叡福寺
大阪府太子町にある寺院 ウィキペディアから
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叡福寺(えいふくじ)は、大阪府南河内郡太子町太子にある太子宗の本山の寺院。山号は磯長山(しながさん)。本尊は如意輪観音。新西国三十三箇所客番札所。聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳(磯長墓〈しながのはか〉)があることで知られる。開基は聖徳太子または推古天皇とも、聖武天皇ともいわれる。聖徳太子建立三太子の一つで、野中寺(羽曳野市)の「中の太子」、大聖勝軍寺(八尾市)の「下の太子」に対して、「上の太子」と呼ばれている。また、大阪みどりの百選に選定されている[1]。
金堂 | |
所在地 | 大阪府南河内郡太子町太子2146 |
位置 | 北緯34度31分7.05秒 東経135度38分23.14秒 |
山号 | 磯長山 |
宗旨 | 真言宗系 |
宗派 | 太子宗 |
寺格 | 本山 |
本尊 | 如意輪観音菩薩 |
創建年 | 伝・神亀元年(724年) |
開基 | 伝・聖武天皇 |
別称 | 上之太子、上の太子 |
札所等 |
新西国三十三箇所客番 仏塔古寺十八尊第2番 河内西国霊場第21番 聖徳太子霊跡第6番 西山国師遺跡霊場第15番 河内飛鳥古寺霊場第15番 神仏霊場巡拝の道第57番(大阪第16番) |
文化財 |
聖霊殿、多宝塔、絹本著色文殊渡海図ほか(重要文化財) 金堂、鐘楼、石造阿弥陀如来坐像ほか(府指定有形文化財) 境内(府指定史跡) |
法人番号 | 8120105004703 |
この寺にある叡福寺北古墳(磯長墓)には、聖徳太子、太子の母・穴穂部間人皇女、太子の妃・膳部菩岐々美郎女が埋葬されているとされ、「三骨一廟」と呼ばれる[2][3]。叡福寺の所在する磯長(しなが)は蘇我氏ゆかりの地であり、聖徳太子の父(用明天皇)と母はともに蘇我氏の血を引いているが、この古墳の被葬者を聖徳太子とすることについては異説もある。なお、叡福寺近辺には敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇の陵もある。
寺伝によれば、聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を自らの墓所とするように定めたという。推古天皇29年(621年)、穴穂部間人皇女が没するとここに葬られる。翌年の推古天皇30年(622年)には、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬されたといわれる。太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている。約1世紀後の神亀元年(724年)に聖武天皇の発願[4]で東院・西院の2つの七堂伽藍が整備されて東院は転法輪寺、西院は叡福寺と称したという[5]。しかし、このことは正史には見えず史実かどうか定かではない[注 1]。叡福寺の創建年代については諸説あり、実際の創建は平安時代以降に下るとする見方もある。この頃には当時は御廟寺と呼ばれていた。
叡福寺は聖徳太子ゆかりの寺として、歴代の天皇や権力者に重んぜられた。平安時代には嵯峨天皇をはじめ多くの天皇が参拝している。承安年間(1171年 - 1175年)には高倉天皇の勅により、平清盛の命で子の平重盛が堂塔の修理を行っている[5]。また聖徳太子は仏教の興隆に尽力したため、日本仏教の開祖として賛仰された。空海・良忍・親鸞・日蓮・一遍など新仏教の開祖となった僧たちが、太子の墓所があるこの寺に参籠したことが知られている。当寺は法隆寺や四天王寺と並ぶ太子信仰の中核でもあった[4]。
南北朝時代の貞和4年(1348年)1月12日には合戦に巻き込まれて堂舎が炎上している[6]。
なお、当寺は13世紀中頃には御廟寺の他、転法輪寺、科長(しなが)寺、石河寺などと呼ばれており、叡福寺と呼ばれるようになるのは15世紀初頭以降である。以後も当寺の呼び名は増え、太子寺、上太子寺、普門寺などとも呼ばれるようになっていく[7]。
当寺は戦国時代には塔頭も20余あったが[8]、天正2年(1574年)の織田信長による焼き討ちで大きな被害を受けてしまい、古代の建物は一つも残っていない[4]。南にある西方院の寺伝によると、この時の被害は明智光秀の焼き討ちによるものであったという[9]。
その後、後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が伽藍を復興し、慶長8年(1603年)に聖霊殿が再建されるなどし、慶長年間(1596年 - 1615年)に再興されている[4]。
長らく金堂は再建されていなかったが、とりあえず仮屋として正徳5年(1715年)に再建がなされたが[10]、その後、本格的な金堂が建てられることとなり、享保17年(1732年)に金堂がようやく再建された[8]。
当寺は聖徳太子信仰の高まりもあって「三国一の霊場」とも呼ばれるようになった[11]。
当寺の付近には、敏達天皇陵、用明天皇陵、推古天皇陵、孝徳天皇陵、小野妹子の墓、大津皇子の墓、源頼信の墓、源頼義の墓、源義家の墓などがある[4]。
叡福寺が聖徳太子磯長廟として祀り、聖徳太子らの墓所とされる叡福寺北古墳は、宮内庁により皇族の陵墓(磯長墓)に指定されている。1889年(明治12年)、学術調査がなされた。聖徳太子の墓所とするのは後世の仮託だとする説もある。古墳は約直径55メートルの円墳で、横穴式石室をもち、内部には3基の棺が安置されているという。中央の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、東と西の乾漆棺(麻布を漆で貼り固めた棺)には東に聖徳太子、西に膳部菩岐々美郎女(妻)が葬られているとされる。
江戸時代までは参拝のために石室内に入れたというが、明治になり入場が規制され、1889年(明治12年)の修復調査が実施された際に横穴入口をコンクリートで埋めてしまったため、中を調査することは困難である。また調査の際に棺は確認できたが、遺骸は風化して残っていなかったとされている。
墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。2002年(平成14年)に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3か所発掘された。同年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている。
1998年(平成10年)に高麗仏画「楊柳観音像」を含む仏画32点が盗まれた。2004年(平成16年)10月にソウルで韓国人窃盗団が逮捕され、2005年(平成17年)1月には懲役判決を受けた。韓国では、日本にある高麗仏画は文禄・慶長の役や日本統治時代に略奪されたと認識する人もおり、窃盗団は「神が『日本が略奪した我が国の文化財を取り戻せ』と言った」と主張したが、盗品をすぐ売却して金に替えており、金銭目的の犯行だと判明している。「楊柳観音像」は韓国に持ち込まれたといわれているが、行方不明である[24]。
南大門の南側には聖徳太子の3人の乳母を祀る日本最初の尼寺とされる西方院がある。また聖徳廟と南大門の延長線上の南側にある南林寺は叡福寺の四季講堂であったといわれている(南林寺パンフレットより)。
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