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キリスト教正統派教義の中心である三位一体の教理を否定し、神の唯一性を強調する主義の総称 ウィキペディアから
ユニテリアン主義(ユニタリアン主義 、ユニタリアニズム、英語:Unitarianism)とは、キリスト教正統派教義の中心である三位一体(父と子と聖霊)の教理を否定し、神の唯一性を強調する主義の総称をいう[1]。ユニテリアンはイエス・キリストを宗教指導者としては認めつつも、その神としての超越性は否定する。キリスト教正統派[要検証]の中心教義を否定しているため、正統派[要検証]キリスト教とは区別される[1]。
イギリス国教会の牧師であったテオフィルス・リンゼイ (Theophilus Lindsey) と化学者・自然哲学者のジョセフ・プリーストリーが1769年ごろから推進し始めた思想で、当時信仰されていたキリスト教の39箇条の教義とは異なり、非三位一体論を提唱する思想であった。
思想的先駆者はソッツィーニ派、およびその一団でポーランド王国で1556年1月22日に活動を開始し、のちにポーランド・リトアニア共和国で広まったポーランド兄弟団である[2]。彼らはユニテリアンの思想を確立していたが、「ユニテリアン」という用語はしばらくの間使用しなかった。これとは別に、1567年にトランシルヴァニア(当時はハンガリー王国で現在はルーマニア)で「ユニテリアン」を自称する教団が成立している。ポーランド兄弟団はこのあともしばらく「ユニテリアン」の用語を使用しなかったが、これは世の中にトランシルヴァニアでの宗教運動と自分たちの運動とを内容的に混同されることを避けたものと推測されている。
この宗教思想が流入してきたイギリスではしばらくの間かれらは自由思想家や非国教徒として位置付けられ、また合理主義やヒューマニズムの思想を発展させたという説もある。
アメリカで1825年に設立されたアメリカ・ユニテリアン協会は、南北戦争など奴隷廃止運動の中では、穏健派と超絶主義者の対立がありつつもリンカーン大統領の推進する奴隷解放を支援した。一方、明治維新後に来日した宣教師たちは、教育勅語については受容的であった[3]。
ユニテリアン主義には4つの派がある。
ユニテリアン主義のそれぞれの派は、互いに関連しあいながら発展してきている。歴史的にはアリウス派をその先駆とする聖書的ユニテリアン思想が最も古く、次にポーランド兄弟団を先駆とする合理的ユニテリアン思想である。UUは最も新しい。地理的には、ヨーロッパにおける現代のユニテリアン派の多くは聖書的ユニテリアンか、合理的ユニテリアンであり、アメリカ合衆国とカナダではユニテリアン・ユニヴァーサリズムが主流である。福音ユニテリアン派は福音派の一部分でありユニテリアンの自意識は弱く、大半はアメリカ合衆国かイギリスにある。現在、福音ユニテリアン派を除き、世界のユニテリアン主義の組織・団体の多くは、1995年に創設された、国際ユニテリアン・ユニヴァーサリスト協会(ICUU: International Council of Unitarians and Universalists)に所属している。
1880年11月の『六合雑誌』創刊によりキリスト教の布教が盛んになっていたが[6]、ユニテリアン教が一般に紹介されたのは、1886年(明治19年)年ごろだった。翌1887年(明治20年)12月には福澤諭吉や金子堅太郎らの招聘により、アメリカ・ユニテリアン協会からアーサー・メイ・ナップ牧師が来日し、ユニテリアン・ミッションのための調査活動を開始した[7]。
1890年3月には月刊誌『ゆにてりあん』が創刊。1894年には、かつて薩摩藩邸のあった東京都港区芝2丁目の土地に、ジョサイア・コンドルの設計になる「唯一館」が建てられ、講演会を開催するなど盛んに宣伝を行った。社会主義者の村井知至や安部磯雄らを通して、日本の社会運動に影響を与えた[8]。1896年にハーバード神学校のラルフ・ワルド・エマーソンを論じた禅学者の鈴木大拙によれば、「ユニテリアニズムとは、科学的真理・批評的研究を以って本尊となし、直感的信仰には薄い」[9]。
一方、福沢諭吉は日本でしか通用しない教育勅語に変わる道徳の啓蒙団体としてユニテリアンを支持していたが、その思いは通じずに晩年にはむしろ裏切られたという[3]。
1898年にはユニテリアン教の機関紙『宗教』が『六合雑誌』と合併した。1914年のユニテリアン伝道25年記念講演会では、哲学者で東京帝国大学文科大学学長の井上哲次郎が記念演説をした[10]。
1924年(大正13年)ごろ、アメリカ・ユニテリアン協会は日本から撤退し、惟一館は日本労働総同盟が買収した。その資金はカンパの3.7万円や、安部磯雄、賀川豊彦、新渡戸稲造、吉野作造が参加する日本労働会館建設後援会からの寄付金9907円であった[注釈 1]。惟一館は1931年には管理会社として設立された財団法人日本労働会館が管理するようになった[注釈 2]。
戦後は赤司繁太郎や今岡信一良らが設立した日本ユニテリアン教会が日本自由宗教協会、次いで日本自由宗教連盟と改称し、1950年に宗教法人となり、1954に東京都の認証を受けた[12][注釈 3]。東京帰一教会やユニテリアン友の会、ユニテリアン友の集いなどが結成され、今岡信一良などが中心となって活動した。
1890年(明治23年)にアメリカ合衆国のユニテリアン・ユニバーサリストの宣教師G・L・ペリンが来日する[13]。ペリンは東京飯田町に中央会堂を建設した。中村正直らの勧告により「宇宙神教」の訳語が採用された。1909年(明治42年)に「日本同仁教会」と改称された。1941年に日本基督教団に合流する。戦後に再び分離し、現在は基督教同仁社団・同仁キリスト教会として活動し、幼稚園なども運営している。明治時代には星野久成、吉村秀蔵、赤司繁太郎など、戦後は千代崎幸弘らが牧師であった。[14]
アメリカでは1961年にユニテリアンとユニヴァーサリストが合同してユニテリアン・ユニヴァーサリスト協会(Unitarian Universalist Association)を結成した。それ以来ユニテリアンとユニヴァーサリストの境目はあまり強調されなくなっている[15]。
本山美彦は、「主流の教会が信者を増やそうとして世俗化の度合いを顕著にすると、すぐさま、より厳格な牧師養成機関(カレッジ)や神学校が新しく設立されるという宗教的傾向がある』と述べている。1833年にユニテリアンに転向しアメリカ・ユニテリアン協会の本部となったボストン第一教会を中心に、1907年頃にハーバード大学でユニテリアン主義が幅を利かせていたことから、そこから逃げ出し、アンドーヴァー神学校など大学院の神学校が設立された[16]。
キリスト教の歴史において、ユニテリアン主義と類似した思想は初代教会時代から存在しており(当時はアリウス主義と呼ばれていた)、この主張は第1ニカイア公会議(第一全地公会、325年)、および第1コンスタンティノポリス公会議(第二全地公会、381年)で、ローマ皇帝の関与の下に異端とされた。「キリスト教大事典」ではユニテリアン主義もこの系統であると言及されている[1]。他にも以下の見解が挙げられる。
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