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プラトンの著作のひとつ ウィキペディアから
『法律』(希: Νόμοι、ノモイ[1]、羅: Leges、英: Laws)は、プラトンの後期末(最後)[2]の対話篇。副題は「立法[3]について」。
アテナイからの客人は、クレイニアス、メギロスに、彼らの国の法の制定者は誰になっているのか尋ねる。クレイニアスは神ゼウス(メギロス(ラケダイモン)においてはアポロン)であり、(ホメロスの『オデュッセイア』に言われているのと同じように)「ミノス王が9年ごとに父ゼウスの元を訪れて言葉を戴き、法を制定した」ことになっているという。また、ミノスの弟ラダマンテュスも、様々な訴訟をこの上なく正しく裁いたことになっているという。
彼ら3人は、クノソスからイデ山を登り、「ゼウスの洞窟」まで行く予定となっていたが、上記の話を聞いてアテナイからの客人は喜び、道中その国制・法律について話をしていくことに決めた[5]。
こうして登山がてらの対話が開始されるが、議論が盛り上がり、3人はそのまま時間を忘れて休息所で話し込んでしまうこととなる[6]。
そして、それはやがて、(クレイニアスが委託されている「クレテの植民計画」の参考となる)「マグネシア」(マグネシアの国、マグネシア人の国・国家)という架空の理想国家の建設、その国制・法律のありようを、言論上で構築していく話になっていく[7]。様々な観点から、「マグネシア」の国制・法律を語り尽くした上で、最後にその国制・法律を保全する機構としての「夜の会議」が提示され、話は終わる。
上記の通り、ソクラテスも登場せず、舞台もアテナイではなく、また全12巻から成る長編であるといったように、かなり異色な作品となっている。
全12巻の主な構成は、以下の通り。
まず冒頭の第1巻〜第2巻においては、導入部において、「登場人物の母国であるクレテやラケダイモン (スパルタ) では、神 (ゼウスやアポロン) や、それに教えを受けた者 (ミノスやリュクルゴス) が「立法者」となっている」という話題から、その「国制・法律」を、登山がてらの話のタネにすることが、アテナイからの客人によって提案され了承される。
続いて、客人によって、クレテやラケダイモン (スパルタ) の制度が、「勝利」「勇気」「苦痛 (恐怖) の克服」に偏っていることに対して、疑問が呈され、「平和」「徳の全体/善/知性」を優先/尊重すべきことや、「節制」「快楽の克服」も兼備することの重要性が説かれる。
更に、「共同食事」といった一見「有益」に見える制度も、「有害」な側面が孕まれているし、逆に「酒宴」のような一見「有害」に見える制度も、扱い次第では「有益」なものになるのであり、重要なのは、「立法者/制度設計者」や「法律/制度の守護者/協力者」たちが、しっかりと教育を修めて「真理/善/徳性」を踏まえ/見据えつつ、そこへと若者たちを善導していけるかどうかであることが、「歌舞団/合唱隊 (コロス)」「音楽/演劇/作家」の話題を絡めつつ、客人によって指摘される。
(※したがって、これは、『国家』第3巻の「国の守護者の教育」、第7巻の「哲人統治者の教育」、第10巻の「詩作 (ポイエーシス) の扱い」といった内容を、部分的におさらいする内容ともなっている。)
第3巻では、「国制」について述べられる。まずはその起源について、大洪水、家父長制、王制・貴族制、イリオン (トロイア)、そしてラケダイモン (スパルタ) 等ドーリア人国家といった仮想的な歴史の流れが参照され、「徳性」や「調和/適度/混合」の重要性、それらによって国内に「自由/思慮/友愛」を保全/確保することの重要性が説かれる。更に、ペルシア (専制に偏り) とアテナイ (自由に偏り) の失敗例も参照しつつ、ラケダイモン (スパルタ) やクレテのような「混合制 (混合政体)」の優越性/重要性が強調される。
そして末尾では、クレイニアスがクレテの新たな植民計画を委託されていることが明かされ、その参考にもなるし、これまで議論されてきた国家統治論・人生論の有益性の検証にもなるので、これまでの議論内容を基に、根本から言論上で国家を組み立ててみようという話になる。
第4巻では、最初に「国の立地条件」「立法者 (立法術)」「混合制 (混合政体)」「神/法への服従」の重要性を確認した上で、具体的な立法内容に移っていく。
まず「神々/両親に対する敬い」について言及した後に、「法律」というものは、「強制 (威嚇)」のための「本文 (条文)」のみを記す「単式」がいいのか、そこに「説得」のための「序文」も併記した「複式」がいいのかという議論になり、後者が選ばれる。そして、法律全体の「序文」として、先の「神々/両親に対する敬い」に続く内容が、述べられていくことになる。
第5巻では、まず法律全体の「序文」の続きとして、「魂を善くする (という形でそれを敬う) こと」「身体/財産における調和/適度/中庸」「親族/友人/同国人/外国人との関係」が述べられた後、「個人の生き方」に関して、「神と関係のある部分 (「魂」)」と「人間と関係のある部分 (「身体 (快楽/苦痛)」)」という2つの観点から、「「徳」と「法」に従う生き方」が優れたものとして論証/推奨され、法律全体の「序文」は締め括られる。
続いて、法律の「下図」に当たるものとして、新しい植民国家の「土地」と「市民」のあるべき構成が述べられる。
この節の加筆が望まれています。 |
クレテやラケダイモン (スパルタ) では、神 (ゼウスやアポロン)、あるいはその指導・教えを受けた者 (ミノスやリュクルゴス) が国法制定者 (立法者) とされている。その話を受けて、クノソスからイデ山の「ゼウスの洞窟」までの山登りの最中、「国制・法律」の話をすることを決定。
クレテの「共同食事・体育・(地形に合った) 弓矢の装備」などの法律規定は、立法者の「戦い重視」姿勢の表れであり、「全ての国は、全ての国に対して、常に「宣戦布告の無い戦い」に巻き込まれているのが、自然本来の姿 (自然状態) なのであり、平和時 (平時) においても気を抜いてはならない」「戦いに勝たなければ、財産や制度なども何の役にも立たないのであり、敗者は全てを失い、勝者は全てを手に入れることになる」という立法者の考えを反映したもの。(クレイニアス)
クレテやラケダイモン (スパルタ) の国家統治の規準は、「戦いの勝利 (他国の征服)」であり、この規準 (勝利) は、「国家と国家」の関係のみならず、「村と村」「家と家」「個人と個人」の関係においても同様に正しく当てはまり、言わば公的 (対外的) には「万人は万人に対して敵」であると言える。また、一個人の内面における「自分と自分」(自分自身に対する自分) もまた敵対関係にあるのであり、その私的 (対内的) な「内なる自分自身との戦い」において、「自分自身に勝つこと (克己)」は、全ての勝利の根本とも言える最善のものであり、逆に「自分自身に負けること」は、最も恥ずかしく最も悪い敗北である。(クレイニアス)
また、「自分自身に勝つこと (克己)」は、個人だけでなく、家・村・国家においても同様にあることであり、国家の場合は「優れた人々が、多くの劣った人々に勝っている場合」を指す。(クレイニアス)
家でも国家でも、対立する内部の勢力に関して、悪い方を滅ぼしたり、強制服従させるよりは、和解・友愛・平和に導く方が、裁判官・立法者・政治家として優れている。「病気の治療 (戦い)」よりも、「治療を必要としないこと (平和)」を目指すべき。(客人)
「対外戦争」においては (殺し合いができる)「勇気」だけがあればいいが、厄介な「内乱」において信頼できる人物は「正義/節制/思慮/勇気」の全てを備えてなければならないのであり、後者の方がはるかに優れている。また、有能な立法者ならば、最大の徳に着目して立法する。(客人)
したがって、クレテやラケダイモン (スパルタ) の立法者 (ミノスやリュクルゴス) は、「勇気」ではなく、「徳の全体」に着目して、人々に「善きもの」の一切をもたらし、彼らを「幸福」にするために立法したと言うべき。また、「善」には、「神的 (魂的) な/大きな/上位の善 (思慮/節制/正義/勇気)」と、「人的 (身体的) な/小さな/下位の善 (健康/美/頑強/富)」があり、立法者はそれらを統括する「知性」に着目していることを市民に勧告した上で、各種の諸規定を行うべき。したがって、2人には、それぞれの国の法律に、それらがどのように採り入れられているかを説明して欲しい。(客人)
再度、「勇気」を取っ掛かりとして、制度/法律に込められている「徳」の検討。(「共同食事」「体育」「狩猟」に続く) 第4の「制度的工夫」としての「格闘/秘密任務など」に見られる、「恐怖/苦痛に対する戦い/訓練/勝利」の意図。他方で「欲望/快楽に対する戦い/訓練」の欠如。
「苦痛」を克服しても、「快楽」に屈して隷属するならば、「勇敢」「自由」とは呼べない。国制に関しては、「ある面では益でも、別の面には害を及ぼす」といったことがあり、理論/実践どちらでも容易では無い。例えば、(「勇気/節制」の徳の涵養のために設けられた)「共同食事」「体育」は、「内乱」や「同性愛」の温床ともなっている。「快楽」と「苦痛」は、適所/適時/適量に用いれば「幸福」になるが、そうでないと「不幸」になるのであり、それゆえ法律に関する考察のほとんどは、この「快楽」と「苦痛」で占められている。(客人)
ラケダイモン (スパルタ) における「完全禁酒」の是非。
「酒宴」のような風習に対する評価は、「素面(しらふ)で知恵のある支配者」の下で正しく行われている場合に、為されなくてはならない。(客人)
「酒酔い」を正しく議論するには、「音楽・文芸 (ムーシケー)」とは何か、更には「教育 (パイデイア)」とは何かを、踏まえなくてはならない。(客人)
「(真の) 教育」とは、「正しい支配/被支配」を心得た「完全な市民」を作り上げるために、その「徳」を養育するもの。(客人)
人間は、(「鉄の導き」である) 様々な「苦痛」「快楽」(や、それらについての「予想/予期/思わく」である「恐怖」「大胆」) と、(「黄金の導き」である)「善/悪」についての「理」(国家の場合は「法律」がそれに相当) に、あちこちから引っ張られている「神の操り人形」のようなもの。(「黄金の導き (種族)」である)「理」は強制力が弱いので、「補助者 (気概)」を必要とする。このように見れば、「徳」や「自分に勝つ/負ける」といった意味が、一層明らかになる。更に、個人は「理」を内に宿して暮らすべきことや、国家はその「理」を神/識者から受け取り、「法律」に定めた上で、自国他国と折り合っていかねばならないことも、明らかになる。そして、このように考えれば、「徳/悪徳」の区別や、「教育」その他の諸制度、そして「酒宴」の意味も、一層明らかになる。(客人)
「恐怖」には、「勇気」を涵養するために克服されるべき、「苦痛に対する予期」としての「恐怖」(克服されるべき「恐怖」) と、「節制」を涵養するために獲得されるべき、「立派でない言動をしてしまうこと」に対する「羞恥心」としての「恐怖」(獲得されるべき「恐怖」) の2種類があるのであり、後者の「恐怖」(獲得されるべき「恐怖」) としての「節制/羞恥心」を養うための、比較的安全かつ手軽な「快楽」克服訓練として、「飲酒/酒宴」は有用である。(客人)
「酒宴」のしきたりが立派に立て直されれば、「教育の保全」にもなる。(客人)
「教育」とは、「幼年期の子供たちの「魂」に、「快楽/愛」「苦痛/憎悪」が、「適切な習慣」の下で、立派に正しくしつけられること」であり、「それによって、成長して「理知」による把握が可能になった際に、「理知」がその両者 (「快楽/愛」「苦痛/憎悪」) と協調して、「徳」を形成できるようにすること」である。(客人)
神々は、人間の労苦の休息のために、「祭礼」という気晴らしを定め、それを矯正する同伴者として、ムーサ・アポロン・ディオニュソスを差し向けた。その神々は、人間にのみ与えた「運動におけるリズム (リュトモス) と、音声におけるハーモニー (ハルモニア) を楽しむ感覚」を通して、(子供の頃はじっとしていられずに、絶えず動き、声を出す) 人間たちを、運動させてつなぎ合わせるのであり、(「喜び (カラ)」に因んで) それに「歌舞団/合唱隊 (コロス)」と名付けた。これこそが「教育」の初めである。(客人)
したがって、「教育を受けた者」とは、「立派に歌舞できる者」のことであり、その「立派」とは、「(魂/身体の) 徳」と関わりを持っていること。しかし大多数の人々は、「快楽」をその規準としている。(客人)
「歌舞 (コレイア)」は諸性格の「模倣/同化」であり、そうした「音楽・芸術 (ムーシケー)」の教育/遊戯に関して、「作家 (詩人) の自由」に委ねてはならない。エジプトのように、立派 (有徳) なものだけが残るように、芸術を規制しなくてはならない。(客人)
全市民を観衆として、「快楽」を規準に、観衆を楽しませることを「競技」として競わせると、「幼児」たちは「操り人形劇」を支持し、「少年」たちは「喜劇」を、「教養ある婦人/青年」たちをはじめとする「大衆のほとんど」は「悲劇」を、「老人」たちはホメロスの叙事詩 (『イーリアス』『オデュッセイア』) やヘシオドスの詩句を支持することになる。この中で「真の勝利者」は、(最も分別ある)「老人」たちに支持された者である。(客人)
「音楽・芸術 (ムーシケー)」を、「快楽」を規準として「判定」するのはいいが、その「判定者」は「最も優れた人/充分な教育を受けた人/徳と教育の点で抜きん出た人」でなくてはならないのであり、イタリア/シケリアのように、判定を観衆に委ねてしまうと、堕落を生むことになる。(客人)
このように真の「教育」とは、「老齢の有能な人物が、その経験に照らして正当とし、法律によって告示された「理」へと、子供たちを誘い導き、その「快/苦」をしつけること」である。そして、「歌 (歌舞)」はその習慣付けのための「魂への呪文」だと言える。(客人)
「詩作」に関してそのような旧習を守っているのは、ギリシャにおいては、クレテとラケダイモン (スパルタ) ぐらいのもの。(クレイニアス)
「教育」など全般に言えることは、「どんなに身体や所有物の面で優れていても、「正義」などの「内的な徳性」が優れていなければ、台無しになる」ということ。(客人)
「最も正しい (正義な) 生活」と「最も楽しい (快楽な) 生活」は一致する。(客人)
若者を善導する「有益な偽り」なら許される。(客人)
ムーサに仕える「少年」の「歌舞団/合唱隊 (コロス)」、アポロンに仕える「青年 (30歳未満)」の「歌舞団/合唱隊 (コロス)」、そして「壮年-老年 (30歳-60歳)」の「歌舞団/合唱隊 (コロス)」という3種類の「歌舞団/合唱隊 (コロス)」にそれぞれ、「「最も正しい (正義な) 生活」と「最も楽しい (快楽な) 生活」は一致する」という旨の歌を歌わせて、子供たちの魂を魅惑しなくてはならない。(客人)
3番目の「壮年-老年 (30歳-60歳)」の「歌舞団/合唱隊 (コロス)」は、ディオニュソスに仕えることになるが、それはこの年齢と思慮に最も長じた「最も説得力を持つ人々」に、「徳/正義」を讃美/勧奨して習慣付ける「歌 (魂への呪文)」を熱心に歌わせて、子供たちを魅了/善導するために、「ディオニュソスの秘儀 (酒)」を用いて、その老齢による「頑固さ/気恥ずかしさ」を解きほぐして「柔軟」にする必要があるため。(客人)
「壮年-老年 (30歳-60歳)」の「歌舞団/合唱隊 (コロス)」が歌う歌は、「優れた歌」でなくてはならないが、「音楽」を含む「芸術 (模倣技術)」の優劣は、「快楽」ではなく「模倣の正しさ」「原物の (量的/質的) 再現性」で判定されなくてはならないのであり、そのためには、まず「原物」を正確に認識している必要がある。(客人)
「芸術 (模倣技術)」の「思慮ある判定者」になるためには、1「模倣対象」、2「正しさ (正確性)」、3「立派さ (道徳性)」の3つを理解している必要がある。特に、「音楽」に関しては、扱いを誤ると「害」も大きく、気付かれにくいので、扱いには「最大限の慎重さ」を要する。(客人)
(「ディオニュソス歌舞団」に入る年齢であり、『国家』の「教育論」では、「音階論を含む、数学諸学科を修めた年齢」でもある) 30歳に達した者や、更に (『国家』の「教育論」では、「善のイデア/善そのもの」の感得/注視に踏み込む年齢である) 50歳以上の者は、リズム (リュトモス) やハーモニー (ハルモニア) の善し悪し/正しさを認識できる、(「歌舞団の音楽」よりも)「優れた音楽教育」を受けていなくてはならない。(客人)
「ディオニュソス歌舞団」は、(上記したように)「立派さ (道徳性)」も含む、3つの認識を備える「優れた音楽教育」を受けつつ、リズム (リュトモス) やハーモニー (ハルモニア) をよく観察して、自分たちの年齢・性質にふさわしいものを選択しながら、若者を魅了/善導しなくてはならない。(客人)
そのような「ディオニュソス歌舞団」(を頂点とする善導的な歌舞文化) を形成するには、(老齢による「頑固さ/気恥ずかしさ」を解きほぐすための)「酒/酒宴」も必要とするが、逆にその「酒/酒宴」で乱れてしまうことが無いように、立法者によって若い頃から「教育/人間形成」が施され、「慎み/羞恥心」(としての「恐怖」) を植え付けられている必要がある。また、60歳を超えた (歌舞団を引退した) 素面(しらふ)の指揮者/指導者たちも、「法律の守護者/協力者」として必要とする。(客人)
ディオニュソスは、ムーサ・アポロンと共に (成熟して知性が身につく前の、「音楽・体育術の源」とも言える) 無秩序な幼少期において、「リズム (リュトモス) やハーモニー (ハルモニア) の感覚」を人間に与えてくれたし、さらに「ディオニュソスの贈り物」としての「酒」は、身体には「活力」を、魂には (「訓練」を通して)「慎み」をもたらしてくれる。(客人)
このように、国家が「飲酒」のしきたりを、「節制」を涵養し、「快楽」に打ち勝つための「訓練」とみなし、法律/秩序を守って行うなら容認されるし、他の「快楽」に関する「訓練」になり得るしきたりに関しても、同じことが言えるが、それが単なる無規定/無秩序な娯楽として行われるのであれば、クレテ、ラケダイモン (スパルタ) やカルケドンのように、規制しなくてはならない。(客人)
国制の起源。悠久の時間における成立と推移・変化、その原因。まず大洪水による大部分滅亡(国家・国制・技術・法律喪失)後の人類(無知・素朴な山住の牧人のみ生存)を想定。
彼らは荒涼とした牧草地や狩猟で十分な食料を調達し、また陶工・織物といった素朴な技術のみを持ちつつ、争いも貧富も無く共存していた。(客人)
彼らは知識・技術に乏しかったが、策略を巡せて言葉や行為で争う技術も乏しかったこともあり、素朴な徳を備えていた。
彼らは小部族内の風習・掟に従い、また祖先・父母から最長老が支配権を継承するといった家父長制(デュナステイア)によって運営されていた。
そんな小部族・小集団が寄り集まることで、より大きな共同体が形成されることになるが、そこでは部族の代表者たちが各部族の風習の中から好ましいものを選別し、指導者(王)に採用するよう提言する、という形で立法者となり、王制や貴族制が形成された。
更に第3の国制として、イリオン(トロイア)のような平地に築かれた国制が現れた。(客人)
そして第4の国制として、そんなイリオン(トロイア)を陥落させたアカイア人(ドーリア人)の国制があり、それは軍勢をラケダイモン(スパルタ)、アルゴス、メッセネに3分割し、それぞれに王を擁した国を作り、王家(支配者)と民衆(被支配者)の間では、「王家は世代が変わっても支配権を強化することはしないし、そうである限りは民衆側も支配を覆すことはない」という誓約(契約)が、また3国の相互間では、「どこか一国の王家か民衆がこの誓約を破って不正を働いた際には、他の2国が不正を被った側を支援する」という誓約(契約)が交わされ、立法される形で形成された。
また、この国々では、他の国々と異なり、財産の平等化(不平等の是正)のために、土地所有の変更(再分割・再配分)や負債の帳消しを行う場合にも、大きな反対が生じなかったので、立法者は仕事が容易だった。
しかし、わずかな期間でラケダイモン(スパルタ)以外の2国ではその国制・法律が破壊され、ラケダイモン(スパルタ)との間で争いが続く関係となってしまった。(客人)
そうした国制・法律の崩壊原因は、軍備であれ、富や家柄・名誉であれ、そうした所有するものを、魂の要求(善)に従って利用する術を心得た「思慮」や「知性」の欠如にあり、特に立法者は知性の求めに着目しながら法律を制定しなくてはならない。
こうして先になされた議論の冒頭(第1巻第6章)の話、すなわち法律の制定は、4つの徳(思慮/勇気/節制/正義)の全体、とりわけその先頭に立つ指導的な「思慮」や「知性」に着目して為されなければならないという話に、再び立ち返る形で到達することになった。(客人)
このように、「無知」こそがドーリア人の2国を滅ぼしたのであり、その害悪は今日でも変わらない。したがって立法者たる者は、可能な限り「思慮」を国家に植え付け、逆に可能な限り「無知」を取り除くように努めなくてはならない。
そして、「無知」の中でも「最大の無知」と言えるものが、(第2巻第1章でも述べられたように)「快楽/苦痛(感覚/欲望)」が「理知」の支配/指令に従わないこと、すなわち「理知」と「快苦(感覚/欲望)」の間の「不調和」であり、それは国家の場合も、個人の場合も、同様に当てはまる。
国家の場合は、それは「民衆/大衆」が「支配者/法律」に従わないことを、また個人の場合は、それは魂の内部に「美しい理」が内在しているのに、「快苦(感覚/欲望)」(や「肉体/行動/実践」) がそれに伴わずに、反対の結果をもたらすことを指す。
したがって、そのような「理知」と「快苦(感覚/欲望)」の間の「不調和」としての「最大の無知」を抱えている個人/市民たちには、仮に彼らが他の才知に長けていたとしても、国家の支配権に関わらせてはいけないし、彼らを「無知の者」として非難しなくてはならず、逆に反対の者たち、すなわち「理知」と「快苦(感覚/欲望)」が「調和」している者たちには、他の才知が欠けていたとしても、「知者/思慮ある者」として、支配権を委ねなくてはならない。
あらゆる「調和」の中で「最美最高の調和」こそ、「最大の知恵」と呼ばれるに相応しいのであり、「理知」に適った「調和」的な生活をする者は、その「知恵」に与っている。それに対して、その「知恵」を欠く「不調和(無知)」な者は、それゆえに家も国家も滅ぼすことになる。(客人)
資格のある(正当な)支配者と被支配者の関係性は、
の7種があるが、アルゴスやメッセネの王たちは、何を誤って逸脱し、国を破滅させたのかというと、(ヘシオドスが『仕事と日』の40行でも述べているような)物事の「適度」を超えて、王たちがより多くを得ようとする病気にかかり、誓約(契約)の「調和」を守らなかったことだと考えられる。(客人)
もし人が「適度」を無視して、「小さなもの」に「大き過ぎるもの」を与えると、「船に帆を与える」「身体に滋養物を与える」場合のように、全てを転覆させてしまうことになる。「魂に支配権を与える」場合にも、それは当てはまり、その場合その者は「不正」に陥ったり、更には「極度の驕り」という病気に陥る。したがって、立法者は「適度」をよく認識し、そうした事態に陥らぬよう警戒しなくてはならない。
ラケダイモン(スパルタ)が他の2国と異なり、そうした事態に陥るのを避けることができたのは、
といった「混合」的措置が講じられ、支配権力が「適度」を保てたから。
したがって、立法者は「強大な支配権」や「混合されてない支配権」を設立してはならないし、国家の「自由」「思慮」「友愛」を保たなくてはならない。(客人)
国制の始源は「君主制」と「民主制」の2つであり、他の国制はこの組み合わせで成り立っている。前者の頂点がペルシアで、後者の頂点がアテナイである。
そして、国家に「思慮」に加えて「自由」「友愛」を生じさせるためには、この2つの国制を兼ね備えてなくてならない。ラケダイモン(スパルタ)やクレテの国制は、それを上手くやっているが、ペルシアは君主主義を、アテナイは自由主義を偏愛し、「適度」を保てなくなってしまった。
ペルシアは、キュロスの時代には、他国の被支配者たちにも自由を与え、同等に扱い、能力ある者を登用して名誉と地位も与えるなどして、「自由」「友愛」「思慮・知性」を保つことで、忠誠心・団結力や繁栄・進歩を手に入れた。
しかし、キュロスは教育・家政に心を向けなかったので、息子のカンビュセスは、頑強な牧人を作ってきた父祖伝来のペルシアの技術で鍛えられることなく、王室の女たちに甘やかされて育てられ、贅沢と放埒に浸ったまま王位を継承することになり、弟を殺害した挙句、宦官によって王位を失うという失態を犯して、国の衰亡を招いた。
その後に王権を獲得したダレイオスは、国土を分割し、法律を制定し、貢納品を分配するなど、平等性を高めて、「友愛」と「公共心」をペルシアにもたらし、再び繁栄させた。
しかし、息子のクセルクセス以降の王は、カンビュセスと同じく、王室風の甘やかされた教育によって堕落し、国の衰亡を招くことになった。
それに対して、ラケダイモン(スパルタ)は、名誉も養育も、身分・貧富の差別無く分配・共有されている。
国家においては、富者という理由だけで名誉が与えられてはならないのであり、それはちょうど肉体が優れていても「徳」が欠落している者や、多くの「徳」を備えていながらも「節制」の徳が欠落している者に、名誉を与えてはならないことと同様である。(客人)
「節制」は、他の「徳」が力を発揮するのに不可欠なものだが、それ自体は単独では名誉なものにも不名誉なものにもならないという特殊なもの。
国家が安全・幸福であるために、名誉・不名誉の正しい配分をすると、
の順となるのであり、この順位を決して乱してはならない。
ペルシアの衰退の原因は、支配者が度を越して民衆から「自由」を奪い、専制的になって、国家内部の「友愛」「公共心」を破壊してしまったことにあるのであり、そうなってしまうと、支配者側も被支配者である民衆のことを全く顧みずに、自己の利益のために国内外に残虐行為を行い、敵対心・憎悪を招くことになるし、民衆の側も支配者・国のために戦う熱意・公共心を失ってしまう。
そして支配者は金で雇った異国の傭兵を頼みとするようになるし、名誉や立派さよりも金銭を尊重していることを、自らのその行いで自白する醜態を晒すことになる。(客人)
ペルシアは「極端な隷属と専制」(による「自由」や「友愛」「公共心」の破壊) に陥って衰退したが、続いてアテナイの国制を通して、反対のこと、すなわち「一切の権威に縛られない完全な自由」は、「他者の権威に依存した適度な自由」よりも、大きく劣っていることを詳述しなくてはならない。
ペルシア戦争の当時、アテナイではまだソロンが導入した財産に基づく4階層が維持されており、また市民は慎みの心を持っていて、更にペルシアの侵攻による恐怖も手伝って、民衆は支配者と法律に一層服従しつつ、互いに強い友愛が生じていた。
それが無ければ、アテナイには祖国防衛の団結力・結束力・助け合いも生じなかったし、散り散りとなって崩壊していた。(客人)
しかし、そんなアテナイも、民衆を「全くの自由」に走らせることによって、反対の「全くの隷属」に民衆を導いたペルシアと同じ不幸に陥ることになった。
昔のアテナイでは、民衆は法律(規律)の主人ではなかったし、法律(規律)に服従していた。その一例が「音楽に関する法律(規律)」であり、歌は、
等に分類・区別され、異なる旋律を混同することは許されなかったし、判定や違反に対する懲罰の権威は(大衆ではなく)専門家に委ねられ、最後まで黙って聞くことや、子供に対する懲らしめの鞭など、規律が徹底しており、市民の大部分も自らそれに従っていた。
しかし、時代が進むにつれて、音楽についての(ムーサ的な、自然の)規律に無知なまま、それを侵す詩人たちが登場し、彼らはバッコスの狂乱に耽り、「適度」を越えて「快楽」の虜となり、歌の種類や楽器の調べを混ぜ合わせながら、「音楽に正しい規準など無いのであり、聴く者の「快楽」を規準とするのが正しい」といった主張をするようになった。
そして詩人たちは、そんな音楽に類した歌詞を添えて、演劇として広め、大衆/劇場の観客に、自分たちが音楽についての知恵/判断能力があるかのような思い上がりを植え付けたのであり、彼ら大衆はかつての沈黙から転じて騒々しくなり、歓声/拍手/叫び/野次などでそれを表現するようになった。
こうして、音楽において、かつての「優秀者支配制(アリストクラティア)」に代わって、劣悪な「観客支配制(テアトロクラティア)」(としての「民主制(デモクラティア)」)が、生じた。
これが「教養ある自由人」の間でのみ、また「音楽」に関してのみ生じたのであれば、大したことではなかったが、実際には音楽に端を発して、「万事」に関して知恵があると思う「万人」のうぬぼれや法の無視がアテナイで生じ、それと共に万人の「身勝手な自由」が生じた。
彼らは自らを「識者」であると考えて「畏れ無き者」となり、その「無畏」が「無恥」を生んだ。そして、そうした「思い上がり」のために、「自分より優れた人物の意見を畏れない」こと、これこそが「悪徳」とも言うべき「無恥」であり、それはこのように「思い上がった身勝手な自由」から生じる。(客人)
この「身勝手な自由」からは、続いて、
などが生じ、昔の巨人族(ティタン)のように、止むことのない不幸の境遇に陥ることになる。
以上、ここまでこうした話をしてきた目的は、「立法者は、国家が「自由」「友愛」「知性・思慮」を備えたものとなるように、立法しなくてはならない」(第11章)という発想の下、そのことについての理解を深めることにあった。
そしてそのために、こうして最も専制的なペルシアと、最も自由なアテナイを選択し、その国制を検討してきた結果、「僭主/君主」として振る舞うことの「適量」、「自由人」として振る舞うことの「適量」、そのそれぞれの「適量」を同時に採用すれば、その国制は繁栄するが、それぞれの特徴を「隷属」の「極点」、「自由」の「極点」といった具合に「極点」まで押し込むと、どちらの場合も良い結果にはならないことが明確になった。
そしてまた、これ以前に、ドーリア人の3国、イリオン(トロイア)、洪水後の牧人たち、音楽と酒酔い、徳の種類や立法起源などについて議論してきたのも、結局のところ「国家はどのような統治が最善なのか」「人はどのような生涯が最良なのか」を、知るためだったが、そうした議論が何か「有益な結果」をもたらしたかどうかは、どのような吟味方法によって調査・確認したらいいだろうか。(客人)
1つ吟味方法を考えついた。クレテの大部分は現在、ある植民を計画し、その世話をクノソスの人々に委託しており、そのクノソス政府がまた、自分(クレイニアス)を含む9名にそれを委託している。またその法律についても、クノソスのものであれ、他国のものであれ、気に入ったものを取り入れて制定するように委託している。
そこで、これまで話された内容を基に、根本から建国するつもりで、言論上で国家を組み立ててみよう。そうすれば、これまでの議論結果の有益性についての吟味にもなるし、自分(クレイニアス)にとってもその組み立て方は、将来の国家建設に役立つことになる。(クレイニアス)
その国家は、
といった条件を抱えているが、それは国民が「徳」を身につけるには、悪くない条件である。
なぜなら、良港の近くでもなく、土地が豊かでありながら険しいために輸出するほどの大量生産ができないという環境は、それだけ「商業」への依存が低くなり、「商業的な狡賢さ」に国民が陥ることを避けることができるから。
また、その国の土地は、
という条件も抱えているが、これも「徳」の面では悪くない。なぜなら、船を用いる「海軍」の、「逃走/撤退のし易さ」「船操縦員の多さゆえの適切な報償の困難さ」といった性質は、対照的な「陸軍」の重装歩兵のそれと比べると、立派ではないし、「徳」の涵養の邪魔になるから。(客人/クレイニアス)
その国家の植民者は、クレテ全土などから集まった様々な集団が合流したものとなる。(クレイニアス)
植民地建設の理由は、前の国の土地の狭さに圧迫されてだとか、内乱・征服を逃れてだとか様々あるが、そうした以前の言語・法律を共有する同質な種族による植民地建設や立法は、容易である反面、保守的になりがちで新しい法律・国制を受け入れづらい。
それに対して、多様な種族が合流する場合、新規の法律に服従させるのは容易だが、1つに統合するには長い時間を必要とする。
いずれにしても、立法者には抜きん出た「徳」が要求される。(客人)
立法者の吟味に立ち戻ると、(戦争・貧困・疫病・季節不順などによって、国制・法律の改革を余儀無くされる、といったように)ありとあらゆる偶然・禍が、ありとあらゆる仕方で起こった結果として、法律が形成されているのであり、人間の立法者は、1つも立法を(自律的・完結的に)行なっていないし、人間の営みは、航海術・舵取り術・医術・戦術といった技術も含め、ほとんど全てが「偶然」に左右されるものだと言える。
そしてこれは、「神」が万物を統べ、「偶然・機会」がそれを助ける形で、人間の為す事柄の一切を統べている、とも言えるが、そこに第3の要素として、「技術」が加わるか否かで、人間にとっての物事の得失は大きく異なってくる。舵取り術など他の技術と同じく、立法術もまたそう言えるのであり、それを扱える「真実を身につけている立法者」を、国家は必要とする。
各々の技術に携わる人々は、「何」があれば、その技術がうまく発揮されるかを述べることができる。立法者(立法術)の場合も事情は一緒で、それは「若く、記憶力が良く、聡明で、勇気があり、度量が大きく、そして節制(節度)を備えた僭主」である。
このように、1人の支配者と、真の立法者が幸運にも巡り合い、力を共有する場合に、「最善の国制」への変化が最も速やか且つ容易に行われる。支配者の数が増えるごとに、その困難は増すのであり、その順番は、
の順となる。(客人)
では、その目指されるべき国制は、どのようなものであるか。
ラケダイモン(スパルタ)の国制は、
といった混合的/複合的なものであり、クノソスの国制も同様である。(メギロス/クレイニアス)
そうしたものが「本当の意味での国制」であり、それに対して、民主制・寡頭制・貴族制・王制・僭主制といったものは、本来国制の名に値するものではなく、自分たちの「ある部分」に支配権を与え、それに隷属している諸国家の統治の仕方に過ぎず、その主人が持つ支配力の名で呼ばれているものに過ぎない。
しかし、国制が支配力に因んで名付けられるのなら、知性を持つ者たちの真の主人である「神」の名に因んで(神制(テオクラティア)等と)呼ばれるのが至当である。(客人)
(ヘシオドスの『仕事と日』や、後期対話篇『政治家』でも述べられている)クロノスの黄金時代においては、人間を統治するのにダイモーン(神霊)があてがわれていた。ちょうど牧人が、羊・牛といった家畜の群れを支配するように。
死すべきもの(人間)においては、人の世の絶対的統治者になれるほどの者は誰一人いないのであり、我々は手段を尽くしてこの「クロノスの黄金時代」を模倣すべき。
そして知性(ヌース)の行う秩序づけ(ディアノメー)を法律(ノモス)と名付けて、公的にも私的にも、魂の内部にある(不死へとつながる)知性(ヌース)に服しながら、国家と家を整えなくてはならない。
ところで、世間では、「法律の着目すべき目標」は、「その国制にとっての利益」であると言われている。
また、(『ゴルギアス』のカリクレス、『国家』第1巻のトラシュマコスのように)自然にかなった「正義」の定義とは、「強者の利益」であると言われている。すなわち、民主制であれば民衆が、僭主制であれば僭主が、といったように、国家においては常に強者/支配者が、その支配/国制が持続するように、自分の利益に適うように、法律を制定し、それを「正義」と呼ぶのだからと。
そしてこれ(「強者による弱者に対する支配」)は、以前(第3巻第10章)に挙げた「支配権の資格」の1つにも、数えられている。
さて、それでは我々は、(「クロノスの黄金時代」か、「強者/支配者の利益」か)このどちらに、国家を委ねるべきだろうか。(客人)
支配権が争奪の的となり、勝者と敗者が互いに反目・警戒しながら生活するような状態は、「国制」とは呼べないし、国家全体・公共を目的としない「法律」は、「法律」ではなく、そうした一部の人間のための「法律」を制定する者は、「市民」ではなく「党派者」に過ぎず、そんな彼らが主張する「正しさ」は、空しい言葉に過ぎない。
国家の支配権は、金銭・体力・体格・家柄などに恵まれていることを理由に委ねてはならず、「制定された法律に、心から服従している」こと、その「服従」の点で勝利している者にこそ、委ねなくてはならない。
国家の支配者は、「法律の従僕/下僕」であらねばならず、国家の存亡は、何よりもこの点に掛かっている。
さて、「神」は万有を保持し、本性にかなった円周運動を行い、それに「正義の女神」が常に随行し、「神の掟」をないがしろにする者への復讐者となる。したがって、幸福であろうと心がける者は、「謙遜」と「節度」をわきまえて、「正義の女神」にしっかりと随行しなくてはならない。(客人)
「神に愛され、神に従う者」となるためには、「節度」をわきまえなくてはならない。
「万物の尺度」は (「人間」(プロタゴラス説) ではなく)「神」であり、そんな神に愛されるためには、「節度」をわきまえ、力の限り「神に似た者」にならなくてはならない。
また、神々への「祈り/捧げもの/奉仕」は、「善き者/敬虔な者」が行えば、美しく善く時宜にかなった、幸福な生活のための実り多いものとなるが、「悪き者/不敬虔な者」が行えば、反対の結果となる。
さて、こうして(どうあるべきかについての)「目標/的」を手に入れたが、そこに命中するための「矢/道具」(具体策) はどのようなものか。
まず、
こと、更に続いて、
を祭り敬い、その次に、
を敬うこと。
そして、両親に対しては、「最初にして最大の負債/恩義」を負っているのであり、それを返すのが当然の掟である。自分が所有しているもの(財産/身体/精神)を、生み育ててくれた両親に属するものと見做して、彼らに養育の借りを返すように、それらを以て奉仕しなくてはならない。
両親に対しては言葉を慎んで軽口を言うようなことは避け、逆に両親が立腹して言葉/行為にそれを表しても譲歩しなくてはならない。
両親が他界したら、適度で慎ましい葬儀を行い、また故人たちは適度な財産を割いて敬わなくてはならない。
更に、子供、身内、友人、市民、客人など、全ての人々に対する、神々の意にかなう交わり方の義務を遂行して、自らの生活を整え、幸福なものとなるよう、立法者は法律で以て、説得や強制/戒めを行わなくてはならない。(客人)
立法者は、1つの事柄に関して矛盾したことや両極端なことを述べる詩人たちとは異なり、1つの事柄には1つの「中庸/適度」な説を定めなくてはならないし、その「適度」が「どういうもの/どれだけの量」なのかも、説明できなくてはならない。(客人)
立法者は、法律の冒頭でそうした説明を公表するのが良いか、それともただ条文・罰則を述べるだけが良いか。
これを医者で喩えると、「奴隷の患者」に応対する「奴隷の医者 (助手)」が、患者への説明無しに (まるで「僭主の命令」のように) 指示だけするのに対して、「自由民の患者」に応対する「自由民の医者」が、患者に病状/治療法を説明して同意を得るまでは処置せず、また同意後も患者の気持ちを穏やかにして健康回復を助ける、という区別に類似している。
優れた医者や体育教師なら、この2つの内の (説明無し側の) 劣った1つを用いる (単式) よりも、この2つを用いて治療/訓練を行う方 (複式) を選ぶだろう。
それではその「複式」と「単式」のやり方を、立法に関しても適用して考察してみよう。(客人)
「国家誕生の出発点」となる「結婚に関する法律」を例に取ると、「単式」の場合は、
といった形式となる。それに対して、「複式」の場合は、
といった形式となる。
これによって、法律というものは、「説得」と「威嚇」を併用する長さ2倍のもの (複式) が良いのか、「威嚇」だけを用いる単一のもの (単式) が良いのか、判断を下せるようになった。(客人)
これまでの立法者は、「説得」と「強制 (威嚇)」という2つの方法を用いることができるにもかかわらず、「強制 (威嚇)」だけにうったえて立法してきた。
ところで、自分達が今日行ってきたこの議論は、夜明けに始まり、そのまま休息所に居続けて真昼になるまで法律に関して議論してきたが、直接法律内容に言及し始めたのは今しがたのことであり、それまでの議論は言わば「法律の序文」だった。
一切の言論には「序文」があり、一種の「準備体操」のような機能を果たしている。それは、「その後に来るもの」を受け入れるのに役立つような「心構え」を作るもの。
全ての音楽にも、それに相当する「序曲」が付いている。音楽としての「ノモス」にもそれが付いているが、国政に関わる「ノモス」(法律) には、未だかつて誰も「序文」を作って来なかった。あたかも、そんな「序文」など、本来存在しないかのように。
しかし、自分達の議論は、そんな「法律の序文」の存在を示している。そしてまた、先程の「複式」の話も、法律の「序文」と「本文」の二要素から成るとも言えるのであり、「説得」に関する部分が「序文」に相当する。
以上の話から、立法者たる者は、法律の初めに (「説得」のための)「序文」を付さねばならない。ただし、些細な法律に関しては「序文」を省略しても構わないし、そこは立法者の裁量に委ねる。(客人)
さて、それでは再び本論 (第7章後半) に戻って、「序文」を完成させるつもりで、話を始めよう。
「神々への敬い」「祖先への心遣い」「両親の扱い」等については充分に述べたので、「序文」として言い残されているものは、「魂/身体/財産」に関し、それに「払うべき/控えるべき努力の限度」についてである。(クレイニアス/客人)
自分の持ちものの中で、「魂」こそが最も神的で自分自身と言えるものである。したがって、「魂」は、「神々」(や「それに続く者達」) に次ぐ、第2番目の尊敬対象とされなくてはならない。
しかし、誰も「魂」を正しく尊敬できていない。「魂」に対する「口先だけの言葉」「贈物」「迎合」によって、「魂」を高めたつもりになっても、実際に「魂」を「悪しき状態」から「善き状態」へと向上させていなければ、「魂」を尊敬していることにはならない。
例えば、
といった者は、「魂」を貶め、辱めている。
そして、その行き着く先は、同類の悪しき者に囲まれ、その悪しき行いを互いに行い合ったり、挙句に多数派に滅ぼされるという「報い」を受けることになる。
ここで言う (「魂」に対する)「尊敬」とは、優れたものに従い、可能な限り善くなるようにすることである。(客人)
「魂」に次ぐ第3番目の尊敬対象は、「身体」である。しかし、そこで求められるべきは、「身体」の「美しさ/強さ/速さ/大きさ/健康」ではなく、その反対 (「醜さ/弱さ/遅さ/小ささ/不健康」) でもなく、それらを「適度」に具えた、「節度」があって「健全」な身体である。
なぜなら、「身体」が前者に極端な場合は、「魂」を「思い上がった向こう見ずなもの」にするし、後者に極端な場合は、「意気地の無い卑屈なもの」にするから。
「金銭/所有 (財産)」に関しても事情は同じで、それが「あり過ぎる」と「国家/個人に敵意/内紛を生む」ことになり、反対に「無さ過ぎる/不足する」と「国家/個人に奴隷状態を生む」ことになる。
したがって、残された「子供たち」ができるだけ「金持ち」になるようにと、彼らに「財産」を残すことに、執着してはならないし、それは子供たちにも国家にも善いことではない。「財産」は、「取り巻き連中を引き寄せる」ほどは多くなく、「必要に事欠く」ほどは少なくないのが、「調和」の取れた最善の状態である。
「子供たち/若者たち」には、「黄金」ではなく「豊かな廉恥心」を残すべきだが、それは現在行われているような「口先だけの若者批判/説教」では成し遂げられないのであり、立法者はむしろ、「老人たち」を戒め、「若者たちの見本」となるように自ら実践させなくてはならない。
また更に、
といったことも尊重されなくてはならない。(客人)
以上で、「両親」「自分自身に属するもの (魂/身体/財産)」「国家/友人/親族/同国人/外国人」との関係については、概説できた。
次に、「自分がどのような人間であれば、人生を最も立派に送ることができるか」「各人をより法律に対して従順/好意的にする、教化力を持った称賛/非難」(としての「個人的な生の営み」に関する「道徳論/倫理」) を、述べなくてはならない。
以上で、「各個人の生の営み」の「神と関係のある部分」については、述べ終えた。続いて、「人間と関係のある部分」について、述べなくてはならない。
以上で、法律の「序文」は述べ終えた。続いて、国家の法律の「下図」(としての市民/土地の構成) について述べなくてはならない。
(『政治家』末尾でも述べられたように) 織布などの「縦糸」は強靭さが、「横糸」は柔軟さが求められるが、同じように人材も適材適所が重要であり、「国家の役職につくべき人々」と「教育の試練をわずかしか受けてない人々」は適切に区別されなければならない。
(というのも、「各人を役職に任命すること」と「それぞれの役職に法律を付与すること」が、「国制の役割」だからである。)
まずは全てに先立って、羊/牛/馬などの家畜の群れを引き受ける者がそうするように、群れの「浄め (選り分け)」を、しなくてはならない。「健康で状態の良いもの」と「そうで無いもの」を別の群れに選り分けて、前者だけを飼育する。こうした群れの「浄め (選り分け)」が行われていないと、「不良な身体/魂」を相手に果てしない労苦を重ねることになるし、群れ全体も駄目にしてしまうことになる。
人間国家の「浄め (選り分け)」においては、僭主が立法者の場合は、害悪となる人物を死刑/追放刑によって排除するといった、最も厳しく最善なものとなるが、そうでない場合は、例えば、内乱勢力となり得る「持たざる者達と民衆指導者」の一群を、「植民の名目で、丁重に国外に送り出す」といった、より穏やかなものとなる。
現在自分たちが議論している「(クレテによる) 新しい植民国家」に関しては、「貯水池に流入する数多くの泉/渓流の流路を管理して、水を清浄に保つ」のと同じようなもので、比較的容易である。悪い人々は徹底した吟味/説得によって防ぎ、善い人々は好意/親切を以て迎い入れることになる。
「市民の募集」と、その「浄め (選り分け)」に関しては、これで希望通り行われたものとしよう。(客人)
次に、「土地の分配 (再配分)」「負債の帳消し」といった (「財産の平等化」の) 問題に関しても、以前述べたドーリア人国家の場合 (第3巻第6章) と同じく、新しく植民国家を作る我々は、その争いから免れている。
古い国家では、この問題を巡る貧富対立の中で、この問題を動かすことも動かさないでいることもできず、神に祈りつつ、長い時間かけて漸進的改革をしていくしかない。こうした改革は、正義感と中庸を堅持して欲望を抑えた賢明な富者によって実行されることになるのであり、国家安全の最大の基礎/土台/支柱は、そうした正義感/中庸である。
「正しい配分」は、「市民の総数 (総人口)」「市民の数的分割」が定められた上で、土地と家が等しく配分されなくてはならない。
「人口」は「侵略に対抗できたり、隣国を軍事援助できる程度」は必要。「土地」は「節度ある人々を養える程度」で良い。
分配地が与えられる市民の数は、5040人が適当。5040は、1から10まで (また後に述べるように12も) の因数が含まれ、それらの数で割り切れるので、各種の分割/徴収/分配の規定に便利な数字である。(客人)
「由緒ある神域/神殿」は変更してはならず、また各地に「神/ダイモーン/半神」を割り当てるべきであり、土地の分配では、まずそれらに「選り抜きの土地」と「付随する一切」が割り当てられなくてはならない。
その目的は、各地域の神的な行事を通じて、市民が互いに知り合って親しくなる機会を作ることにある。そうすることで、市民は互いに行いを律するようになる。
さて、法律の制定にあたって、次にとる手は、(「将棋/囲碁 (ペッテイア(ペティア), πεττεία, checkers)」の神聖線 (中央線) から駒を動かすような、「定石・常識」から外れた) 普通行われない手なので、聞く人は最初は驚くだろう。
ただし、経験と熟慮を積めば、国家の建設というものは、そうした「最善」のまま実行されるというわけにはいかず、「次善」にならざるを得ないことが分かるだろうし、「現実に最も正しいやり方」は、「最善・第二・第三の国制を述べた上で、建国の各責任者に選択を委ねること」である。(客人)
その「常識外れの手」とは、古くからの諺である「友のものは皆のもの」(τὰ τῶν φίλων κοινά) に即したものであり、そこにこそ「最善の国家/国制/法律」がある。
すなわち、全市民の妻/子供/全財産や、身体/感情/価値観も一致するほど、国家を1つに仕上げること、そのような工夫/法律があるとしたら、それより正しく善いものは無い。
そのような神々/神々の子たちが治めるがごとき理想国家の国制に次ぐ、次善の国制 (第二の国制) として、我々が今試みている国家の国制があるのであり、それは、
といった形で実現される。(客人)
更に、
などの措置によって、貧富格差が生じたり、富への欲望に市民/国家が侵されるのを、防止しなくてはならない。(客人)
繰り返し述べてきたように (第1巻第6章、第3巻13章、第5巻第2章)、人間の「財産」に対する関心は、「魂」「身体」に次いで3番目でなくてはならないし、金儲けや貧富格差によって国内に不和が生じる事態は避けなくてはならない。
上述したように、市民は土地と家を等しく分配されるが、各市民が移住元から持ち込んだ財産は等しくないので、公平な措置を施せるように、第1〜第4の4つの財産階級に分ける必要がある。
また、極端な貧富が生じて国家に内乱/分裂が生じることが無いように、分配地の評価額と同額を財産 (貧困) の下限とし、その2倍、3倍、4倍までの額を、財産 (富裕) の上限として、それ以上の財産は国へと献上させる。このようにして、貧富格差を最大4倍までに抑え込ませなくてはならない。(客人)
次に、
といった措置を施し、入植は完了したものとする。(客人)
なお、財産や子供の管理/分配など、今述べられたような立法者の計画は、実現困難な「夢物語/蝋(ろう)細工」のようなものと思われるかもしれないが、まずは職人のように首尾一貫したもの (作品) を作らせた上で、実現困難/実現不可能の思われる部分があれば、後で皆でそれを検討し、次善の代替案を見つけて近似的なものとなるよう工夫すれば良い。(客人)
さて、12の部分や部族 (ピューレー) への分割は、更に、
などに分割され、これら全てが調和して、互いに一致するようにしなくてならない。
立法者たる者は、全ての市民が「数の与える秩序」から外れることの無いように命じるべき。家政、国政、各種の技術、子供の教育、どれにとっても「数の学問」ほど大きな力を持つものは無い。
「数学的諸学問」こそは、生まれつき無気力で愚鈍な人間を目覚めさせ、理解力に富んだ物覚えの良い俊敏な者に仕立て上げ、生まれつきの能力を越えた進歩をさせるのであり、もし立派な法律や慣習が人々の心から卑しさと貪欲を取り除くならば、立派で適切な教育となり、「知恵」となるが、そうでないと「奸智 (悪知恵)」を作り上げてしまう。
エジプト人、フェニキア人、その他多くの民族が、悪しき慣習や財産によって、そうした悪しき性質を作り上げているのを見ることができる。
そして、(風、日当たり、水、食物、神性など) その「土地」の性質も、人間の性質に影響を与えるのであり、立法者はその点にも注意しなくてはならない。(客人)
続いて「役職の制定・任命」、及び「その各役職の役割・権限を定めた法律の付与」について述べなければならないが、その前にまずは、(これまで述べてきた「立派な国家・法律」が「不適格な役人」によって台無しにされてしまうことがないように)「適格な人材も選出方法」について述べなくてはならない。
いかなる法律も、初めから容易に受け入れられることは無いのであり、幼少期からその法律の下で養育され、慣れ親しんできた子供が成長して役人に選出される(ことによって定着する)までの期間、それが台無しにされずに持ち堪えられなけばならない。
そこで、クレテの植民計画を委託されているクノソスの人々は、最初の役人たち、特に「護法官」が、最も確かな優れた方法で選出されるように、全精力を傾けなくてはならない。
すなわち、まずは入植者の内、クノソス以外の者の中から指導的地位の者を19名、クノソス人の中からクレイニアス等植民計画者9名を含む18名、計37名を選んで「最初の護法官」とすべきである。(客人)
その後の「護法官」の選出は、
といった形で行われるべきである。
ところで、この「初めての現地での護法官の選出(選挙)」に際しては、その「選出(選挙)」自体と、選出された人々の「資格審査」を執り行う組織(選挙管理委員会)が、できるだけ優秀な人々によって構成されなくてはならない。
「どんな仕事でも、初めは半分に等しい」という諺のように、「立派な初め方」は称賛され追求されなくてはならないし、私が見たところ、むしろ「初め」は半分以上に重要である。(客人)
その「初めての現地での護法官の選出(選挙)」とその後の「選出者の資格審査」を行う「選挙管理委員会」は、入植者の中で最年長かつ最善な人々100名と、入植計画に責任を持つクノソス人の中から同様に100名、計200名によって構成され、事が終われば、クノソス人はクノソスに帰り、後は入植者だけで自立的に国家運営が行われなくてはならない。
こうして選出された37名の「護法官」の主な任務は、
の3つである。
また「護法官」は50歳〜70歳の間のみ就任でき、最大任期は20年である。(客人)
「護法官」には、法律の制定が進むにつれて、上記3つ以外の仕事も付け加えられることになるが、今は引き続き「他の役人」の選出について語る。
次には、「将軍」とその補佐役としての「騎兵隊長」「部族騎兵隊長」「部族歩兵隊長」を選ばなくてはならない。
まず「将軍」は、護法官が候補者を挙げ(別に良い候補者がいればそれも対立候補として加え)、現役の軍人全員の挙手によって上位3名が選ばれる。彼らも護法官と同じく、選出後に「資格審査」を受ける。
次に「部族歩兵隊長」は、将軍が候補者を各12部族から1名ずつ、計12名挙げ、後は先の「将軍」の場合と同じように、対立候補、挙手、資格審査を経て選ばれる。「部族騎兵隊長」も同様である。
(ただし、「将軍」は「軍人全員」の挙手によって選ばれるのに対して、「部族歩兵隊長」「部族騎兵隊長」は、それぞれ「(重装)歩兵全員」「騎兵全員」の挙手によって選ばれる。
また「重装歩兵」「騎兵」以外の、「軽装歩兵」「弓兵」その他の戦闘員の指揮官は、将軍たちが任命する。)
残る「騎兵隊長」は、「将軍」と同じやり方で、上位2名が選出され、全ての騎兵の指揮官となる。(客人)
360名で構成される「政務審議会」は、4つの財産階級から各々90名を選出する形で構成される必要があるが、その方法は、
といったものでなくてはならない。
こうした「選挙 (投票) の多数決」による選出は、(「君主の一存」で決まる)君主制と、(「くじ引き」で決まる)民主制の中間に位置するが、このように国制は、常に「君主制と民主制の中間」でなければならない。
なぜなら、主人と奴隷の関係(としての君主制)には「友情」は生まれないし、優れた者とくだらない者が等しい評価を受ける場合(としての民主制)にも「友情」は生まれないから。
「平等」には2種類あり、それは (誰でもできる凡俗な)「性質の差異を考慮しない、くじ引きに基づく分配としての平等」と、(ゼウスが司る)「徳・教養の大小に応じて、栄誉が比例的に配分される平等」である。後者の意味での「平等」は、全ての善きものをそこから生み出すのであり、「平等は友情を生む」と諺に言われている「平等」も、この後者の意味のものである。またこれは「政治的正義」でもあり、国家はこうした「平等」「正義」を目指して建設しなくてはならない。
(ただし、「大衆の不満蓄積によって、国内に内紛が生じるのを避ける」ために、時にはそれらの意味を緩め、(それが正しい方向へ転ぶよう神と幸運に祈りながら)「くじ引きの平等」を用いざるを得ない場合もあるが、できるだけその機会は少なくすべきである。)(客人)
「海上を航行中の船の見張り当番」と同じように、国家にも様々な事態に常時即応できる、引き継ぎ制の「当番」が必要になる。それは360名の政務審議会を月ごとに12分割した30名が、交代で受け持つことになる。
彼ら「政務審議会の執行部」は、外国との外交や、内政の監視、そして定例・緊急問わず全ての集会の召集・解散を引き受け、また他の役人たちと協力しながら、国全体の守護にあたらなくてはならない。(客人)
「神殿」の管理には「宮守」と男女の「神官」が、「都市」の管理には「都市保安官」が、「市場」の管理には「市場保安官」が、それぞれ選任されなくてはならない。(※「都市保安官」「市場保安官」の選出方法については、後の第10章で述べられる。)
「神官」は世襲の場合はそのままで良いが、新任の場合は「神的偶然」としての「くじ引き」によって選ばれ、出自・経歴に汚れがないか審査されなくてはならない。任期は1年で、60歳以上であることが求められる。
「神事」に関する全ての法律は、デルポイから持って来て、「神事解釈者」を任命して運用する。
「神事解釈者」は、12部族を4部族ずつにまとめた3組から、それぞれ選挙で選ばれた各3名(計9名)の名をデルポイに送り、神託によって各1名(計3名)に絞る。資格審査や年齢制限は「神官」と同様。ただし任期は異なり、終身とする。欠員が出た場合は、その出身の組で補欠選挙が行われる。
神殿の「財務官」は、最高の財産階級から、最大の神殿には3名、中規模の神殿には2名、最小の神殿には1名が選ばれる。選挙と資格審査の方法は、「将軍」と同様。(客人)
「都市の防衛」に関しては、既述した将軍、部族歩兵隊長、騎兵隊長、部族騎兵隊長、政務審議会執行部、都市保安官、市場保安官が担う。
「都市以外の国土 (地方) の防衛」に関しては、12分割された国土 (地方) に各12部族をくじ引きで割り当て、各部族に5人の「地方保安官・監視隊長」とその各々の配下の12人の若者 (25-30歳) を選出させ、5組の「監視隊」を組織させて担わせる。彼らの任期は2年であり、1月ごとに右回り (西→東) で隣りの地区へと移動し、1年で全国土を担当させ、2年目は逆の左回り (東→西) で移動させ、できるだけ多くの者が国土の各季節・各地域の状態を学べるようにする。
彼らは任期中に、駄馬や家僕も使いつつ、「堀・溝・砦」を作って敵に備えたり、敵が通りづらく味方が通りやすい「道路」を整備したり、雨水の「治水・灌漑」、湧き水の「水路」やその付近の「体育場・温浴場」の整備などに取り組む。(客人)
60人 (12人x5) の「監視隊」とその「隊長」5人には、地域の(民事/簡易)裁判権も与えられ、賠償請求被害額がわずかであれば5人の隊長のみで裁き、それよりは多く、3ムナまでの場合は管轄の12人の隊員を加えた17人で裁く。
また逆に、彼ら「地方保安官 (監視隊)」が (不公平な賦役、農業施設略奪、賄賂などの) 不正を行った場合は、国中にその恥を晒させなければならないし、被害額が1ムナまでのものは、「村人・隣人たちの法廷」(第一審) の判決に服従させる必要があるが、一月ごとの転地を悪用して裁判逃れをする者は、「公共の法廷」(第二審) に提訴できるし、勝訴すれば2倍の賠償額を請求できる。
彼ら60人の「地方保安官 (監視隊)」は、任期2年の間、「共同食事」をしなくてはならないし、違反者は市場で名前を掲示し、誰かに鞭で懲らしめを受けても不問とする。
また5人の「隊長」も、同様の監視を60人の隊員から受けるし、また5人の「隊長」が隊員の違反を見聞きしながら告発しない場合は、任務・権限を剥奪されなければならず、そうした監督・処罰は「護法官」によって為される。
また彼ら「地方保安官 (監視隊)」は、公僕として、日々の食事を質素にし、他者の使役を公用のみに限定し、また地域の事情を知るために季節を問わず武装しながら国中を調査して廻るといったことに励まなければならない。(客人)
「都市保安官」は3人であり、都市の12部分を3分割したものを各々管轄することになり、地方保安官と同じく「道路・建造物・水路」などを管理する。選出方法は、第1の財産階級の中から(挙手投票)選挙の得票順で6人を選び、選挙管理人のくじ引きで半分の3人に絞られ、資格審査を経て任命される。
「市場保安官」は5名であり、「市場」やそこにある「神殿・泉」を管理する。選出方法は、第1-第2の財産階級から、上記「都市保安官」と同じ方法 ((挙手投票)選挙10人→くじ引き5人) で選ばれる。
彼らには不正者に刑罰・罰金を科す権限が与えられ、加害者が奴隷・外国人の場合は鞭打ち・投獄といった刑罰を科し、土地の者なら罰金を科す。
科せる罰金額は、「都市保安官」の場合は、単独なら1ムナ、「市場保安官」と共同なら倍の2ムナまでであり、「市場保安官」の場合は、単独なら100ドラクメ、「都市保安官」と共同なら倍の200ドラクメまで。(客人)
「音楽・体育の役人」には2種類あり、教育環境・内容や通学・学区の管理を行う、体育場・学校の監督者としての「教育担当者」と、体育・音楽の競技者に対する審判官としての「競技担当者」に分かれる。
「競技担当者」は、「体育」競技ではどれでも同一人物が審判官になれるが、「音楽」競技では、「吟誦詩人・竪琴弾き・笛吹き」といった「独演」と、「合唱隊・歌舞団」のような「音楽を伴う集団的・模倣的演技」とでは、審判官を別々にしなくてはならない。
「競技担当者」の選出は、「音楽」競技の場合、愛好者の集会で(「独奏」では30歳以上、「歌舞団」では40歳以上の)専門家の中から(挙手投票)選挙で各10人選んだ上で、くじ引きで各1人に絞られ、資格審査を経て任命される。任期は1年。
「体育」競技の場合、第1-第3の財産階級が強制出席する集会で、第2・第3の財産階級の中から20人を(挙手投票)選挙で選び、くじ引きで3人に絞り、資格審査を経て任命される。(客人)
また「教育担当者」は、50歳以上の嫡出子を持つ父親(できれば息子・娘両方を持っていることが望ましい)で、この国家の最重要とも言える役職にふさわしい最善の人1人が、立派に選ばれなくてはならない。
そのために、「政務審議会と執行部」を除く「全ての役人」がアポロン神殿に赴き、無記名投票によって「護法官」の中から1人を選出し、護法官以外の役人たちによる資格審査を経て任命される。任期は5年。(客人)
「公の役職 (役人)」が任期30日以上を残して死去したら、同じ方法で後任を選出しなくてはならない。
「孤児の後見人」が死去したら、10日以内に (父方・母方問わず) 従兄弟の子 (5親等) までの国内の親戚の中から、後任を選ばねばならず、1日過ぎるごとに1ドラクメの罰金を科される。
「法廷」は、当事者が隣人・友人を裁判官として共同で選んで設置する「隣人 (仲裁) 法廷」(第一審)、くじ引きで選ばれた裁判官が裁く「部族民法廷」(第二審)、最終的な裁定を下す「第三法廷」(第三審) の3種から成る。
「第三法廷」の裁判官は、通常の「個人の個人に対する不正・罪」の訴えの場合は、「毎年夏至の翌月の新年前日に、1つの神殿に全ての役人が集まり、神に誓いを立てて、それぞれの役職から1人選出し、資格審査を経て任命された裁判官たち」によって裁判が行われ、公開投票で評決する。(政務審議会の議員と、裁判官を選出した他の役人は、裁判の傍聴が義務付けられる。)
それに対して、「個人の国家に対する不正・罪」の訴えの場合は、一般大衆が陪審員として裁判に参加する。(客人)
以上、「役人 (と裁判官) の選出」に関して述べ終え、法律の「序論的部分」は述べ終えた。
続いて、本格的な「法律の制定」に入る前に、これから我々「立法者」が制定する「法律 (及び国制)」に関して、それが時の経過によって劣化した場合にその部分を修復したり、不備・未熟だった部分を修正・改善して、「より善いもの・完成に近いもの」にしていってもらえるような「後継者」(「護法官」兼「立法者」) を、生み出す「工夫」について述べておかねばならない。
その「工夫」とは、「国民に、(仕事・性格・所有・欲望・考え方・学問など諸環境・諸条件を通して) 可能な限り「魂の徳」を備えた、「善き人」に成ってもらう」という「立法の目的・目標」の共有・継承である。
したがって、国民には、この最優先すべき「唯一の目的・目標 (魂の徳)」のために、全生涯を通じて真剣に努力して、それを追求させなくてはならないし、その目的追求において、障害となる他の事柄は、誰にも何一つ選ばせないようにしなくてはならない。極論を言えば、国家すら、それが人間を悪くするような、悪人が支配する「悪しき国制」へと転じるならば、捨てて亡命させるべきである。
「護法官」(兼「立法者」) は、以上の目的に適うように、(実地の経験を通して) 法律を検討しつつ、目的に適うものは歓迎して受け入れ、目的に適わないものは非難・排除し、法律を修正しながら、またそのような法律に従って生きるようにしなくてはならない。
さて、「法律の制定」の出発点は、5040という神聖な数字の検討から始めよう。
総人口を表す5040は、部族の数12で割ると、(12を逆さにした21の20倍の数でもある) 420となり、そしてこの数もまた (月の数でもある) 12で割ることができる (12x35)。
このように、5040は部族数のみならず、月の数・万有の回転にも対応した神聖なもの、神の賜物であり、そしてこれを下述するように、「婚姻へと繋がる、部族ごと・月ごとの祭祀」として活用することもできる。
すなわち、12分割された部族・(都市/地方の)地域に、それぞれ神や神の子の名を与え、祭壇などを設置し、月2回 (年24回、都市/地方12回ずつ)、祭壇の前で犠牲を捧げる祭祀の集いを催す。
これは各部族内の人々が互いに親しみ合い、知り合い、親交を深めるための機会を提供することも兼ねているが、特に、結婚に向けて、互いの実家のあり方を把握したり、少年少女が一緒に踊りを楽しんだり、節度ある形で互いの裸を見る機会ともなる。
これらは「歌舞団を管理する役人 (競技担当者)」(第11章) が監督し、「護法官」の助けを借りながら、年々の実地の経験を通して規則を整えていく。供犠・歌舞に関しては10年の実験期間が適当。
そうして一旦規則が正式に完成し制定されたら、「歌舞団を管理する役人 (競技担当者)」が独断で変更することは許されず、「全ての役人・民衆・宣託」が一致して変更を認めた際にのみ変更することができるものとする。(客人)
男性は「25歳〜35歳」の間に、子供を持つにふさわしい相手を見つけて結婚すべきである。(※第4巻11章で例として提示された結婚年齢規定「30歳〜35歳」から、変更されている。)
この結婚に関する法律の「序文」(第4巻10-12章) として、適当な似合いの結婚相手見つける際の参考となる基準を述べておくと、それは「財産上も、性格(気質)上も、正反対の相手・家を選ぶ」ことであり、そうして (財産上も、性格(気質)上も)「均質・釣り合い」を取ることが、両家にとっても、国家にとっても、為になる。逆に、自分の快適さを優先し、「似たもの同士」で結び付き、(財産上も、性格(気質)上も)「不均衡」が生じると、両家にとっても、国家にとっても、為にならない。(※『政治家』末尾の内容と同様。)
しかし、こうした内容 (「財産・性格(気質)の反対の者との結婚」) を法律の条文として規定することは、滑稽であると同時に、こうした道理を弁えない多くの人々の怒りを買うことになるので、諦めなければならず、代わりに、「言い聞かせ・非難」による説得などの手段を、用いなければならない。(客人)
こうした結婚の規定に従わず、「独身」のまま35歳を過ぎた者は、毎年「罰金」を払わねばならず、その額は第1財産階級なら100ドラクメ、第2財産階級なら70ドラクメ、第3財産階級なら60ドラクメ、第4財産階級なら30ドラクメとなる。これらの「罰金」は、(結婚・妻の座を司る女神である) ヘーラーの神殿に奉納される。
「罰金」を払わない場合、その額の10倍の債務が負わされ、神殿の財務官 (第7章) がその取り立てを行う。
また、そうした未婚者は、「年下から尊敬・服従されない」という扱いも、受けるものとする。
結婚に際しての「持参金」については、以前も述べたように (第5巻12章)、禁止する。誰も必需品に事欠くことが無い国家の諸制度に加え、この「持参金」禁止の規定によって、貧乏人が結婚できなくなったり、妻が持参金を鼻にかけたり、夫が金のために賤しい隷属に陥るといった事態も、避けることができる。
この規定に反して、財産階級順に2ムナ/1ムナ半/1ムナ/50ドラクメ以上の授受をした者は、同額を国庫に納めなければならず、また実際に授受した金品はへーラーとゼウスの神殿に納めなければならず、その取り立ては神殿の財務官 (第7章) が行う。
「婚約の決定権」は、1.父親、2.祖父、3.同父の兄弟の順に属し、続いて母方の親族、それも居ない場合は、最も近い親族が後見人と共に権利を行使する。
「婚礼前の供犠」や「婚礼の前・最中・後の儀式」については、神事解釈者 (第7章) に一任する。(客人)
「披露宴」では招待する友人は双方5人まで、親類縁者も同数、また開催費用は財産階級ごとに上限1ムナ、その半分...と順次少なくする。
結婚以降は、作られる子供の心身への悪影響を考え、「酩酊の深酒」を含め、健康を損ねたり、傲慢・不正に関わる行為は、避けるよう注意しなくてはならない。
新婚夫婦の「住居」は、分配地の2つの家 (第5巻14章) の一方を子供を生み育てる場所に定め、親とは離れて暮らさねばならない。(客人)
家庭の「所有物 (財産)」に関しては、その大部分は考えることも手に入れることも容易だが、「奴隷」のこととなると、あらゆる点で難しい。
ラケダイモン(スパルタ)のヘイロータイ(農奴)、ヘラクレイアの先住民マリアンデュノイを用いた奴隷制、テッタリアのペネスタイ(農奴) などは、論争を生んでいるが、こうした「奴隷の所有」に関して、どのように扱うべきか。
一方では「奴隷は兄弟や息子よりも当てにでき、家財・家族を救ってくれるのであり、できるだけ気立ての優しい善い奴隷を所有すべき」だという意見があり、他方では「奴隷は一切信用できない」という意見がある。この正反対の考えに基づいて、各々が正反対の対応を「奴隷」に対して行っている。
人間は手に負えない動物であり、「主人 (自由民) - 奴隷」という区別も、容易には受け入れてくれないのであり、それを受け入れさせるための対処法は、
という2つしかない。(客人)
ところで、順序はおかしいが、ここでついでに述べ損ねていた「建造物」に関して述べておきたい。
まず「神殿」は、「市場」と「都市全体」の周囲の、安全で清潔な高い場所に建てなければならない。そして、それらに隣接して、「役所」と「裁判所」が、神聖な判決・決定を下す神聖な場所として、建てられなくてはならない。
「城壁」は、「石造りの城壁は強度が弱い」「郊外に溝/堀/砦を造らせている (第8章)」「油断を生む」といった理由から、造らないことが望ましい。それでも必要とあらば、個人の住宅を、道路に面して同じ大きさ・洋式にして建て、擬似的にそれを再現すればよい。
こうした「建造物」は、地域の住人が管理し、「都市保安官」(第10章) が監督する。その他の「建造物」に関しても同様であり、法律に不備があれば、「護法官」が実地に照らして関連した法律を追加する。
こうして「市場」周辺、「体育場・学校」関連といった一連の建物を整えるための話題を終えたら、再び「結婚」に続く話題に戻ることができる。(客人)
新婚の男性たちは、結婚前と同じく「共同食事」の生活をすべきであり、できれば女性もまた同様に「共同食事」に参加させるべきである。
というのも、人間は「食・飲・性」という3つの欲望に基づいており、人々を「快楽」から「善」へと向け変え、「恐怖」「習慣」「真なる言論」(及び「文芸」と「体育」)によって正しく指導して、「徳」を生んでいく必要があるが、「共同食事」はそれに資するからである。(客人)
新婚の夫婦は、国家のために「子作り」に専心しなくてはならない。
そしてそのための「監督者」として、適当な時期に適当な数の婦人を選び、出産の女神エイレイテュイアの神殿に毎日20分間集合させ、子作り期の夫婦に関する情報共有をさせる。
子作りとその監督の期間は10年とし、その期間に子供ができなかったら「協議離婚」させる。条件で揉めた場合は、「護法官」10人を選んでその決定に委ねることができる。
また「監督者」である婦人たちは、若夫婦をたしなめたり脅したりしながら、その過ちや無知を止めさせて「子作り」へと向かわせることになるが、手に負えない場合は、「護法官」に報告して委ねる。「護法官」でも手に負えない場合は、その名前を掲示・公表し、その人物は (報告者を法廷で負かさない限り)「結婚式」や「子供の誕生祝い」に出席する権利を剥奪され、他者の鞭による懲らしめも容認される。
夫婦のどちらかが姦通(不倫)した場合も、子作り期間内なら同様の罰を受ける。子作り期間後であれば、不評を被るに留めさせておけばいい。しかし、大部分の者がそうした節度を守れないほど風紀が乱れている場合は、罰則を定めて実施する必要がある。
生まれた子供は、「父祖の神殿」と「各氏族の白い壁」に、「名前」が記録される。
「結婚年齢」は、女性は「16歳〜20歳」、男性は「30歳〜35歳」。(※第16章では男性は「25歳〜35歳」と述べられていたが、ここでは第4巻11章と同じ「30歳〜35歳」に戻っている。)
「役職につける年齢」は、女性は「40歳から」、男性は「30歳から」。
「軍務につける年齢」は、男性は「20歳〜60歳」、女性は必要な場合は「出産後、50歳まで」とする。(客人)
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