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日本の氏族 ウィキペディアから
黒田氏(くろだし、旧字体:黑田氏)は、日本の氏族。著名な氏族・家に次のようなものがある。
『寛永諸家系図伝』によると、黒田氏は戦国時代後期に活動した播磨国の国人領主・黒田重隆まで遡るとされる。重隆は播磨の有力豪族・小寺氏に重臣として仕えた武将であり、孝高の祖父にあたる[2]。『寛永諸家系図伝』によると重隆以前は「此間中絶」となっており伝承されていなかったようであるが、それ以前の系譜として中世の間、近江国に勢力を持った佐々木氏(京極氏)の分家筋である黒田氏の流れであると紹介している。
『寛永諸家系図伝』より60年ほど後に福岡藩士・貝原益軒によって編纂された『黒田家譜』によると、黒田重隆の父として近江黒田氏出身者の高政(黒田重隆の父とされている)が新たに登場し、高政の代に近江を離れたとして近江黒田氏が福岡藩主黒田氏と同族であることの補説としている[1]。
ただし、これらの近江黒田氏を福岡藩主黒田氏に結びつけるこの説は近世から疑問視する向きもあり[注釈 1]、また初出史料が一般的に偽書とされる『江源武鑑』にあるものという指摘もあり[要出典][注釈 2]、歴史学者の諏訪勝則によると、現在では福岡黒田氏の起源を近江源氏に求める従来の説は慎重にならざるを得ないとしている[4]。また黒田長政が日光東照宮に寄進した石の鳥居には、「黒田筑前守藤原長政」と名前が掘り込まれていることから、長政が本姓を藤原氏としていたことが分かり、家紋が藤原氏の使用する藤の紋を取り入れた黒田藤巴紋であることも整合性がとれる。この藤巴の紋は黒田家が播磨時代に仕えた主家、小寺家が用いた藤橘巴紋を継承しているともされる。江戸時代、近世大名となった黒田家は主に石餅(白餅、黒餅)紋を表紋としている。
鎌倉時代末期、京極宗氏の弟とされる宗満が近江国伊香郡黒田村に住み、黒田氏を称したのが始まりといわれる。この黒田氏は主に室町幕府将軍の奉公衆としての活動の記録が残っており、黒田高政が近江を離れたとされるよりも後の時代である天文年間まで存在が確認されるという。『黒田家譜』『寛永諸家系図伝』などによると、黒田家はこの末裔とされるが、先述の通り疑問視する向きも強い。
近年、明石藩士黒田家文書、『播磨鑑』には、黒田官兵衛孝高は押部庄黒田村 (現神戸市西区平野町黒田) の出身とする『本朝通紀』長井定宗説が出てきた。これは播磨国明石藩松平家の家老職は代々黒田家であり、同姓である。がゆえに、古文書等の由緒書に、黒田氏の先祖は、播磨国明石郡黒田村の記述があるという。東播磨の一大土豪であった明石氏と黒田氏は、お互いの家に嫡子が絶えると養子を譲りあいながら家系を継いできたという。
江戸時代末期に兵庫県西脇市にある荘厳寺に奉納されたという伝承の『荘厳寺本黒田家略系図』によると、黒田氏は播磨の守護大名・赤松氏の分流であり、赤松則村の弟の円光の子である黒田重光という人物を祖とする。重光は室町時代初期にこの地を治めたとされ、以後代々播磨国多可郡黒田城(西脇市黒田庄町とされる)の城主として黒田氏は存続し、8代目黒田城主が黒田重隆になるとしている。9代目に黒田治隆が存在し、孝高(同系図によると孝隆)は治隆の弟となっている。なお、この黒田氏は治隆の代に合戦に敗れ滅亡したとされている。
従来説と大きく違うこの系図は、黒田孝高の祖父とされている黒田重隆が、祖父ではなく実父であるとしている。また、孝高の父とされている黒田職隆は孝高の養父となっており、黒田氏ではなく小寺氏の人物であるように記されている[注釈 3]。播磨国に近江源氏流とは違う黒田氏が当初より存在していたという説の論拠ともなりうる系図だが、江戸時代末期に作成されており歴史的史実と乖離する記述も多く散見されるため参考資料とする程度である。
黒田家の正史、『黒田家譜』によると、16世紀初め、近江源氏の分流佐々木氏流である黒田高政は近江を出奔して、同じ近江源氏の流れである越後国の加地氏などを頼って備前国邑久郡福岡に移り、高政の子・重隆の時に播磨国姫路に移り、同国の有力豪族である小寺氏に仕えたとされる。近世になって成立した『夢幻物語』によると、重隆は家伝の目薬を製造・販売し、やがて土豪として成長したとされる。しかし出自は確かではなく、近年の研究では、元から播磨地域の出身であり赤松氏一族に仕えていた説など、様々な説がある。
黒田重隆の子職隆は赤松氏の一族である播磨の有力豪族・小寺氏に仕え、その養女を迎えて自らも小寺氏を称した。職隆の子・孝高は織田信長に従い、その重臣である羽柴秀吉の麾下に入った。その際、小寺氏が織田氏に敵対して衰退すると孝高は氏を黒田に復している。1587年(天正15年)豊前国中津城主12万石となる。
1600年の関ヶ原の戦いで孝高・長政父子は徳川方につき、軍功により筑前国52万3100余石を与えられ、福岡藩を立藩。長政が初代藩主になった[6]。以後黒田家は国替もなく福岡藩主を世襲して廃藩置県に至る[6]。
黒田家宗家は第6代目藩主継高の時、息子二人が相次いで早世し後継問題に見舞われた。当初は継高の長女、藤子が嫁いだ岡山藩池田氏から外孫・長泰(後の相良長寛)を養子に迎える予定だったが、幕府の要請により治之が一橋徳川家から養子に入った。その後も養子が続き、多度津藩京極氏・薩摩藩島津氏・伊勢津藩藤堂氏から迎えている。養子とする際は、正室を先代藩主の息女や縁類の娘として入婿とした[7]。
幕末維新期の藩主長溥は幕府と長州藩との斡旋に努めつつも、慶応元年(1865年)には加藤司書ら勤王派家臣を弾圧して佐幕派の立場をとったことで維新回天の大業に後れをとることとなった[8]。
慶応4年、前将軍徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いを起こして朝敵となると勅命に従って松平姓を廃棄。つづく戊辰戦争で長溥の養子長知が戦功を挙げ、その功績により明治2年に賞典禄1万石を下賜された[9]。その後贋札事件をめぐって廃藩置県を待たずに長知が藩知事を解任されているが、華族の地位は認められ侯爵家に列する(→黒田侯爵家へ)。
維新後黒田氏からは5家が華族に列し、侯爵家1家、子爵家が1家、男爵家が3家出ている[11]。
明治2年(1869年)の版籍奉還により福岡藩知事に就任した黒田長知は、明治4(1871年)に贋札事件が発覚したことにより廃藩置県に先立って藩知事を罷免されている。福岡藩は有栖川宮熾仁親王が最後の藩知事に就任して廃藩置県による解体を迎えた[12]。
なお黒田家は明治2年の華族制度創設とともに華族に列していたが、その地位には影響は及ばなかった。版籍奉還の際に定められた家禄は、2万3425石[13][注釈 4][14]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄や賞典禄と引き換えに支給された金禄公債の額は、51万15円18銭(華族受給者中11位[注釈 5])[16]。
黒田長成の代の明治前期の住居は東京府赤坂区赤坂福吉町にあった。当時の家令は浅香茂徳、家扶は梶原寛[17]。
明治17年(1884年)に華族令施行で華族が五爵制になると、同年7月7日に旧大藩知事[注釈 6]として長成が侯爵に列せられた[18]。長成は貴族院において副議長を多年にわたり務めた[19]。その息子黒田長礼の代に黒田侯爵家の住居は東京市赤坂区福吉町にあった[19]。
最後の秋月藩主長徳は、明治2年に秋月藩知事に転じるとともに華族に列し、明治4年7月14日の廃藩置県に伴う罷免まで藩知事に在職した[20]。
版籍奉還の際に定められた家禄は2080石[13][注釈 4][14]。
明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は、6万156円34銭4厘(華族受給者中111位)[21]。
明治前期の長徳の住居は東京府京橋区三十間堀町にあった。当時の家令は箕浦鈎月、家扶は鵜沼不見[22]。
明治17年(1884年)7月7日の華族令施行により華族が五爵制になると、翌8日に旧小藩知事[注釈 7]として長徳が子爵に叙された[23][24]。
長徳が明治25年に死去した後、宗家の黒田長知侯爵の五男長敬が養子として子爵位と家督を相続[25]。黒田長敬子爵は宮内省官僚となった[26]。昭和前期に秋月黒田子爵家の住居は東京市赤坂区福吉町にあった[26]。
当家は黒田侯爵家の分家にあたる。黒田長知侯爵の四男長和が、旧直方黒田家を再興するという形で、明治29年に黒田侯爵家の戸籍から分家して別戸を編製し、華族の男爵に叙せられた[27]。長和は長期にわたって貴族院の男爵議員に当選し続けた[28]。昭和19年に長和が死去した後には長男長義が男爵位と家督を相続[27]。
当家は黒田一成を祖とし江戸期に福岡藩筆頭家老を世襲した家で、維新後当初は士族に列していたが、幕末期の当主一葦が勤皇志士として維新回天に貢献した功により明治33年に華族の男爵家に列せられた[29][30]。同家の詳細は三奈木黒田家を参照。
当家は福岡黒田氏の分流で寛永以降江戸幕府御家人の家系であり、幕末から明治の当主久孝も江戸期には御家人身分だったが、維新後に陸軍に入隊して栄進し、明治30年までに中将に昇進。野戦砲兵監、東京湾要塞司令官、東京防御都督部参謀長などを歴任したのち、日清戦争では野戦砲兵監として戦功を挙げ、その功により明治28年8月に華族の男爵に列せられた[31]。その後東宮(皇太子)武官長を務めている[31]。
明治33年に久孝が死去した後、養子(坂本芳平次男)の善次が男爵位と家督を相続した。善次は少将まで昇進した海軍軍人だった。善次は昭和3年に隠居したが、家督した長男孝雄が襲爵願を出さなかったため、昭和4年に華族の礼遇を喪失[31]。孝雄は戦時中に出征したが、昭和20年に戦死[31]。
凡例 1) 太字は宗家(福岡藩主家)当主、数字は代。1=福岡藩主、侯1=黒田侯爵家当主、秋1=秋月藩主/子爵、子1=黒田子爵家当主、東1=東蓮寺藩主、直1=直方藩主、直男1=直方黒田男爵家、三1=三奈木黒田家当主 2) 実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。 ※ 構成の都合で出生順より組み替え。
(高政) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小寺政職 | 重隆 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
岩姫[注 1] | 職隆 | 小寺高友 | 井手友氏 | 松井重孝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光 | 孝高(如水) | 利高 | 利則 | 直之 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
糸姫 | [福岡藩] 長政1 | 栄姫 | 熊之助 | [三奈木黒田家] 一成三1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
忠之2 | 久姫 | [秋月藩] 長興秋1 | [東蓮寺藩] 高政東1 | 一任三2 | 女子 | 久野重時[注 2] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光之3 | 之勝東2 | 彦子[注 3] | 勝子 | 一貫三3 | 一任 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
筑姫[注 4] | 綱之 | 長寛東3→綱政4 | [直方藩] 長清直1 | 富喜 | 長重秋2 | 一春三4 | 鶴子 | 野村祐春 | 一利三5 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉之 | 守山政則→宣政5 | 長軌秋3 | 長貞 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸 | 継高6 | 長貞秋4 | 豊姫[注 5] | 一誠三6 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
藤[注 6] | 為[注 7] | 友[注 8] | 重政 | 菊姫[注 9] | 長経 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳川宗尹 | 屋世[注 10] | 正姫 | 長邦秋5 | 春姫 | 秋月種美 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳川治済 | 治之7 | 艶姫[注 11] | 長恵秋6 | 此子[注 12] | 秋月種茂(種穎) | 上杉治憲(鷹山) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
京極高幸→治高8[注 13] | 保姫 | 島津重豪 | 長堅 | 一興三7 | 隆庸(一庸)三8 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
徳川家斉 | 茂子 | 長堅秋7 | 山内豊雍 | 秋月種徳 | 長舒 | 女子 | 清定(一定)三9 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉隆9 | 島津斉宣 | 長舒秋8 | 采子 | 秋月種任 | 藤堂高嶷[注 14] | 女子[注 15] | 溥整(一整)三10[注 16] | 女子[注 17] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉清10 | 孝姫 | 島津斉興 | 長韶秋9 | 山内豊策 | 順 | 藤堂高兌 | 野村東馬[注 18] | 一雄三12[注 19] | 千代子 | 一美三11 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
純姫 | 斉溥11 | 島津久光 | 雪子 | 秋月種殷 | 秋月種樹[注 20] | 藤堂高猷 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
慶賛12 | 豊子 | 島津忠義 | 慶子 | 長元秋10 | 藤堂建若 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長和直男1 | 静男 | 長成侯1 | 清子 | 山内豊福 | 織田信民 | 長義秋11 | 長徳秋12,子1' | 鏸子 | 一義三13 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長義直男2 | 長礼侯2 | 長敬子2 | 一弘 | 稔 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
高正 | 長久 | 光子[注 21] | 長栄 | 長美 | 一夫 | 美治 | 洋子[注 22] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長明 | 長高 | 長幹[注 23] | 一敬 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
赤松則村の家臣黒田宗信が、知行地の播磨国多可郡黒田庄(兵庫県西脇市黒田庄町黒田)に黒田城を築き、黒田氏を称した。黒田宗政が討ち死にして断絶したが、子の黒田治宗が播州の山中村に隠れ住み、後に別所則治に従って家を再興した。その三男の山中貞幸は出雲尼子氏に仕え、貞幸の孫が山中幸盛である。山中幸盛の子で鴻池財閥の祖となる鴻池直文は、当初播州の黒田氏本家の養子となっていたという。この黒田氏は天正6年(1578年)に羽柴秀吉によって滅ぼされたとされる。鴻池直文の子の一人は、黒田氏を名乗っている。
なお、前述の福岡藩主・黒田氏の西脇黒田庄説の通り、黒田官兵衛とその子孫が著名であるため、当の西脇市でもこの黒田氏は官兵衛の黒田氏であるとの伝承が地元でも古くからなされている[33]。
佐々木氏流を称する黒田氏と同じく、京極宗氏の弟とされる宗満を祖とする。永禄3年(1560年)、近江国の戦国大名六角義治の推挙によって、黒田邦勝が宇都宮広綱の家臣となっている。
凡例 太線は実子、細線は養子。 宗満 ┃ 定宗 | 宗信 ┃ 高教 ┃ 高宗 | 高信 ┃ 清高 | 政光 ┃ 光勝 ┃ 信勝 ┃ 勝秀 ┃ 勝好 ┃ 勝幸 ┃ 邦勝 ┃ 信勝 ┃ 定勝 ┃
三河国八名郡黒田郷(現在の愛知県新城市)に住し、今川氏に従っていた。光綱の代より徳川家康に仕え、子の黒田直綱は大坂の陣などで勲功を挙げ4千石を知行したが、二十代半ばで嗣子無くして没したため、紀州藩士近藤用勝の六男の黒田用綱を養子として家名を存続させた。
用綱は上野館林藩主徳川綱吉の付家老として配属され、3,000石を領した用綱には実子がいたが[注釈 9]、養子として外孫に当たる直邦(中山照守の曾孫)を迎えた。直邦は儒学者の荻生徂徠の弟子でもあり、のちには名君と呼ばれ、その人格も高く評価された。時の将軍綱吉にも気に入られ、綱吉の将軍就任に伴い舘林藩が幕府に再吸収された際、用綱も身分は幕府直臣旗本となり、小納戸役や小姓を務め、1700年(元禄13年)1万石を拝領して黒田家は譜代大名に列した。その後も奏者番と寺社奉行を兼任するなどし、1703年(元禄16年)常陸下館藩主1万5,000石、次いで上野国沼田藩主2万5,000石、さらに加増を受けて3万石の譜代大名となった[34]。
1742年(寛保2年)、直邦の養子の直純の時、上総久留里藩3万石に転封となった。黒田家は藩財政には苦しみながらも、以降久留里藩主として明治まで存続した。
最後の藩主直養は、明治2年6月20日に版籍奉還に伴って藩知事に転じ、明治4年7月15日に廃藩置県に伴う罷免まで藩知事に在職[35]。
版籍奉還の際に定められた家禄は1112石[13]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は、3万8344円49銭5厘(華族受給者中146位)[21]。
直養が明治10年に隠居した後(明治11年に黒田家の戸籍から除籍)、直和の次女鏻子(れいこ)が女戸主となる[36]。明治前期の彼女の住居は東京府牛込区東五軒町にあった。当時の家扶は西野重光[37]。
明治14年に養子(宗義和の六男)和志が家督相続[36]。明治17年(1884年)の華族令施行で華族が五爵制になると旧小藩知事[注釈 10]として、7月8日に和志が子爵に列せられた[38]。和志は貴族院の子爵議員に当選して務めた[39]。その孫の3代子爵経志の代の昭和前期に同子爵家の住居は東京市目黒区下目黒にあった[39]。
太線は実子、細線は養子。
中山直張 ┃ 直邦 ┝━━━┓ 直純 直亨 ┣━━━┓ 直英 直方 ┃ ┝━━━┳━━━┓ 直温 直侯 直静 直古 ┃ ┃ 直和 直養
江戸期に薩摩藩の下級藩士だった家系だが、幕末から明治期の当主黒田清隆は、戊辰戦争の際に戦功を挙げ、明治維新以降立身して参議、開拓長官、第1次伊藤内閣農商務大臣などを歴任し、第2代内閣総理大臣に上り詰めた。その後も第二次伊藤内閣の逓信大臣や枢密院議長職を務めた。勲功により明治17年7月の華族令施行に際して華族の伯爵に列せられた[41]。同家の詳細については黒田家 (伯爵家)を参照。
江戸期に薩摩藩士だった家系で、幕末から大正期の当主黒田清綱は、戊辰戦争で活躍した後、明治維新後、東京府大参事、教部少輔、元老院議官などを歴任。その勲功により明治20年5月に華族の子爵に列せられた。明治33年には枢密顧問官にも列する[42]。
大正6年に清綱が死去した後、養子である甥(清綱の弟清兼の子)清輝が爵位と家督を相続。清輝は洋画家として著名であり、東京美術学校教授、帝国美術院長などを歴任し、貴族院の子爵議員にも当選して務めた[42]。大正13年に清輝が死去した後、橋口孝の長男で近藤廉治の養子であった文紀が、清輝の養子として子爵位と家督を継ぐ[42]。彼の代の昭和前期に子爵家の住居は神奈川県鎌倉町にあった[43]。
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