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稲村 坦元(いなむら たんげん、1893年4月19日 - 1988年4月17日)は、日本の曹洞宗僧、郷土史家。東京都、埼玉県において文化財の調査保護に携わる傍ら、埼玉郷土会を設立。自治体史の編纂にも関わり、埼玉県の郷土史研究を主導した。晩年は永平寺副監院、埼玉県郷土文化会名誉会長。
明治26年、福井県大野郡大野町に石川安兵衛の三男として生まれる[1]。幼名は桃太[1]。なお、戸籍上は6月1日となっている[1]。1903年8月、大野町洞雲寺大洞慧全の下で出家した[1]。後に岐阜県八幡町悟竹院で稲村活元の法を嗣いだ[1]。
1912年3月、福井県立大野中学校(福井県立大野高等学校)を卒業。上京して本郷区菊坂町長泉寺に仮寓し、曹洞宗第一中学林(世田谷学園中学校・高等学校)補習科を経て、曹洞宗大学(現:駒澤大学)で山田孝道、大森禅戒に学ぶ[1]。一年病気休学を経て、1918年7月に大学卒業[2] 後、曹洞宗研究生に任じられ、東京帝国大学史料編纂官補鷲尾順敬に仏教史を学び、山陰、九州で曹洞宗史関連史料を調査した[1]。
1919年の史蹟名勝天然紀念物保存法を受け、東京府史蹟保存調査嘱託となった[1][3]。1924年4月、柴田常恵、後藤守一等とともに町田市高ヶ坂石器時代遺跡を調査した[1]。1926年7月、矢吹活禅と史跡名勝天然記念物保存協会を再建した[1]。1927年10月、東京府東村山村の正福寺に中世建立の地蔵堂を発見し、田辺泰等と調査した[1]。
1928年『埼玉県史』編纂主事に就任。1929年5月、埼玉県立図書館内に埼玉郷土会を立ち上げ、機関誌『埼玉史談』を創刊し[4]、また柴田常恵と共に『埼玉叢書』を刊行した[1]。6月、岩淵町赤羽町より埼玉県浦和市岸町二丁目415番地(さいたま市浦和区岸町七丁目7番17号)に転居した[1]。
戦時中は、金属類回収令に伴い東京都、埼玉県内寺社蔵重宝の回収免除、都内重要美術品の疎開に尽力し、戦後は一転してGHQの刀剣回収に対し調査を行った[1]。
1956年7月、東京都の都下、三宅島、御蔵島の文化財調査に従事した[1]。1964年3月東京都教育庁を退職。5月より東京都立日比谷図書館で渡辺刀水旧蔵名家書簡を調査した[1]。
1970年4月、埼玉県立熊谷図書館が設立されると、蔵書約1,200冊を寄贈し「稲村文庫」とされた[5]。
1984年、川越市小沢家依頼により貴族院議員小沢武雄の事蹟を調査したのが最後の仕事であった[1]。1985年6月24日、脳血栓により青木医院に入院[1]。右片麻痺、言語障害を患う中リハビリに励んだが、1988年4月17日午後6時、同病院で死去した[6]。墓所は原山の公営墓地[7]。
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