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田辺 泰(たなべ やすし、1899年1月14日 - 1982年4月1日[1])は、日本の建築史・美術史学者。工学博士(1939年)。早稲田大学の建築史担当教授を伊東忠太、佐藤功ーより引き継ぐ。 昭和初期に関東地域の社寺建築の調査を行ない、関東系の建築史を大成する。 後年は古建築の復元・創作、文化財保護に活躍した。
1924年早稲田大学理工学部建築学科卒、同助手、1925年助教授、1939年「関東地方に於ける古建築の研究」で工学博士の学位を取得。1941年教授。1969年定年、名誉教授[2]。 1930 (昭和5) 年、中国および沖縄の建築調査(1931まで、1934-35)。 1964(昭和39)年、日本建築大工技能士会会長。 1965(昭和40)年、文化庁文化財保護審議会専門委員。
在来の建築史が関西中心の社寺建築を主たる対象としていたのに対し、眼界を広げて新しい分野の開拓に専心。この点から言えば、確かに先駆者の一人。学位論文「関東古建築の研究」は正福寺地蔵堂の発見をはじめとし、関東にある古建築の解明に大きな足跡を残した。今日、古建築の地方色といった事が問題となっている時、昭和初期にこうした関東の建築に取り組んでいた。「徳川家霊廟」「日光廟建築」などの著書は、その成果の一端であって、貴重な資料である。
琉球に足をのばし、その研究成果を「琉球建築」の大著としてまとめた。第二次大戦の戦火を極度に受けた現在、この著書は貴重な文献となって、のちに再刊された。また昭和18年にはM.S・ブリッグスの建築工匠史の訳書を出版。現在の建築技術史の研究において、すでに戦前にこれに着目し、著書を出版した。 さらに昭和の初め、学生の卒業論文の指導の一環で郷里の岡山城天守を実測調査、それを契機として大著「日本建築」の城郭篇に研究成果を発表。これも建築史に新しい分野を拓たものである。田辺は建築史の分野で常に新しい境地の開拓を試みて、多くの後輩のために先覚者としての余光を残している。単に研究発表に止らず、実際の寺院建築の設計に多くの業績を残した。
携わった作品は、不忍池弁天堂(1958)、円覚寺仏殿(1964)、鶴見総持寺太祖堂(1965)、岡山城天守閣(1966)など。
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