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日本の平安時代の女性、武将・源義経の妾 ウィキペディアから
静御前(しずかごぜん、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性白拍子。母は白拍子の磯禅師。源義経の妾。
『吾妻鏡』によれば、源平合戦後、兄の源頼朝と対立した義経が京を落ちて九州へ向かう際に同行するが、義経の船団は嵐に遭難して岸へ戻される。吉野で義経と別れ京へ戻った。しかし途中で従者に持ち物を奪われ山中をさまよっていた時に、山僧に捕らえられ京の北条時政に引き渡され、文治2年(1186年)3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。
同年4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。静は、
と義経を慕う歌を唄い、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子が「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた。『吾妻鏡』では、静の舞の場面を「誠にこれ社壇の壮観、梁塵(りょうじん)ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と絶賛している。
この時、静は義経の子を妊娠していて、頼朝は「女子なら助けるが、男子なら殺すように」と命じる[注 3]。閏7月29日、静は男子を産んだ。安達清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。磯禅師が赤子を取り上げて清常に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。
9月16日、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという。その後の消息は不明。
以下、『吾妻鏡』に静が登場する箇所の現代語訳。
静に関して史料による記録が見られるのは、上記の『吾妻鏡』のみであり、同時代の都の貴族の日記などで静に関する記録は一切見られない。『吾妻鏡』は時の権力者で源氏から政権を奪った北条氏による編纂書であり、静の舞の場面は源氏政権の否定、北条氏(政子)礼賛という北条氏の立場に拠ったものである事から、北条氏の政治的立場による曲筆との見方もある(『吾妻鏡#吾妻鏡の曲筆と顕彰』参照)。また、史実から確認できる静以外の義経の妻妾は河越重頼の娘(正室・郷御前)と源氏の敵である平時忠の娘(蕨姫)しかいないが、北条氏と政治的に対立した比企氏の存在を否定的に描く『吾妻鏡』では、比企氏の外孫である重頼娘の存在感を消すための曲筆の手段として静御前の存在を利用したとする見方もある(『吾妻鏡』において義経の正室である重頼娘の記事は3か所のみである)[1]。その他のエピソードは、鎌倉時代に成立した軍記物語である『平家物語』「土佐房被斬」章段の一部と、室町時代初期に書かれた『義経記』の創作によるものである。
『義経記』によると、日照りが続いたので、後白河法皇は神泉苑の池で100人の僧に読経させたが効験がなかったので、100人の容顔美麗な白拍子に舞わせ雨を祈らせた。99人まで効験がなかったが、静が舞うとたちまち黒雲が現れ、3日間雨が降り続いた。静は法皇から「日本一」の宣旨を賜った。また法皇は、静を見て「カノ者ハ神ノ子カ?」と感嘆したと言う。その後、住吉での雨乞いの時に、静を見初めた義経が召して妾にしたという。
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静は、京都府京丹後市網野町磯地区で禅師の娘として誕生したとされ、記念碑が立っている[2]。近くには静神社がある[2] [3]。様々な遺品や義経から静御前宛の恋文などが伝世していたが1782年の火災で消失したと言われている。
静御前が奥州の源義経のもとへ向かう途中立ち寄ったとされる宇都宮七名水の一つ「亀井の水」(宇都宮市下河原町)は、お供の亀井六郎が槍で地面を突いた際に湧き出た水で、静御前の喉の渇きを潤したと伝わっている[4]。
宇都宮市教育委員会発行の「宇都宮の旧跡」(1989年発行)、同じく宇都宮市教育委員会発行の「宇都宮の民話」(1983年発行)によると、宇都宮二荒山神社の下之宮西側に鏡ヶ池という大きな池があり、そこから発見された鏡は義経の無事を祈願するために立ち寄った宇都宮大明神(現・宇都宮二荒山神社)で、参拝前に手を清めた際に落とした鏡とされ、その鏡は宇都宮大明神に奉納されたとされている[5]。
宇都宮大明神を後に日光道(現・清住町通り/旧日光街道)を北上すると戸祭村柿木の地名の由来になった柿の木[6]と井戸(現在の御前井戸)があり、そこで少休し、さらに日光道(現・日光街道)を北上すると現在の宇都宮市野沢町には御前桜・静さくらが現在まで伝わっており(現存する桜は12代目[7])、奥州へ向かう途中、源義経が衣川で討死したとの報をこの地で聞いたとされ、静御前が源義経より贈られ大切にしていた桜の杖を地にさしたところ芽が吹き後の世まで伝わったとされている[8]。静桜のすぐ近くには亀井六郎の墓と伝わる墓がある[9]。
義経終焉の地とされる衣川、静御前の墓と伝わる埼玉県久喜市栗橋の「静女の墳」にはしずか桜が植えられている。これは栃木県宇都宮市野沢の御前桜、しずか桜が原木で、この原木より接ぎ木して現代に伝わったものである[10]。
静の死については諸々の伝承があるが、はっきりしたものはない。自殺説(姫川(北海道乙部町)への投身、由比ヶ浜への入水など)や旅先での客死説(逃亡した義経を追ったものの、うら若き身ひとつでの移動の無理がたたったというもの。静終焉の地については諸説ある)など列挙すればきりがないが、いずれにせよまだ若年のうちに逝去したとする説が多い。
・山口県山口市に伝説静御前墓所が存在する。
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