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日本の女性、内閣総理大臣・吉田茂の娘、内閣総理大臣・麻生太郎の母 ウィキペディアから
麻生 和子(あそう かずこ、旧姓:吉田〈よしだ〉、1915年〈大正4年〉5月13日 - 1996年(平成8年)3月15日)は、日本の第45・48~51代内閣総理大臣・吉田茂の三女。実業家・麻生太賀吉の妻。第92代内閣総理大臣・麻生太郎の母。
1915年(大正4年)5月13日、中国の安東に生まれた。父は吉田茂、母は吉田雪子。両親について1919年(大正8年)パリ、1920年(大正9年)ロンドンに赴く。ストレタム・ヒルの小学校に通う。1922年(大正11年)天津に移り、在華イギリス人小学校に通う。1923年(大正12年)、夏休みの一時帰国時に関東大震災があり、以後、家族は東京に残り、父のみ奉天に単身赴任。聖心女学院語学校を卒業。
1930年(昭和5年)12月父のイタリア大使赴任についてローマへ移り、ローマ聖心女学院(Trinità dei Monti)を経て[1]、ロンドン大学に留学する。なお、1930年15歳の頃から父・茂の秘書を務める[2]。また、母・雪子の影響もあり、熱心なカトリックの信者となる。洗礼名は「マリア・ドロテア」。
1934年(昭和9年)10月からの父・茂の外務査察使としての欧米訪問に同行。1936年(昭和11年)の二・二六事件では、湯河原滞在中に反乱軍兵士に襲撃を受けていた祖父の牧野伸顕が和子と祖母の機転によって窮地を脱する[注釈 1][3]。同年6月の父茂の駐イギリス大使赴任以降、1938年(昭和13年)9月の帰朝命令により外交の一線から退くまでは、母・雪子とともに父を助ける[注釈 2]。同年12月に麻生商店社長の実業家の麻生太賀吉と結婚する。子には麻生太郎、麻生泰、寬仁親王妃信子がいる。1941年(昭和16年)10月、母雪子が亡くなる。
1946年(昭和21年)5月、父・茂が総理大臣に就任。1951年(昭和26年)9月8日のサンフランシスコ講和条約締結の会議に、総理大臣の父茂に私設秘書として随行した[注釈 3]。1967年(昭和42年)10月20日、父茂の死を看取る。前日に「富士山が見たい」という父の最後の言葉により、和子は抱き起こしたとされている。父茂の葬儀は和子ら親族により東京カテドラルで行われ、後に改めて国葬が行われた。
1980年(昭和55年)12月2日、夫・太賀吉が亡くなる。1986年(昭和61年)11月、勲二等宝冠章を受章する。1993年(平成5年)12月に、著書「父 吉田茂」が、光文社より出版される。1996年(平成8年)、満80歳で死去。墓所は青山霊園。
もう1人の「吉田和子」で、母親運動を進めた人物で元豊島区議会議員の山家和子とは同姓同名の別人である。
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