Loading AI tools
日本の物流企業 ウィキペディアから
澁澤倉庫株式会社(しぶさわそうこ、英: Shibusawa Logistics Corporation)は、東京都江東区に本社を置く物流企業である。
本社がある澁澤シティプレイス永代 | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
市場情報 | |
本社所在地 |
日本 〒135-8513 東京都江東区永代2丁目37-28 (澁澤シティプレイス永代) |
設立 | 1909年7月15日 |
業種 | 倉庫・運輸関連業 |
法人番号 | 6010601038102 |
事業内容 | 物流事業(倉庫業務、港湾運送業務、陸上運送業務、国際輸送業務、その他物流業務)、不動産事業 |
代表者 |
大隅毅(代表取締役社長) 倉谷伸之(代表取締役専務) |
資本金 | 78億47百万円 |
発行済株式総数 |
1521万7747株 (2024年3月31日現在) |
売上高 |
連結:734億17百万円 単体:602億87百万円 (2024年3月期)[1] |
営業利益 |
連結:42億71百万円 単体:36億89百万円 (2024年3月期)[1] |
経常利益 |
連結:50億91百万円 単体:46億37百万円 (2024年3月期)[1] |
純利益 |
連結:37億28百万円 単体:35億57百万円 (2024年3月期)[1] |
純資産 |
連結:626億27百万円 単体:542億42百万円 (2024年3月期)[1] |
総資産 |
連結:1,127億72百万円 単体:973億17百万円 (2024年3月期)[1] |
従業員数 |
連結:1,289人 単体:524人 (2024年3月31日現在) |
決算期 | 3月31日 |
主要株主 |
パン・パシフィック・インターナショナルホールディングス 9.52% 日本マスタートラスト信託銀行6.52% 東京海上日動火災保険 5.71% 清水建設 4.93% みずほ信託銀行(退職給付信託みずほ銀行口)4.93% トーア再保険 4.29% 中央日本土地建物 3.47% 帝京大学 2.78% 日本カストディ銀行2.68% 埼玉りそな銀行 2.63% (2024年3月31日現在) |
主要子会社 |
澁澤陸運 100% 大宮通運 80.1% 日正運輸 100% 平和みらい 68.2% 北海澁澤物流 100% |
関係する人物 |
渋沢栄一(創業者) 渋沢篤二 佐々木勇之助 八十島親徳 渋沢敬三 渋沢智雄 渋沢信雄 |
外部リンク | https://www.shibusawa.co.jp/ |
特記事項:財務データは2024年3月期 第177期 有価証券報告書[1]による。 |
1897年に日本の資本主義の父と称される渋沢栄一が、自邸倉庫を使い渋沢家直営事業として創業[2]した。同じく渋沢栄一が設立し経営に携わった第一銀行と創業時より親密であり、その流れを汲んで旧第一勧銀グループ(現みずほフィナンシャルグループ)の三金会や、渋沢栄一、第一銀行が支援した旧古河財閥の流れを汲む古河グループの古河三水会に所属している[3][4]。
現在は物流事業、不動産事業を営む。飲料物流、日用雑貨品物流、多品種少ロット品物流、アジア地場物流等を得意とし、ロボティクス等の先進技術活用にも積極的。主要取引先にサントリーグループ、P&Gグループなど多数。
渋沢栄一は天保11年(1840年)武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)の豪農の家に生まれた。やがて尊王攘夷運動に身を投じたものの、文久3年(1863年)地元での蹶起を断念して京都に逃れるため故郷を離れた。京都では朝議参与として在京していた一橋慶喜に仕えることとなった。その後慶喜が将軍になるに至り、結果自身も幕臣の身となってしまったが、慶応3年(1867年)パリ万国博覧会に将軍慶喜の名代として参加する慶喜実弟で年若き御三卿の清水家当主徳川昭武(後に水戸藩主)の随員たる命を受け、日本を離れヨーロッパ諸国を歴訪した。そこで産業革命に成功したヨーロッパ諸国の近代産業と発達した資本主義の社会諸制度に感銘を受け、知識を吸収する[8]。
明治維新後に帰国し、新政府出仕の招請を受けて大蔵省高官に就くも、明治6年(1873年)に官を辞し実業界に転じる。日本初の銀行である第一国立銀行創設を足掛かりに、化学、紡績、製紙、造船、ホテル、ビール、ガス、電力などの日本の近代産業を担う多数の企業設立や、近代社会に不可欠な教育、福祉、医療に係る社会事業創設に取り組んだ。日本の資本主義の生みの親とも呼ばれ、日本の近代社会発展に指導的役割を果たした[8]。
そうした活動の中で、物流や倉庫が社会インフラとして重要な位置を占めることに早くから着目し、商工業を適正に発展させるるためには銀行、保険などと共に倉庫業の発達が不可欠との信念を持ち続け、倉庫業の創設発展に尽力した。
具体的には、明治6年(1873年)の地租改正の租税金納化により、それまでの年貢米の廻米換金という米穀物流の仕組みが損なわれていたことを受けて、明治7年(1874年)頃より第一国立銀行の立ち上げと並行して、従兄の渋沢喜作と共同で米穀物流の再建に奔走した。明治9年(1876年)には物流の中心地、深川にあった近江屋飯島喜左衛門旧宅を当時の持主である豪商伊藤八兵衛から一連の土蔵群と共に自ら購入して住居を移し、その土蔵群に近隣の土蔵を加えて廻米業者への貸倉を行った。同時にその倉荷の荷為替を銀行で決済する制度の創設にも取り組んだ。明治10年(1877年)荷主から独立した倉庫を全国に設置し、物品の保管や流通の他、その倉荷証券の換金により金融の便も図るという、堅実で信用ある倉庫制度を日本中に創設する必要があると、択善会(東京銀行協会の前身)をリードして政府への建白書を提出する。明治15年(1882年)には自らが発起人となり、渋沢喜作、安田善次郎らを誘い、深川に倉庫保管を行う「倉庫会社」と倉庫金融を行う「均融会社」の兄弟会社2社を設立、保管場所の提供に対する対価では無く、保管に対する対価である保管料の考え方を提唱し事業を開始するが、保管責任が曖昧な旧来慣行に端を発する深川廻米騒動等もあり、明治18年(1885年)に二社は休業に追い込まれる。明治20年代になって、ようやく財閥各社などによる倉庫業が開業され始めるが、財閥に偏ることなく新興の商工業者が利用できる倉庫が必要との信念と、保管責任を全うできる荷役直営体制などの倉庫業のモデルを実践する必要があるとの考えから、明治30年(1897年)深川自邸内の倉庫群を使い、栄一自身を営業主、長男渋沢篤二を倉庫部長として、自ら倉庫業を開業するに至った。家業として開始したため、澁澤の名を冠して澁澤倉庫部とした[2][9]。
血洗島にあった渋沢栄一の生家では、養蚕業の他に染料となる藍玉の製造販売も家業としていた。この藍玉の商いの際に使用した記章が、現社章の起源とされている。渋沢一族の本家である通称「東ノ家」では、糸巻きのようなこの印を「チギリボシ」と呼んで、家財道具のありとあらゆるものに付けていたという[10]。この記章を澁澤倉庫では「りうご」と呼んでいるが、元来は糸巻きに糸を巻き付けた形を図案化したもので、この形が鼓を立てて横から見た形に似ているところから「立鼓(りうご)」と呼ぶようになった、などと言われている。この渋沢家の記章を創業の際より、倉庫現場の作業員が着用する袢纏に赤く染め抜いたり、倉庫の壁に掲げたりして使用してきた。澁澤倉庫部が株式会社に改組後も、社章として現在まで使用されている[11]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.