フンボルト大学ベルリン
ドイツの大学 ウィキペディアから
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ベルリン・フンボルト大学(ベルリン・フンボルトだいがく、Humboldt-Universität zu Berlin)は、1810年、教育改革者で言語学者のヴィルヘルム・フォン・フンボルトによってフリードリヒ・ヴィルヘルム大学 (Friedrich-Wilhelms-Universität) として創立されたベルリンで最も古い大学である。東ドイツ支配下でフンボルト大学と改称され、ドイツ再統一後に現称フンボルト大学ベルリン(=通称ベルリン・フンボルト大学)となる。
1945年以前は、「ベルリン大学」として名が通り、欧米諸国や日本の近代大学教育に多大なる影響を与えた。最近ではTimes Higher Education (タイムズ・ハイアー・エデュケーション) の世界大学ランキングにおいて、2016年に49位となり、毎年100位以内にランクインする、ドイツおよびヨーロッパを代表する名門大学の一つである[1]。
2005年のドイツ国内におけるエクセレンス・イニシアティブ(Exzellenzinitiative)に指定された11の大学の一つ。
ベルリン・フンボルト大学出身/所属のノーベル賞受賞者は55人にのぼる。ノーベル賞受賞者の大学別ランキングでは、世界で13位、ヨーロッパでは、ケンブリッジ大学、オックスフォード大学に続き3位、ドイツ国内においては1位である。過去には、特に相対性理論で有名な理論物理学者、アルベルト・アインシュタインも10年以上に渡り同大学教授として働いていた。
以下、本項では「フンボルト大学」と呼称する。
18世紀を通してドイツ文化圏において新興勢力として伸張しつつあったプロイセン王国は、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世治下、19世紀に入るや市民革命の拡大を目するナポレオン軍と衝突し、国家存亡の危機に陥った(1806年-1807年)。この危機を打開しようと、シュタイン・ハルデンベルクの政治改革、グナイゼナウらによる軍制改革など近代化に向け諸改革がなされたが、教育の近代化の一環としてフンボルトの主導により、ブランデンブルク地域最初の大学として1810年に創立された。
1812年にプロイセン王国のユダヤ人には市民権が与えられ、一方、イェーナ大学(1558年創立)やギーセン大学(1607年創立)等の学生は、国に対し自由主義的改革やドイツ統一を求めるブルシェンシャフトを結成したが、同大学の学生や教授が参加していたことはうかがえない。
さらにボンには1818年、同じく王の名を冠したライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボンも設置された。
ウィーン大学、ハイデルベルク大学など中世来の歴史を持つ大学に伝統では及ぶべくもないが、初代の学長に ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、2代目フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー、1830年にはゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルがその後任となるなど、当代随一の学究を招き、復興したプロイセン王国の勢力拡大にあわせるかのように有力な大学となっていった。さらに、プロイセン王国が根幹となりドイツ帝国が成立すると、その首都に位置する大学として政府の強い支援を受けるなどにより更なる発展を遂げ、ドイツ文化圏を代表する大学となった。「1880年に4000であったベルリン大学の学生数は、1908年には8000となった」[2]。
フンボルト大学は、国家からの「学問の自由」の標語の下に、研究者と学生が自主的な研究に基づき、真理と知識の獲得を目的として、カントの理論に基づき、法学、神学、医学といった伝統的な学問領域を軸としつつも、これら3つの学問のみならず、自然科学を含めてすべて学問の理論的な研究を哲学が指導するという教養大学モデルを採用した。フンボルト大学は、研究と教育の一体化を図るとの革命的な発想の転換により各国の大学のモデルとなり、その産業形成を支えた[3]。
ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの弟であるアレクサンダー・フォン・フンボルトがカール・リッターとともに近代地理学の嚆矢となったように、多くの新しい科学的な分野を包含するための開拓がなされている。当時のフンボルト大学を代表する学者としては、化学分野ではアウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマン、物理分野では、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ、数学者では、エルンスト・エドゥアルト・クンマー、レオポルト・クロネッカー、カール・ワイエルシュトラス、医学の分野では、ヨハネス・ペーター・ミュラー、アルブレヒト・フォン・グレーフェ、ルドルフ・ウィルヒョーそしてロベルト・コッホといった顔ぶれが挙げられる。
この時期に、フンボルト大学は徐々に他のベルリンの高等教育機関を組み込んで拡大していった。その代表が医学部付属病院のシャリテー(Charité)であろう。シャリテーの前身は、フリードリヒ1世による1717年のペスト防止の検疫所で、兵隊王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 (プロイセン王)の"Es soll das Haus die Charité(これは、チャリティの家である)"の言葉を伴った下賜により1727年に設立されたものである。それが1829年までにフンボルト大学医学部のキャンパスとなり、1927年には、より近代的な大学病院設備が建設された。
1810年に設立した博物学の収集物は、1889年には別の建物が必要となるほどとなり、独立してドイツ最大の自然史博物館である自然博物館(Museum für Naturkunde 通称:フンボルト博物館)となった。また、1790年に設立された獣医学校は、1934年に吸収され、獣医学研究施設の基礎となったし、1881年に設立されたベルリン農業高等学校( Landwirtschaftliche Hochschule Berlin)は農学部へと発展していった。
日本からも新興国において範を垂れるべき大学として多くの人材が学び、森鷗外・北里柴三郎・高橋順太郎・寺田寅彦・肥沼信次・宮沢俊義といった日本の学術界を担う人材の留学が見られる。
1933年にナチスが政権をとりヴァイマル共和国が事実上崩壊すると、ドイツの他の大学同様、ナチスの教育機関と化した。この年の5月10日には、大学前のオペラ広場(現在のベーベル広場)において、20,000冊に及ぶ大学図書館の書籍が、退行的・体制批判的として、ヨーゼフ・ゲッベルス指導の下、SAの監視下焚書された。現在、この行為のモニュメント『焚書の記憶のための記念碑(空っぽの図書館)』が広場の中央に建てられており、20,000冊分の空きをもった書架とハインリヒ・ハイネの作品からの以下の一節が記されたプレートを見ることができる。
1933年から1934年にかけて、職業官吏再建法("Gesetz zur Wiederherstellung des Berufsbeamtentums" 略称:Berufsbeamtengesetz (BBG))により、約250人のユダヤ系の教授等が解職・解雇され、多くの学位が廃された。学生や研究者もナチスに抗するものは容赦なく放逐され、この時期にスタッフの約1/3は解雇されたと見られる。
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ドイツ敗戦後、ベルリンが戦勝4か国によって分割占領されると、当学は、ソ連占領地域である東ベルリンに位置することになった。ソ連占領当局が大学統制を強める中、これに反発する学生や同調する教授・研究者はマックス・プランク研究所などの協力を得て、1948年にベルリン西側占領地域のダーレム地区に新たな大学の運営を開始した。これがベルリン自由大学である。
第二次世界大戦後は東ベルリン側に位置することになり、1949年に王名を嫌った共産主義政権によりフリードリヒ・ヴィルヘルム大学からフンボルト大学に改称された。そして、ドイツ民主共和国(DDR、東ドイツ)の崩壊まではドイツ社会主義統一党(SED)の厳格な思想統制の下に置かれた。民主的な反体制勢力が、大学キャンパスで拡大することを防ぐため、学生は党の方針への従順さに応じて選抜された。そのためか、学生や学者らは1989年の民主革命において、あまり重要な役割を担うことが無く、ドイツ再統一直前の1990年の時点においてでさえ、SEDの元党員でシュタージのスパイとの噂のあるハインリッヒ・フィンク(Heinrich Fink)を学長に選出するほどであった。
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フンボルト大学は、合計189の学部を擁し、大きく分けると、主に以下の9学部により構成される。それぞれの学部にいくつかの研究機関が含まれている。
さらに、以下の独立研究機関が付属している。
中央キャンパスは、ほぼ全ての文系学部 (法学部、精神・人文科学、社会学、経済学など) の建物・研究施設が集中する、三つのフンボルト大学キャンパスの中で一番古いキャンパスである。 名前の通りベルリンの街の中のミッテ地区に位置し、ベルリン国立歌劇場、ベーベル広場、ジャンダルメンマルクト、ブランデンブルク門、ムゼウムスインゼルなどといった観光地のすぐ近くに立地する。 同キャンパス内にはサービスセンター (Studierenden-Service-Center)や、大学図書館も存在する。
同キャンパスには第一に、農学部、庭園学、生物学にアジア・アフリカ学の研究施設が存在する。 またフンボルト大学とベルリン自由大学の共同施設であり、ヨーロッパ最大の大学病院であるシャリテー・ベルリン大学病院、更にドイツ最大の自然博物館であるフンボルト博物館も同キャンパス上に位置する。
理学部の研究機関は主に同キャンパス上に位置する。化学や物理学といった理系の研究機関が数多く存在し、今日では同キャンパスが位置する付近は、ヨーロッパ最大の科学工業技術団地の一つとなっている。
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