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海上警備隊(かいじょうけいびたい、英語: Coastal Safety Force[1])は、1952年(昭和27年)4月26日から7月31日まで、海上保安庁内に設置されていた海上警備機関。英名はMaritime Guard[2][注 1]/Maritime Security Force[3]/Maritime Safety Security Force[4]と変遷した。
「海上における人命若しくは財産の保護又は治安の維持のため緊急の必要がある場合において、海上で必要な行動をするための機関」とされる[5]。ただし海上保安庁内の機関ではあるものの、警備救難監(当時の海上保安官トップ)の統制を受けないなど独立性の高い組織であった。約6,000名の定員のうち、幹部の99%以上と下士官の98%以上が旧海軍軍人であり[3]、旧海軍軍人主導の元、将来的には海上防衛力の母体として独立することを視野に入れた「スモール・ネイビー」として組織されていた[6][4]。実際、発足同年の8月1日には早くも保安庁警備隊として海上保安庁から独立し、2年後の1954年(昭和29年)7月1日には、防衛庁(現在の防衛省)海上自衛隊へと発展している。
1945年(昭和20年)9月2日、米戦艦「ミズーリ」艦上で行われた日本の降伏文書の調印式を受けて、日本軍全軍の武装解除、戦闘停止が発動された。10月15日には大日本帝国海軍の軍令部門である軍令部が、11月30日には軍政部門である海軍省が廃止された。これを受け、12月1日には、海軍省が担ってきた復員などの業務を引き継ぐために第二復員省が発足したが、これも復員の進展に伴い、1946年(昭和21年)6月15日には第一復員省(陸軍省)と統合され、内閣の外局たる復員庁において第二復員局となった。1947年(昭和22年)末ごろより、旧海軍佐官級の同局員を中心に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)やアメリカ極東海軍司令部(COMNAVFE)の要員と懇親を深めつつ、海軍を含めた再軍備の計画が練られるようになった[6]。
一方、もともと海軍が担っていた日本周辺海域における法秩序維持任務はしばらく宙に浮くことになったが、治安悪化や輸入感染症の流行に伴い、不法入国船舶監視本部を経て、1948年(昭和23年)、連合国軍占領下の日本において洋上警備・救難および交通の維持を担当する文民組織として、運輸省(現在の国土交通省)の外局として海上保安庁が設立されることとなった。このとき、第二復員局から掃海業務を引き継いでいた運輸省海運総局掃海管船部掃海課(田村久三課長)も、保安局掃海課として海上保安庁に移管されることとなった。ただし創設当時は、武装した海上保安機構に対する極東委員会での反発を考慮したGHQ民政局の指示を受け、巡視船が軍事用ではないと明示するため、排水量・武装・速力に厳しい制限が課されていた[6]。
1950年(昭和25年)10月、吉田茂内閣総理大臣が主催する会食の席上、極東海軍司令官C・ターナー・ジョイ中将より、野村吉三郎元海軍大将に対して、ソ連海軍から返却されたあと横須賀港に係留されているタコマ級フリゲート10隻の貸与を認めてもよい旨、非公式の打診があった。この打診を受けて、野村元大将は、保科善四郎元中将および復員庁第二復員局の元海軍軍人とともに海軍再興の私的な検討に入った。1951年(昭和26年)1月、保科元中将は富岡定俊元少将、吉田英三元大佐たちととも海軍再建案を取りまとめ、極東海軍司令部参謀副長(DCSTFE)アーレイ・バーク少将に提示した。計画はバーク少将の助言による修正を経て1952年(昭和27年)1月に受領され、2月には吉田首相にも説明された[7]。
1951年(昭和26年)10月19日、吉田首相と連合国軍最高司令官(SCAP)マシュー・リッジウェイ大将の会談において、フリゲート(PF)18隻、上陸支援艇(LSSL)50隻を貸与するとの提案が正式になされ、吉田首相はこれをその場で承諾した。翌20日、岡崎勝男内閣官房長官より柳澤米吉海上保安庁長官および山本善雄元海軍少将に対し、これらの艦艇受入れと運用体制確立に関して政府の諮問に答えるための委員会の設立が要請された。これを受けて10月31日に組織されたのがY委員会である[7]。
Y委員会は内閣直属の秘密組織であり、第1回会合は、1951年(昭和26年)10月31日午後2時より、委員10名全員の出席のもと、霞が関の海上保安庁の臨時会議室で行われた。Y委員会はその後、海上警備隊の発足前日にあたる1952年(昭和27年)4月25日まで、毎週金曜、29回にわたる定例会を開き、日本の海上防衛力再建のための計画策定にあたった[6]。
Y委員会は当初、旧海軍軍人8名と海上保安官2名の計10名の委員により構成されていたが、人数比があまりに開いていたことから、第2回会合より、臨時委員として海上保安官1名が追加された。旧海軍軍人のうち、山本元少将、秋重元少将、永井元大佐の3名以外は、いずれも第二復員局(旧海軍省)の部課長クラスであった[6]。
旧海軍側は、創設される新機構(海上保安予備隊ないしは海上警備隊[8][注 2])に関して、次の四点などの基本見解を述べた。
これに対して海保側は「海上保安予備隊」について以下の設置要綱を述べた。
海上保安庁側(以下「海保」と略す)はあくまで海保の強化を目指す内容であり、新海軍の分離を目指す第二復員局側(以下「二復」と略す)を牽制した。
海保側の方針に対して二復側は「海保案は軍令系のみで、二復側(旧海軍側)案は軍政・軍令の両案があるのが大きな相違である」と反発した。これに対して海保側は「沿岸警備力増強の為の新機構であるが、国民に対して軍の再建と言う不安を与えぬ考慮が必要である」「予備隊は実施部隊であるが、経理も人事も取り扱うので軍政部門もある。したがって二復側の要綱にある『実施部隊』という用語が不適当である」など、当時の反軍感情に言及して反論した。
それに対して二復側は「海軍を作ろうというのに文官が長官でということはあり得ない」「管理するのは官制上長官であり、総務部などは幕僚機関であるべきだ」と反発した[4]。ただし、二復側と海保側では新機構は「アメリカ海軍の傭兵ではなく日本の自主独立の立場を貫く」事では一致した[4]。
1952年(昭和27年)1月10日に旧海軍側の山本グループが「新空海防衛力建設について所見」と題する報告書をアメリカ極東海軍司令部に提出。本報告書は5~6年かけてまとめた再軍備実行計画案(別冊第一)と、計画遂行を2~3年延長する事態になった場合の修正案(別冊第二)からなり、「今般海上保安庁から提案された船舶増勢要求案は単にCoast Guardの強化を図るものであって航空並びに海上の防衛力増強には極めて非能率なものと言わねばならぬ」とし、再軍備予算としてY機構に約56億円、新規計画に280億円、合計336億円を計上する事を提案した(「新空海防衛力建設について所見」1月10日)[4]。
「新空海軍建設の概要」— 旧海軍側、[4]
- 1951年、1952年会計年度にアメリカから貸与される艦船60隻をY委員会勧告に基づいて、速やかに有事即応可能となるような戦力錬成を図る、この場合、Y機構の要員計画を約8000人とし、機構の編成等は同委員会の報告とおりにする。
- 時機を得たならば、Y機構を海上保安庁から分離し、新国防自衛力の骨幹たるべき本格的空海軍を創設する。この場合の機構編成は研究中であるが、おおむね野村提督および第二復員局から貴司令部へ提出した構想を基盤とする。
- 前各号に伴う軍備計画は、飛行機1800機、艦船28万トン、要員10万人の空海軍兵力を8ヶ年で整備する。
1952年(昭和27年)2月4日に合同委員会が開かれ、新機構のあり方についてはアメリカ極東海軍軍事顧問団の裁定に委ねることになり、オフチー参謀長は二復側の案を認めて「(新機構を)separate(分離)する案でなければいけない」と述べ、新機構の名称も海保側が命名した「海上保安予備隊」を却下して「ぜひともCoastal Safety Force」にせよとされ[4]、15日には海上警備隊(Maritime Security Force)に対する次長や警備救難監の指揮権が及ばないことが委員会に報告された[3]。最終的には海上警備隊(Maritime Safety Security Force)として、いずれ新機構を海保から離脱独立させることが決まった[4]。
従来の海上保安庁の機構に加えて、海上警備隊を新設することについて再軍備の懸念もあり、発足時には以下のような国会における答弁がなされた。
海上警備隊の創設は、1952年(昭和27年)2月20日、海上保安庁の改正案要綱として正式に発表された[6]。同年4月26日、正式に海上警備隊が発足し、同日に海上警備隊総監部が霞が関の旧海軍省庁舎に設置されたが、ここでも二復(旧海軍)と海保の間で激しい人事抗争が起こり、とくに4月26日に海上保安庁次長であった山崎小五郎が海上警備隊総監に内定した際は、山本は日記に「今日は最も不愉快な日かもしれない、否、もっと不愉快な日が何日も来るだろう」と書き込んでいる。その後、水面下で課長級人事をめぐっても激しい人事抗争が起きている[9][注 3]。
1952年(昭和27年)5月19日に山本は旧海軍の大将クラスで構成されていた「大将会」[注 4]で海上警備隊創設に関する経緯の報告を行い、併せて山梨勝之進と野村により他の海軍大将12名に対して山本へのさらなる協力の要請が行われ、大将達から了承を得ていた。この会合には初代海上警備隊総監である山崎も出席して自身への「大将会」の支援を要請し、これに対して「大将会」は「一同心から」支援することを了承し、旧海軍と海保の間で一応の「手打ち」が成された[9]。
海上警備隊発足時、定員は計6,038名(海上警備官 5,947名、事務官 91名)、実数は計1,122名(海上警備官 1,045名、事務官 77名)とされていた[7]。また外交・政治的な手続きや船艇整備などで時間をとられていたためにPF等船艇の正式引渡しが間に合わず、発足時には運用船艇をもたない陸上組織にとどまっていた。その後、整備を完了した船艇の遂次保管引受け(借用)が開始され、第1陣としてPF 2隻および上陸支援艇(LSSL)1隻が引き渡されて、基幹要員の教育訓練に用いられた[7]。
海上保安庁の海上警備隊から保安庁・警備隊、海上自衛隊へと移り変わるなかで使用された官職名や階級の一覧。
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