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ローベルト・ムージル (Robert Musil、1880年11月6日 - 1942年4月15日)は、オーストリアの小説家・劇作家・エッセイスト。
ロベルト・ムージル Robert Musil | |
---|---|
誕生 |
1880年11月6日 オーストリア=ハンガリー帝国 クラーゲンフルト |
死没 |
1942年4月15日(61歳没) スイス ジュネーヴ |
墓地 | ロワ墓地 |
職業 | 小説家、随筆家、劇作家 |
言語 | ドイツ語 |
国籍 | オーストリア |
教育 | 哲学博士 |
最終学歴 | ベルリン大学 |
活動期間 | 1906年 - 1942年 |
ジャンル | 小説、随筆、戯曲、詩 |
主題 | 新しい人間、合一、可能性感覚、エッセイスムス |
文学活動 | モダニズム |
代表作 | 『特性のない男』 |
主な受賞歴 |
Gerhart Hauptmann prize (1929年) クライスト賞 (1923年) |
デビュー作 | 『士官候補生テルレスの惑い』 |
配偶者 |
マルタ・マルコヴァルディ (1911年 - 1942年、死別) |
署名 | |
ウィキポータル 文学 |
長編小説『特性のない男』は世界的に高い評価を受けており、しばしばジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』や、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』と並び、20世紀前半の文学を代表する作品とみなされている[注釈 1][1]。
小説については寡作であったが[1]、多数のエッセイを発表し、特に1910年代から30年代にかけては積極的にジャーナリズムに関与した[2]。
元々チェコから移住した家系の為、ムシル、ムジール等様々に発音され、日本の日本語訳や研究でもいくつかの異なった表記が行われているが、近年はおおむねドイツ語読みのムージルで定着していると言ってよい(本来のチェコ語の発音ではムシルである)。
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父アルフレートは1846年にハンガリー・バナート地方のテメシュヴァールに生まれ、後にグラーツに移住した。母ヘルミーネ・ベルガウアー Hermine Bergauer はオーバー・エースターライヒ州出身である。
アルフレートは、エンジニア、専門学校の校長を経た後、1890年からブリュン工科大学機械工学の教授、1917年には世襲貴族の称号を与えられる。ヘルミーネの祖父も、有名なエンジニアである。
1880年11月6日、クラーゲンフルトに生まれる。幼少期をコモタウ(現チェコのホムトフ)、シュタイアー(オーバー・エースターライヒ州の都市)で過ごす[注釈 2]。シュタイアーにはギムナジウムがなかったため、ムージルは成績優秀にもかかわらず実科学校に通った。一家は1891年にブリュンへ転居するが、そこでもやはり実科学校に通う[4]。
ムージルにとって読むことと書くことは幼少のころから特別に際だった体験であり、ドイツ語の作文ではその長大さと巧みに盛り込まれた見解、豊麗な描写が教師を驚かせたが、自身では「綱渡り」のような興奮状態の内に書かれた文章も、読み返す段になると、「結局彼(ムージル)は転落するのだった」と日記で回想している[注釈 3][3]。
ブリュンで出会った二歳年上の友人グストゥル(グスタフ)・ドーナトから性に関する知識を得るなど、早熟な少年だったムージルは、両親、特に母親との衝突と「ナポレオン的」なものへの憧れから[3][4][5]アイゼンシュタットの陸軍初等実科学校へ進み、メーリッシュ・ヴァイスキルヒェン(チェコのフラニツェ・ナ・モラヴィェ)の陸軍上級実科学校に学んだ。やがて機械工学の道に転じてブリュン工科大学に入学[6]。
その後再び哲学に転じると、ベルリン大学でエルンスト・マッハ研究により博士号を取得する(1908年)。しかし結局、処女作『士官候補生テルレスの惑い』(1906)で踏み出していた作家としての道を選ぶ。1905年には「特性のない男」の草案を日記に書いている。
その後短編集『合一』(1911)、『三人の女』(1924)、『生前の遺稿集』(1935)などを発表、客観的で透徹した認識を保ちながら、理性や言語を超えた神秘的とも言える世界を追求する。1919年、「特性のない男」の仕事に本格的に取り組み始める。
ムージルの名を世界的なものにしたのは、唯一の長編にして未完の大作『特性のない男』である。第一次世界大戦直前のウィーンを舞台にしたこの小説は、1930年に第一巻(第一部、第二部)がローヴォルト社から五千部出版された。
ムージルは1931年に再びベルリンに移るものの、1933年ナチスの政権奪取後はウィーンに戻り、1938年にはスイスに亡命、この時彼の書物は発禁処分を受ける。最後はジュネーヴでこの大作の完成に心血を注ぐが、1942年シャワー室の中で脳卒中のため急死した。
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生前のムージルはけして無名の作家というわけではなかったが、小説家として寡作なこと、その作品が必ずしも大衆的ではないこと、そしてナチスによって主著が禁書目録に載せられたなどの理由によって、一時は忘れられた作家となった[1][7]。
しかし1949年10月、ロンドン・タイムズ・リテラリ・サプルメントに掲載されたムージルについての紹介記事の一文(「今世紀前半のドイツ語圏の最もすぐれた小説家は、私たちに最も知られざる小説家の一人である」)を嚆矢として、アードルフ・フリゼー編集の三巻本ムージル全集(1952-57)の刊行をはじめ、世界各国での研究・翻訳がさかんに行われるようになった[1][8]。
没後の評価としては、以下のようなものがある。
ムージルにとっての認識とは、対立し合う二極の両立し得ないことの自覚なのです。一方は彼が正確さとか、数学とか、純粋精神とか、ときには軍人気質とさえ呼ぶものであり、もう一方は魂とか、非合理性とか、あるいは人間性、またあるいは混沌(カオス)とか呼んでいるものです。彼が知っていること、あるいは考えていることのすべてを、彼は百科全書的な書物のなかに詰めこみ、これに小説の形を維持させようと試みるのですが、その構成はたえず変化して、彼の手のなかで崩れてゆくために、彼はその小説をただ完結させられないというだけではなく、その膨大な材料の山をはっきりとした輪郭のなかに収められるような全体の様相がどのようなものとなるべきかを決定することさえもできないままでいるのです。(中略)ムージルは、けっしてまきこまれるということなしに、体系(コード)と位相(レベル)の多様性のなかでつねにいっさいを理解しているという印象を与えるのですが、(中略)このような特徴も書き留めておかなければなりません、すなわち結論することの不可能さです。 — イタロ・カルヴィーノ『アメリカ講義』[9]
1880年 |
11月6日午前9時、クラーゲンフルト市近郊ザンクト・ループレヒトに父アルフレートと母ヘルミーネの子として生まれる。 |
1900年 | 4月19日、『新ブリュン新聞』に「ヴァリエテ」掲載される。 |
1906年 | 10月末、『テルレス』刊行。 |
1908年 | 11月・12月、隔月誌『ヒュペーリオン』第六号に『魅せられた家』が掲載される。 |
1911年 | 4月15日、ウィーンにてマルタと結婚。5月末、『合一』および『テルレス』新版がミュンヘンのゲオルク・ミュラー出版社から刊行される。 |
1920年 | 5月1日、『メルケル』に「メロドラマ《黄道十二宮》の序幕」を発表。 |
1921年 | 8月22日、ジビュレン出版社が戯曲『熱狂家たち』刊行。12月、『新メルクーア』に「グリージャ」を発表。 |
1923年 | 2月末もしくは3月初め、『新小説』に「トンカ」を発表。11月17日、「ポルトガルの女」がローヴォルト出版社から刊行される。手刷りで200部。 |
1924年 | 1月5日、三幕からなる茶番劇『ヴィンツェンツとお偉方の女友達』がローヴォルト出版社から刊行される。1月24日、「グリージャ」がポツダムのミュラー商会から刊行される。2月28日、短編集『三人の女』がローヴォルト出版社から刊行される。 |
1928年 | 1月、『新展望』に「黒つぐみ」が掲載される。4月8日、正式に『特性のない男』と名づけた長編小説を部分的に発表しはじめる。第八章にあたる「カカーニエン――断章」を『ターク』に発表。 |
1930年 | 11月、『特性のない男』第一巻刊行。12月22日、ローヴォルト出版社から『テルレス』新版が刊行される。 |
1932年 | 12月19日、ローヴォルト出版社から『特性のない男』第二巻刊行。 |
1935年 | 12月半ば、チューリヒのフマーニタス出版社から小品集『生前の遺稿』刊行。実売数、数百部。 |
1942年 | 4月15日午後1時、ジュネーブで脳卒中に襲われ死去。 |
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