高階哲夫
日本のヴァイオリニスト、作曲家、指揮者 ウィキペディアから
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高階 哲夫(たかしな てつお、1896年〈明治29年〉3月5日[1] - 1945年〈昭和20年〉4月17日[2])は、日本のヴァイオリニスト、作曲家、指揮者。本名は高階哲応、出生名は瀬木三五郎[3]、筆名は小田進吾。博報堂の創設者である瀬木博尚は伯父にあたる[4]。
富山県中新川郡滑川町(後の滑川市山王町)で誕生した。生家の瀬木家は富山藩に仕えた家柄で、父は開達小学校(現在の滑川市立田中小学校)の校長、その三男として生まれる。伯父の瀬木博尚は博報堂の創設者。
1901年(明治34年)に天台宗の寺院・長泉寺を継承する高階家の養子となり、1906年(明治39年)に「哲応」に改名した[3][4]。
富山師範学校在学中に、先輩である浄誓寺の福井直秋の後を追い、東京音楽学校(後の東京芸術大学)への進学を決意し卒業後は1年余の浜加積尋常高等小学校訓導を経た。
1916年(大正5年)に東京音楽学校予科に入学した。本科器楽部ではヴァイオリンを専攻し、ドイツのヴァイオリニストであるグスタフ・クローンに師事した[4]。
1921年(大正10年)3月の卒業式ではダビットの「我は小さき鼓手なり」変奏曲を独奏した[5]。なお、(当時の)鈴木バイオリンの鈴木鎮一は、この年の卒業演奏を聴いたことにより欧州留学を決意している。
卒業後は東京女子音楽学校、日本音楽学校の講師を務めた[4]。その一方で、多基永、芝祐孟、杉山長谷夫ら音楽家たちと共に室内楽運動を展開し、各地で演奏会を開催した[4]。名バイオリン製作者として知られる宮本金八の第一号器(400円で購入)を愛用した。
1922年(大正11年)に、相澤ます子(村井満寿)と結婚した。この頃より、若手ヴァイオリニストの第一人者として次第に名声が高まった[6]。
札幌での演奏会をきっかけに、札幌のシンボルとでもいうべき歌「時計台の鐘」を作詞・作曲した[4]。札幌での演奏会の内容を酷評されて落胆したとき、時計台の鐘の音に慰められ、それをヒントに作曲したと伝えられている[1]。
1923年(大正12年)12月23日に東京音楽学校奏楽堂で、伊達三郎、田中規矩士と演奏し、ベートーヴェントリオの基となる(『東京芸術大学百年史演奏編』より)。
1924年(大正13年)グスタフ・クローン指揮ベートーヴェン「第九」の本邦初演に出演。また、女優の川上貞奴が川上児童楽劇団を結成すると、その音楽指導にも当たった[4]。この時の教え子の1人、女優の清川虹子によれば、教え方は非常に厳しく、「間違えるとヴァイオリンの弓で何度も叩く、怖い先生」だったという[2]。
1928年(昭和3年)に初めての映画音楽として、牛原虚彦による映画『陸の王者』の主題歌「栄冠の歌」を作曲した[4]。翌1929年(昭和4年)から松竹映画の音楽顧問を務め、日本初のトーキー映画『マダムと女房』を始めとする松竹製作の映画の音楽を手がけた[4]。主題歌を作った映画の数は20本以上にのぼった[7]。
1931年(昭和6年)に満寿と離婚[8][9]。1934年(昭和9年)に松竹を退社し、同年に日本放送協会東京中央放送局の洋楽部員となり、同管弦楽団の指揮と作曲を担当した。
1936年(昭和11年)、小田進吾の名で島崎藤村の詩『朝』に曲をつけ、国民歌謡のヒット第一号となり、同じ筆名で薄田泣菫「白すみれ」、北原白秋「山は呼ぶ野は呼ぶ海は呼ぶ」などを作曲した[4]。
1941年(昭和16年)には名古屋中央放送局管弦楽団の指揮者に転じて、1942年(昭和17年)、名古屋市で最後のリサイタルを開催した[4]。1945年(昭和20年)に名古屋で、終戦を待たずして49歳で病死した[2][9]。
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