内灘町
石川県河北郡の町 ウィキペディアから
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河北郡に所属しており、北西側は日本海に面する。南隣にある県庁所在地金沢市。東の津幡町、北のかほく市とともに金沢都市圏に含まれる。町域のほとんどが内灘砂丘である。河北潟、大野川などがある。日本海側には防風林として松やニセアカシアが植えられている。
東西の距離2.9km、南北の距離9.0kmの広袤(こうぼう)を持つ。最高海抜高度58.51m。
内灘町は河北潟放水路を境に、南部地域と北部地域に区分される [1]。
内灘砂丘は加賀地方(石川県南部)における最初の石器発見地として知られており、また、大根布や宮坂、西荒屋の各砂丘からは縄文時代中期から古墳時代の石斧をはじめ、石包丁や石匙、鏃、玉製品が多く出土していることから、内灘町域には古くから人々が住んでいたとされる[2]。
しかし、古代から中世へかけての内灘町の歴史は、未だに解明されていない事象が多く、内灘町が歴史資料に初めて登場したのは、平安時代の927年(延長5年)に発刊された『延喜式神名帳』に小濱神社が名を連ねてからであり、この地に式内社があったということから、集落が古い時代から形成されていたとされる[2]。
江戸時代になると、加賀藩の支配下となり、今の内灘町にあたる集落群が金津組や十村組として組織された[2]。
明治維新後から第二次世界大戦前、内灘町は遠洋漁業が盛んとなり、また、粟崎遊園が建設されるなど近代化が進んだ[2]。
戦後、1952年(昭和27年)から砂丘地の大部分が在日米軍に接収され米軍砲弾試射場が建設された。ここで、反基地運動の先駆けとなる内灘闘争が起こった[2]。1957年(昭和32年)に米軍は撤収した。この間に試射場の補償事業として公共施設や道路が建設された[2]。
その後、沿岸漁業が不振になり、1957年(昭和32年)の国営砂丘地干拓事業の竣工、1958年(昭和33年)から1963年(昭和38年)の河北潟埋立事業による増田などの農業振興政策が進展した他、家内工業的繊維産業が発展した[2]。
1962年(昭和37年)1月に町制を施行し、金沢市近郊という地理的条件から住宅団地造成が相次ぎ、金沢市のベッドタウンとして人口が急増し、教育、文化施設や都市発展基盤の整備が進められた[2]。1970年(昭和45年)には火力発電所建設計画が持ち上がり、住民らによる激しい反対運動が展開された[2]。
2024年1月1日、能登半島地震が発生。内灘町では震度5弱を観測した。1月8日現在、人的被害は報告されていないが、液状化現象などにより家屋や道路などに甚大な被害を及ぼしている[3][4]。
内灘町と全国の年齢別人口分布(2005年) | 内灘町の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 内灘町
■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
内灘町(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
歴代村長 | |||||
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代 | 人 | 氏名 | 就任 | 退任 | 備考 |
1 | 1 | 出島啓 | 1889年(明治22年)6月5日 | 1892年(明治25年)5月28日 | |
2 | 2 | 中島四郎兵衛 | 1893年(明治26年)6月24日 | 1897年(明治30年)6月23日 | |
3 | 1897年(明治30年)6月29日 | 1901年(明治34年)6月28日 | |||
4 | 1901年(明治34年)8月24日 | 1903年(明治36年)8月26日 | |||
5 | 1903年(明治36年)10月14日 | 1907年(明治40年)10月13日 | |||
6 | 1907年(明治40年)12月20日 | 1911年(明治44年)4月12日 | |||
7 | 3 | 上前善右衛門 | 1911年(明治44年)9月19日 | 1912年(大正元年)11月1日 | |
8 | 4 | 駒井伊三郎 | 1912年(大正元年)11月19日 | 1916年(大正5年)11月18日 | |
9 | 5 | 山崎菊三郎 | 1916年(大正5年)12月4日 | 1920年(大正9年)12月3日 | |
10 | 6 | 中本嘉右衛門 | 1920年(大正9年)12月21日 | 1924年(大正13年)12月20日 | |
1924年(大正13年)12月24日 | 1925年(大正14年)4月25日 | [5] | |||
岡村祐之 | 1925年(大正14年)4月25日 | 1925年(大正14年)5月1日 | [6] | ||
7 | 武山豊三 | 1925年(大正14年)5月1日 | 1925年(大正14年)9月28日 | [5] | |
11 | 1925年(大正14年)9月28日 | 1926年(大正15年)10月15日 | |||
12 | 8 | 宮崎貫之 | 1927年(昭和2年)4月8日 | 1931年(昭和6年)4月7日 | |
13 | 1931年(昭和6年)4月8日 | 1933年(昭和8年)5月5日 | |||
14 | (5) | 山崎菊三郎 | 1933年(昭和8年)5月9日 | 1937年(昭和12年)5月7日 | |
15 | 9 | 出山長太郎 | 1937年(昭和12年)5月15日 | 1941年(昭和16年)1月10日 | |
16 | 1941年(昭和16年)1月14日 | 1945年(昭和20年)1月13日 | |||
17 | 1945年(昭和20年)1月14日 | 1946年(昭和21年)11月11日 | |||
18 | 10 | 中新虎之助 | 1947年(昭和22年)3月20日 | 1947年(昭和22年)5月5日 | |
19 | 11 | 中山又次郎 | 1947年(昭和22年)5月6日 | 1951年(昭和26年)4月3日 | |
20 | 1951年(昭和26年)4月24日 | 1953年(昭和28年)10月17日 | |||
21 | 12 | 中本長松 | 1953年(昭和28年)11月10日 | 1954年(昭和29年)9月14日 | |
22 | 13 | 中村小重 | 1954年(昭和29年)10月17日 | 1958年(昭和33年)10月16日 | |
23 | 1958年(昭和33年)10月17日 | 1961年(昭和36年)12月31日 | |||
歴代町長 | |||||
代 | 人 | 氏名 | 就任 | 退任 | 備考 |
1 | 1 | 中村小重 | 1962年(昭和37年)1月1日 | 1962年(昭和37年)10月16日 | |
2 | 1962年(昭和37年)10月17日 | 1966年(昭和41年)10月16日 | |||
3 | 2 | 中本長吉 | 1966年(昭和41年)10月17日 | 1970年(昭和45年)10月16日 | |
4 | 1970年(昭和45年)10月17日 | 1973年(昭和48年)1月18日 | |||
5 | (1) | 中村小重 | 1973年(昭和48年)2月11日 | 1977年(昭和52年)2月10日 | |
6 | 1977年(昭和52年)2月11日 | 1981年(昭和56年)2月10日 | |||
7 | 3 | 出山昭二 | 1981年(昭和56年)2月11日 | 1985年(昭和60年)2月10日 | |
8 | 1985年(昭和60年)2月11日 | 1989年(平成元年)2月10日 | |||
9 | 4 | 岩本秀雄 | 1989年(平成元年)2月11日 | 1993年(平成5年)2月10日 | |
10 | 1993年(平成5年)2月11日 | 1997年(平成9年)2月10日 | |||
11 | 1997年(平成9年)2月11日 | 2001年(平成13年)2月10日 | |||
12 | 2001年(平成13年)2月11日 | 2005年(平成17年)2月10日 | |||
13 | 5 | 八十出泰成 | 2005年(平成17年)2月11日 | 2009年(平成21年)2月10日 | |
14 | 2009年(平成21年)2月11日 | 2013年(平成25年)2月10日 | |||
15 | 6 | 川口克則 | 2013年(平成25年)2月11日 | 2017年(平成29年)2月10日 | |
16 | 2017年(平成29年)2月11日 | 2021年(令和3年)2月10日 | |||
17 | 2021年(令和3年)2月11日 | 現職 |
候補者名 | 当落 | 年齢 | 党派名 | 新旧別 | 得票数 |
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焼田宏明 | 当 | 65 | 自由民主党 | 現 | 9,057票 |
太田臣宣 | 当 | 55 | 自由民主党 | 現 | 8,008票 |
倉知昭一 | 落 | 87 | 無所属 | 新 | 1,306票 |
北鉄バスグループの北鉄金沢バスがJR金沢駅から北陸鉄道浅野川線内灘駅に至る路線や、内灘駅を基点に金沢医科大学病院、白帆台ニュータウン方面へ至る路線を運行している。後者のほぼすべての便が北陸鉄道浅野川線と接続し、内灘駅への列車到着と合わせている。このほか北鉄能登バス高浜急行線と北鉄奥能登バスの特急バスも医大病院と向陽台に停車している。
内灘町コミュニティバス「なだバス ナディ」を運行している。「全町ルート」(90分間隔)と「南部ルート」(60分間隔)、「ひがしルート・にしルート」を運行しており、日本海観光バスに運行を委託している。キャラクターがラッピングされた小型の車体を使用し、全路線・全区間1乗車につき100円均一運賃で運行している。なお、浅野川線とは接続していないほか、最終便も比較的早い。
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