町人との住み分けは曖昧になっていった。その一方で、山の手と呼ばれる麹町、麻布、赤坂にも町人町が広がっており、一口に江戸市街、特に山の手といっても、複雑な形相を示していることが特徴である。
朱引の範囲とは差異があるものの、1889年に発足した東京市の旧市域(東京15区)の西半分、麹町区、芝区西部、麻布区、赤坂区、四谷区、牛込区、小石川区、本郷区(現在の東京都千代田区南西部、港区西部、新宿区東部、文京区)が山の手の代表的な地域に相当し、武蔵野台地の東端部にあたる。
日本の近代化とともに山の手は西へと広がり、「第二山の手」と呼ばれる一帯が形成されていき、近代日本のはしりともなった[1]。1920年には豊多摩郡内藤新宿町(現在の新宿区の一部)が東京市四谷区へ編入された。
1923年に発生した関東大震災の復興過程において、山の手はさらに東京西部へと広がりを見せることになった。1932年と1936年に実施された市域拡張によって、東京市域は現在の東京都区部と一致する範囲となり、山の手の範囲も大森区、目黒区、世田谷区、渋谷区、淀橋区、中野区、杉並区、豊島区、滝野川区、王子区、板橋区(現在の東京都大田区北部、目黒区、世田谷区、渋谷区、新宿区西部、中野区、杉並区、豊島区、北区、板橋区、練馬区)にまで広がったため、漠然としたイメージとしての言葉になり、地域としての境界が曖昧になっている傾向も見られる。
東京以外の他地域にも、同じ意味を持つ「山の手」「山手」の地名が存在する。
かつて東京都の水害といえば、江東地域など海に面した地域で発生するものであったが、高度成長期になると山手地域の土地利用が高度化。農地が宅地に代わり森林が失われたため、降雨が間を置かず河川へ流出するようになった。このため昭和30年代には渋谷川、目黒川、神田川などが、昭和40年代には石神井川、妙正寺川、野川、千川など武蔵野台地から流れ出る河川で氾濫が生じるようになった。こうした氾濫を山手洪水と呼ぶこともあった[2]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.