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修学旅行列車(しゅうがくりょこうれっしゃ)とは1949年(昭和24年)ごろから設定されてきた修学旅行客輸送のための団体専用列車の総称である。
今日に至る学校行事としての「修学旅行の嚆矢」[1]とされるのは、1886年(明治19年)2月、東京師範学校(日本初の官立教員養成機関)が11日間にわたって東京〜千葉県銚子間を徒歩で往復した「長途遠足」である。
「修学旅行」という名称の初出は、『東京茗溪会雑誌』第47号(1886年12月) 掲載の報告書「高等師範学校生徒第二回修学旅行概況」である。これは東京師範学校が高等師範学校に改称再編後の1886年8〜9月に、同校男子生徒が下野地方へ旅行した過程と成果をまとめたもので、「第二回」とは、2月の長途遠足を第一回と数えていることを示している。
1888年(明治21年)8月の「尋常師範学校設備準則」において、文部省は初めて「修学旅行」という名称及び実施基準を公式に定め、まずは府県の尋常師範学校を中心に長途遠足をモデルとした修学旅行が普及した。
その後、旧制の中等学校・高等女学校などにも広まり、昭和時代に入って旧制高等小学校の宿泊を伴う修学旅行が許可される。戦時体制下では「聖地参拝旅行」と称し、1943年(昭和18年)に戦局悪化によって禁止されるまで伊勢神宮・橿原神宮・厳島神社・金刀比羅宮といった「国家神道教育」に通じるところを中心に行われ、輸送手段としてはもっぱら鉄道が使われたので、乗客数の多い場合は列車への車両増結も見られたといわれる。
1948年(昭和23年)8月20日に日本国有鉄道が「生徒5割引・引率教職員2割引」で学生団体の引き受けを再開したので修学旅行も事実上復活し、1950年代になると本格的に再開されていった。戦前同様、乗客数の多い場合は列車への車両増結も行われたというが、東京 - 伊豆間に設定されていた週末運行の温泉観光準急列車「いでゆ」・「いこい」の使用車両が週末以外には余剰となるのを利用して、1949年(昭和24年)には日本ツーリスト(後の近畿日本ツーリスト)[注 1]の斡旋により、日光・京都・大阪方面に「修学旅行専用列車」も設定された。
その後、1950年(昭和25年)頃になると「修学旅行集約輸送臨時列車[注 2]」が登場する。これは東京 - 京都・大阪といった需要の多い区間にあらかじめ修学旅行列車のダイヤを設定しておき、それにしたがって列車を運行するものでそれまでのように一々学校・地域ごとに臨時列車を仕立てるのに比べ手間がかからず予定が組みやすいといった利点があった。
また長距離ばかりではなく、秋の時期には上野駅、新宿駅、川崎駅などのターミナル駅から長瀞、奥多摩、河口湖、相模湖方面に向けて比較的中・短距離の学童専用臨時電車も運転されていた。1958年の実績では、9月25日から11月6日までのべ496本が運転されている[2]。
そして1958年(昭和33年)8月に文部省通達により遠足・修学旅行が教育課程の位置づけが明確化され学校行事と規定された事もあり、修学旅行列車専用車両の製造が要望[注 3]され、翌1959年(昭和34年)に初の専用電車となる155系が登場し4月20日から「ひので」・「きぼう」の運行を開始した。その後、日本国有鉄道では159系・167系・キハ58系800番台の修学旅行用車両を落成させた一方で、私鉄では近畿日本鉄道(近鉄)が1962年(昭和37年)、修学旅行用に全車2階建車両の20100系「あおぞら」を登場させている。また、専用車両を持たなかった東武鉄道でも、浅草 - 日光などにおいて、5700系や6000系などを使用した修学旅行向け臨時列車(「たびじ」など)が多数運転されていた[注 4]。
しかしながら新幹線による修学旅行が1970年(昭和45年)に開始されると在来線での「集約臨」も急激に衰退していき、1975年(昭和50年)頃にはほぼ消滅した。団体列車の設定自体も昨今の少子化やバス、航空機などといった交通機関の多様化、さらには沖縄や海外を目的地に選ぶなど、旅行先そのものの多様化といった要因によって少なくなっているのが現状である。
現在では、JRの場合、千葉県千葉市から信州長野方面(外房線・内房線・総武本線沿線から中央本線経由)、神奈川県 - 栃木県相互間(東海道本線・南武線沿線から日光、および宇都宮地区から鎌倉・箱根方面)、新幹線各線など一部線区では臨時ダイヤにて毎年修学旅行列車が運行されている。
関西では2009年3月開業の阪神なんば線を活用し、姫路方面から伊勢志摩への直通列車の運転も検討されていた[3]が、阪神なんば線経由の姫路方面から伊勢志摩への修学旅行列車を含む直通列車の運転は現在実現していない。
2011年3月のダイヤ改正で特急『はまかぜ』のキハ181系からキハ189系への置換えに伴い、姫路から奈良・伊勢方面への修学旅行列車も廃止することになったが、それにあたっては姫路市などが修学旅行生の輸送をバス輸送に切り替える方針を示した[4]。バスに切り替えた後には車酔いなど児童の体調を考慮し、2017年度から移動距離の短い京都・奈良へ変更した[5]。
近鉄では初代「あおぞら」20100系の老朽化により、1989年(平成元年)に、18200系を団体列車用に改造した「あおぞらII」10両を落成させているが、この車両は本来は車両限界による制約があった京都線・橿原線系統用の中型車体ゆえに定員が少なく老朽化が進んできたことから2006年(平成18年)1月をもって営業運転を終了。同年4月までに全車が順次廃車解体された[注 5]。後継として2005年(平成17年)12月より、12200系を改装した15200系「新あおぞらII」が修学旅行を中心に運用されている。
なお、「あおぞらII」と「新あおぞらII」は、修学旅行以外の団体客による貸切列車にも運用されるが、逆に修学旅行で運用される車両は、車両編成数の関係から、特に春と秋の修学旅行客および一般団体客のシーズン時には「あおぞらII」および「新あおぞらII」のみでは不足することから、急行形車両の5200系、L/Cカーの5800系や同じくL/Cカーでシリーズ21の5820系も運用されており、また場合によっては、汎用特急車やロングシートの一般車(単独および5200系やL/Cカーに増結する形で)も、修学旅行客の貸切列車運用に充当することもある[注 6]。
主に修学旅行専用列車に充当するために製造された車両を指す。利用者が学生である、1列車における乗降の機会が少ないなど、修学旅行専用列車の特徴に合わせ、一部に特殊な構造を採用していることが多い。ただし、シーズンオフには一般列車へも充当されることがあるため、どれだけ一般的な車両から構造を変えるかは、各系列により異なる。
国鉄の修学旅行用車両は、黄1号と朱色3号に塗られていた。ただし、修学旅行列車への充当頻度が下がってからは、他の車両と同じ一般的な塗色へ変更されている。
近年では一般車やクロスシート車である5200系やL/Cカー、および汎用の特急車が充当される場合も多くなっているが、近鉄でも修学旅行客向けの車両が用意されている。
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