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小川 欽也(おがわ きんや、1934年12月28日 - )は、日本の映画監督、脚本家、俳優、映画プロデューサーである[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]。監督としての別名に三川 和久(みかわ かずひさ)、小川 卓寛(おかわ たかひろ)、小川 和久(おかわ かずひさ)、上田 光生(うえだ みつお)があり、俳優としては姿 良三(すがた りょうぞう)、脚本家としては水谷 一二三(みずたに ひふみ)と名乗る[4][5][7][8]。成人映画の黎明期からの映画作家として知られ[2]、異分野で活躍する山本晋也を除けば、成人映画の世界で現在も現役として作品を発表し続ける唯一の人物である[2][4][5][6][7][8]。監督作は400本を超える[5][8]。
おがわ きんや 小川 欽也 | |
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本名 | 同 |
別名義 |
三川 和久 (みかわ かずひさ) 小川 卓寛 (おかわ たかひろ) 小川 和久 (おかわ かずひさ) 上田 光生 (うえだ みつお) 姿 良三 (すがた りょうぞう) 水谷 一二三 (みずたに ひふみ) |
生年月日 | 1934年12月28日(89歳) |
出生地 | 日本 京都府京都市下京区烏丸通綾小路下ル |
職業 | 映画監督、脚本家、俳優、映画プロデューサー |
ジャンル | 劇場用映画(現代劇・成人映画)、テレビ映画、ビデオ映画 |
活動期間 | 1957年 - |
配偶者 | 有 |
著名な家族 |
中村時二郎 (父) 小川國松 (叔父) 小川英麿 (叔父) |
事務所 | 小川企画プロダクション |
主な作品 | |
『妾』(1964年) 『雌 めす 牝』(1965年) |
1934年(昭和9年)12月28日、京都府京都市下京区烏丸通綾小路下ルに生まれる[1]。父は三代目中村時蔵の弟子・中村時二郎(生没年不詳)、叔父に新派系の元子役の映画俳優、小川國松(1908年 - 没年不詳)、小川英麿(1912年 - 没年不詳)がいる[1]。小川の誕生のころに新興キネマにいた俳優の「小川欽也」(小川欣也)は別人である[11]。幼少時から歌舞伎、映画に親しむ[1]。
1953年(昭和28年)3月、東京都立三田高等学校を卒業、中央大学経済学部に進学する[1]。1957年(昭和32年)3月、同学を卒業するとともに映画界に入るが、最初からフリーランスの助監督として、連合映画、富士映画、京都映画を渡り歩いた[1]。『日本映画監督全集』の小川の項で川島のぶ子は、小川が助監督についた監督として、山本弘之[12]、田口哲[13]、渡辺祐介[14]、近江俊郎[15]、小林悟[16]、曲谷守平[17]、渡辺邦男[18]、小森白[19]、井田探[20]を挙げているが[1]、山本弘之がこの時期に監督した作品は、新映画が製作した『蜘蛛男』(配給大映、1958年6月29日公開)のみである[12]。この時期に連合映画での監督作があるのは渡辺邦男のみ、『アンコールワット物語 美しき哀愁』(配給東宝、1958年3月25日公開)のみである[14]。この時期の京都映画で監督した者は挙がっていないが、1957年に内川清一郎、マキノ雅弘、穂積利昌が監督している撮影所である[21]。井田探が日活の社員[20]であったほかは、これらの監督はみな富士映画および新東宝で作品を発表していた人物である[13][14][15][16][17][18][19]。
1959年(昭和34年)、ニッサンプロダクションが小川に連続テレビ映画『大海獣ゲボラ』のパイロット版製作を発注、小川は6話分を製作・監督した[22][23]。しかし同作は実現せず、翌1960年(昭和35年)、『怪獣マリンコング』として結実したが、小川はこれには関わっていない[22][23]。
その後、富士映画に戻り、次には京都の日本電波映画で助監督を務めた[1]。当時の日本電波映画はテレビ映画のみを製作しており、同社撮影所での作品的には『矢車剣之助』(製作日米映画、1959年 - 1961年)、『琴姫七変化』(1960年 - 1962年)の時期にあたる[24]。1962年(昭和37年)1月に富士映画を母体に大蔵貢が設立した大蔵映画に入社したという[1]。同年、大蔵映画設立第一作『太平洋戦争と姫ゆり部隊』(監督小森白)が公開される前後に製作された成人映画『肉体の市場』(同年2月27日公開)、『不完全結婚』(共同監督木元健太、同年5月1日公開)、『沖縄怪談逆吊り幽霊 支那怪談死棺破り』(共同監督邵羅輝、同年6月13日公開)では、チーフ助監督としてクレジットされ、4歳上の監督・小林悟を支えた[1][4][5][7][8][25]。『太平洋戦争と姫ゆり部隊』では、小川も助監督を務め、格下の助手に若松孝二がいた。同年10月16日に放映を開始した連続テレビ映画『がんばれ!!大作』でメイン監督の曲谷守平を支えつつ、自らも監督としてデビューした[1][9]。同時期に、黒澤明のプロデューサーとして知られた本木荘二郎が監督した『肉体自由貿易』(1962年11月公開)、『毒ある愛撫』(1963年12月3日公開)の助監督も務めている[25]。
劇場用映画の監督第一作は、1964年(昭和39年)5月1日に公開された牧和子(のちの松井康子)主演作の『妾』である[1][5][8][26][27]。同作は、国映(代表・矢元照雄)が製作・配給した作品であり[1][8][26]、下川耿史の指摘によれば、同作は「初のパートカラーを採用」した日本映画だとされる[28]。下川は「この映画で元伯爵家の令嬢で、松竹の大部屋女優だった松井康子がピンク映画デビュー」としているが[28]、松井は前年の1963年(昭和38年)10月に国映が製作・配給した『おいろけ作戦 プレーガール』(監督若松孝二)をはじめ、4作の「ピンク映画」にすでに出演している[26]。同作で主演した松井は「ピンクの山本富士子」として人気を得、各社の大部屋女優が独立系成人映画の世界に流入するきっかけになったという[28]。
『肉体の市場』以降、洋画の配給や怪奇映画の製作配給を手がけていた大蔵映画が、本格的に低予算成人映画に参入するべく、零細プロダクションなみの300万円の製作予算で『雌 めす 牝』を企画、これに『妾』で成功を収めた小川を起用し、1965年(昭和40年)1月に公開したところ[1][4][5][8][27]、同社の同年度最大のヒットとなり、同社は本格的に成人映画に舵を切った[1][27]。小川は同年、結婚した[1]。同年8月公開の監督作『痴情の密漁』では、美矢かほるが本名の「皆川和子」の名でデビューしている[8]。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで成人映画黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、南部泰三、小林悟、新藤孝衛、糸文弘、小森白、山本晋也、湯浅浪男、宮口圭、深田金之助、藤田潤一、小倉泰美、浅野辰雄、渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一とともに、小川の名を挙げている[2]。西原儀一は、既存の映画監督のなかでこの時期に成人映画を手がけた監督として、福田晴一、倉橋良介、田中徳三、萩原遼、深田金之助とともに、小川の名を挙げた[29]。
1968年(昭和43年)には、児井英生の青山プロダクションが製作、日活が配給して同年10月19日に公開された成人映画『秘帳 女浮世草紙』(監督井田探)に「構成」としてクレジットされている[5][30]。同作は、日活アクションで知られる山崎巌が脚本を書き、出演は葉山良二、名和宏といった日活の俳優を中心としたほか、火島こずえ、辰巳典子、林美樹、真湖道代、乱孝寿、中原かほる、高月絢子、あるいは里見孝二、冬木京二といった独立系成人映画の女優・俳優が大挙出演している[5][30]。林美一は、同作を指して「元禄のにおいを何一つ嗅ぐことはできなかった」「小川欽也とあったが、一体何を考証されたのか」と指摘している[31]。西原儀一が「日活の指導に行ったのは小川欽也」[29]とは、この作品のことを指す。当時、日活はまだロマンポルノを始めていなかった[32]。1971年(昭和46年)11月のロマンポルノ開始以降にふたたび小川は、三条まゆみを主演に『私は襲われたい!』を監督し、日活(同時点ではにっかつ)の配給で1979年(昭和54年)6月2日に公開されている[5][8][33]。
監督作は400本を超える[5][8][34]。池島ゆたかは「現役監督で 100本以上撮ってるのは小川欽也さん、稲尾実(深町章)さん、浜野佐知さん、新田栄さんくらいだと思う」「ピンク全盛期の60-70年代から撮ってる人だから、現在とではピンクの年間本数も全然違う」と指摘する[34]。野上正義は「やさしいオヤジだった大蔵の小川欽也さん、この人は、もう大蔵の主みたいなもんですよ」と評す[35]。大蔵映画の創始者である大蔵貢が存命のころ、「痴漢のような犯罪者を描くことはまかりならん」とタイトルに「痴漢」の文字を冠することを拒んだが、小川の説得によりこの禁は解かれたという[27]。小川の作品で初めて「痴漢」の文字を冠した作品は、1975年(昭和50年)10月に公開された『痴漢に燃えた女』であるが、これは通常脚本に使用している「水谷一二三」名義で監督クレジットされた作品である[5][8]。
1972年(昭和47年)8月公開の『セックス裏入門』(主演林美樹、製作・配給大蔵映画)から小川 卓寛、1976年(昭和51年)12月14日公開の『獣欲変態妻』(主演津川玲子・杉佳代子、製作・配給大蔵映画)から小川 和久とメインの筆名を変更している[5][8]。2004年(平成16年)以降、「小川欽也」に戻しており、現在も現役である[5][6][34]。最新作は、2013年(平成25年)10月25日に公開された『乱宴の宿 湯けむり未亡人』(主演舞原美咲)である[5][6]。
2020年4月10日に映画『女ざかり 白く濡れた太股』が公開予定であったが、新型コロナウイルス感染対策により延期された。
2006年(平成18年)7月23日 - 同年8月26日、ラピュタ阿佐ヶ谷で行われた「盛夏納涼 和製ホラームービー・コレクション」特集上映で『生首情痴事件』(同年8月6日 - 同12日)が上映された[36]。2009年(平成21年)3月14日 - 同年5月15日に同館で行なわれた「60年代まぼろしの官能女優たち」の特集上映で、『女王蜂の欲情』(3月21日 - 同27日)、『禁じられた乳房』(4月4日 - 同10日)がそれぞれ16mmフィルム版上映用プリントで上映された[37]。2012年(平成24年)9月2日 - 同3日、神戸映画資料館で行われた「時代を作った活動屋たちと発掘フィルム」特集上映で『禁じられた乳房』が、小川自身の所蔵する16mmフィルム版で上映された[38]。
特筆以外のクレジットはすべて「監督」である[1][4][5][6][7][8]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵状況についても記す[4]。
特筆以外はすべて「小川欽也」名義、第一期の「小川欽也」時代の作品一覧である[1][4][5][7][8]。
特筆以外はすべて「小川和久」名義である[1][4][5][7][8][5]。
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