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江戸時代後期、伊能忠敬が中心となって作製した日本全土の実測地図 ウィキペディアから
大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず、旧字体:大日本沿󠄀海󠄀輿地全󠄁圖)は、江戸時代後期、伊能忠敬が中心となって作製した日本全土の実測地図である。「伊能図(いのうず)」や「伊能大図(いのうだいず、いのうたいず)」とも称される。完成は文政4年(1821年)。
本図は、寛政12年(1800年)から文化13年(1817年)にかけて江戸幕府の事業として測量・作成が行われたものである。上総国出身で商人だった伊能忠敬(1745年 - 1818年)は隠居後に学問を本格的に開始し、江戸にて幕府天文方の高橋至時(1764年 - 1804年)に師事し、測量・天体観測などについて修めていた。当時、地球の緯度1度に相当する子午線弧長について、30里、32里あるいは25里などと諸説があったなか、高橋・伊能師弟はこれを正確に測定するという目標を有していた[1]。そこで高橋は幕府に伊能を推薦し、当時ロシア南下の脅威に備えて海岸線防備を増強する必要があった蝦夷地(現在の北海道)の測量を兼ねて、その往復の北関東・東北地方を測量することで子午線1度の測定を行わせるよう願い出た。こうして幕府の許可を得た伊能は寛政12年(1800年)、私財を投じて第1次測量として蝦夷地および東北・北関東の測量を開始した。各地の測量には幕府の許可を要したが、幕府は測量を許可したばかりか全国各藩に伊能への協力を命じた。これは、その時点で西洋列強の艦船が頻繁に日本近海に現れるようになっており、国防上の観点から幕府も全国沿岸地図を必要とし、伊能の事業を有益と判断したためである[2]。
蝦夷地測量の翌年の享和元年(1801年)には、本州東海岸、東北西海岸、東海・北陸地方沿岸の測量を完了。文化元年(1804年)には、それまでの測量の結果をいったんまとめ、大図69枚・中図3枚・小図1枚(大中小図については後述)からなる東日本の地図を幕府に提出、将軍徳川家斉の上覧に供した。なお、子午線1度の長さについては28.2里(約110.74キロメートル)と算出し、今日の計測値と較べても極めて誤差の小さい(0.2%程度)数値となっている[3]。従来の日本地図とは異なり、実測による正確・精密な地図の質の高さに幕府上層部も驚愕し、伊能の測量事業への支援をいっそう強化することとなった。伊能は正式に幕府天文方の役人として雇用され、翌文化2年(1805年)の第5次測量からは、幕府直轄事業として行われることとなった[4]。
以後、伊能らは文化13年(1816年)の第10次測量まで(第9次測量のみ伊能は不参加)日本全土を測量した[5]。なお、蝦夷地については、伊能らが測量した東蝦夷地を除く範囲については他者の測量成果が用いられており[6]、さらに蝦夷地全域について測量術の弟子である間宮林蔵(1780年 - 1844年)の観測結果を採り入れたとする分析も2014年に発表される[7][8]など不明な点がある[9]。伊能は文化15年(1818年)に完成を待たずに死去するが、その喪は伏せられ[10]、師・高橋至時の子である高橋景保(1785年 - 1829年)が仕上げ作業を監督し、文政4年7月10日(1821年8月7日)「大日本沿海輿地全図」が完成した[11][12]。そして同図は全国の主要地点の地名や緯度を収録した「大日本沿海実測録」とともに幕府に提出された[13]。
測量結果を基に、江戸で伊能らが作図作業を行った。すべて手書きの彩色地図で、利用上の便宜のため以下の3種類の縮尺の地図が作製された。
幕府に提出された伊能図は、江戸城紅葉山文庫に秘蔵され、一般の目に触れることはなかった[14]。あまりに詳細な地図のため、国防上の問題から幕府が流布を禁じたためである。文政11年(1828年)紅葉山文庫を所管する書物奉行でもあった高橋景保が、長崎オランダ商館付の医師であるシーボルト(1796年 - 1866年)に禁制品である伊能図[注釈 1]を贈ったことが露顕し、高橋景保は逮捕され、翌年3月に獄死した(シーボルト事件)。
日本を強制退去となったシーボルトは帰国後の1840年に、伊能図をオランダでメルカトル図法に修正した「日本人の原図および天文観測に基づいての日本国図」を刊行している。その精度の高さにより、当時のヨーロッパ識者の一部に日本の測量技術の高さが認識されることになる[注釈 2]。
開国後の文久元年(1861年)、イギリス海軍の測量艦「アクテオン」が、「攘夷派をあまり刺激しない方が良い」との幕府の勧告を無視して日本沿岸の測量を強行しようとした際、たまたま幕府役人が所有していた伊能小図の写しを見て、その優秀さに驚き、測量計画を中止して幕府からその写しを入手することで引き下がったという[19][20]。なお、このときの伊能図の写しを元に1863年にイギリスで「日本と朝鮮近傍の沿海図」として刊行され、日本に逆輸入されて、勝海舟(1823年 - 1899年)の手によって慶応3年(1867年)に「大日本国沿海略図」として木版刊行された。これにより伊能図を秘匿する意味がなくなったため、同年には幕府開成所からも伊能小図を元にした「官板実測日本地図」が発行され、小図のみとはいえようやく一般の目に供されるようになった。
明治維新で江戸幕府が崩壊した後、幕府が保管していた伊能図も新政府に移譲された。明治3年(1870年)には開成所から名を変えた大学南校から「官板実測日本地図」が再版されるとともに「大日本沿海実測録」も刊行された[21]。
伊能図の原本は、明治6年(1873年)の皇居の大火災の際に焼失してしまう。そこで伊能家に保管されていた控図(副本)が翌年政府に献納された[14]。
この副本により明治10年(1877年)9月には小図を元に文部省から「日本全図」が発行され、明治11年(1878年)6月には中図を元に内務省地理局より「実測畿内全図」が発行された。さらに同局から中小図に基づいて明治13年には864,000分の1図である「大日本全図」が刊行される。そして明治17年(1884年)には大図・中図が陸軍参謀本部測量部(国土地理院の前身の1つ)によって作成された「輯製20万分1図」の基本図になった。他にも各府県で作成された管内地図の多くが伊能大図・中図を元に作成されるなど、近代日本の行政地図において、伊能図は多大な貢献を果たした[14]。
その後、伊能家から献納された伊能図の控えは東京帝国大学の附属図書館に保管されることとなったが、これも大正12年(1923年)の関東大震災ですべて焼失してしまった[22]。以降、長きにわたって伊能図(特に大図)は「失われた地図」となり、千葉県佐原市(現在は香取市)の伊能忠敬記念館に保管されていた写しの一部など、全214枚のうち約60枚の写しのほかは、東京国立博物館が所蔵する中図の写しが残るのみとなっていた。
2001年3月にアメリカ合衆国議会図書館で、伊能大図のうちの207枚(うち169枚が彩色なし)が発見された[23]。これは上記の陸軍による輯製20万分1図作成のための骨格基図として模写されたものが、米国に渡ったものと考えられる。
さらに残る7枚のうち、佐倉市の国立歴史民俗博物館で2枚(34番:蝦夷江差、35番:蝦夷ヲコシリ島)、国立国会図書館で1枚(107番:駿河静岡)が発見された。
最後に残った4枚(12番:蝦夷宗谷、133番:山城・河内・摂津、157番:備中・備後福山、164番:備後・安芸・伊予今治)についても、2004年5月に海上保安庁海洋情報部で保管されていた縮小版の写しの中に含まれていることが判明した[24]。海上保安庁の前身である旧海軍水路部が明治初期に海図を作製する目的で模写したものだという。これらの発見により、伊能大図214枚の全容がつかめるようになった。これを受け、2006年5月に国土地理院所管財団法人日本地図センターが「伊能大図総覧」を刊行し、伊能図が一般の目にも触れられるようになった[25]。大図の詳細な検討によって、伊能忠敬による測量がいかに行われたかなど従来検証しづらかった点についても、今後の研究が期待される。その後も2007年1月に、やはり海上保安庁から高画質の原寸模写図3枚を含む色彩模写図が発見され、2021年に列島を3枚に収めた小図の副本が発見されたことを日本地図学会の専門部会が発表する[注釈 3][26]など、状態の良い伊能図が発見されている。
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