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日本の小説家 ウィキペディアから
小川 洋子(おがわ ようこ、1962年3月30日 - )は、日本の小説家。岡山県岡山市中区森下町出身。日本芸術院会員。
小川 洋子 (おがわ ようこ) | |
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誕生 |
本郷 洋子(ほんごう ようこ) 1962年3月30日(62歳) 日本・岡山県岡山市 |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(文学) |
最終学歴 | 早稲田大学第一文学部文芸専修 |
活動期間 | 1988年 - |
ジャンル | 小説・随筆 |
代表作 |
『妊娠カレンダー』(1990年) 『密やかな結晶』(1994年) 『薬指の標本』(1994年) 『博士の愛した数式』(2003年) 『ミーナの行進』(2006年) 『ことり』(2012年) 『小箱』(2019年) |
主な受賞歴 |
海燕新人文学賞(1988年) 芥川龍之介賞(1991年) 読売文学賞(2004年) 本屋大賞(2004年) 泉鏡花文学賞(2004年) 谷崎潤一郎賞(2006年) 芸術選奨(2013年) 早稲田大学坪内逍遙大賞(2013年) 野間文芸賞(2020年) 菊池寛賞(2021年) 紫綬褒章(2021年) 日本芸術院賞(2023年) |
デビュー作 | 『揚羽蝶が壊れる時』(1988年) |
ウィキポータル 文学 |
岡山県岡山市中区森下町出身[1]。兵庫県西宮市在住。既婚で長男がいる。旧姓は本郷[2]。祖父は金光教の教師であり、両親とも金光教の信者という家庭で育つ。父親は国家公務員[3]。生家も教会の敷地内の離れだった。教会では祖父母、伯父伯母。従兄らが暮らしていた[1]。
小さいころ納戸にあった『家庭医学大事典』が最初の読書で、病気の説明や内臓の図を見る。小学1、2年からオレンジ色の表紙の『世界少年少女文学全集』を愛読する。小学校から図書室をよく利用する。また、こたつの中で空想にふける癖があり、高じて小説を書くようになったと述懐している[4]。8歳か9歳で幼少習作『迷子のボタンちゃん』を書き、画用紙に清書しホチキスで綴じる。『家庭医学大事典』の病気の人の話も作る。小学校の図書室で『シートン動物記』、『ファーブル昆虫記』、「動物や恐竜の図鑑」、「科学者の伝記」を『家庭医学大事典』の影響で借り、児童小説の『若草物語』、『長くつ下のピッピ』、『メアリー・ポピンズ』も借りて同様に読んでいた。小中高とどんな女子グループにも入らなかった[5]。
1973年6月、市内祇園町に転居。岡山市立高島小学校に転校。1974年4月、岡山市立竜操中学校に入学[3]。
1977年4月、岡山県立岡山朝日高等学校入学[6]。クラブ活動で弓道を始める[3]。高校時代に『アンネの日記』を読み感銘を受ける[7]。高校3年生の時、萩原朔太郎や中原中也の詩集を読む。読書範囲が広がり、立原道造、川端康成、太宰治、谷崎潤一郎を愛読する。自分の文学を求めて、大学は文芸を志す[8]。推薦入学決定後に『万葉集』を読む[9]。
1980年4月、早稲田大学第一文学部文芸専修に入学。小金井市にある金光教の女子寮に入る[3]。入学してすぐに文学サークル「現代文学会」に入る[10]。大学時代は一軒家の金光教東京学生寮で、女子5人で自炊で質素に暮らし、金光教を当たり前のものとして受け止めることにした[11][5]。18歳の大学の夏休みに、岡山の古本屋の100円本売り場で金井美恵子『愛の生活』を買い、「自分もこういうものが書きたい」と自分の基本とする小説を発見し、その後も座右の書の1つにしている[8][12]。在学中は自作の小説を平岡篤頼に見てもらっていた[13]。大学4年生のとき、海燕新人文学賞に応募するが、第一次審査で選に漏れる[3]。
1984年3月、早稲田大学を卒業。倉敷市の川崎医科大学中央教員秘書室に就職[14]。1986年9月21日、川崎製鉄[15]の製鉄エンジニアの男性との結婚を機に退職し、小説の執筆に取り組む。夫は当初、小説を書いているのを知らなかった。
1988年、再度、海燕新人文学賞に応募する。大学の卒業論文として提出した「情けない週末」を書き直して『揚羽蝶が壊れる時』というタイトルで投稿[16]。同年9月8日、海燕新人文学賞を受賞。『揚羽蝶が壊れる時』は『海燕』1988年11月号に掲載される。それまで手書きだったが、賞金でワープロを買い、それ以後パソコン導入まで使用する[17]。
1989年8月、長男を出産[18]。同年9月、最初の単行本『完璧な病室』(福武書店)を刊行。
1991年1月16日、妊娠した姉に対する妹の静かな悪意を描いた『妊娠カレンダー』が第104回(1990年下半期)芥川賞を受賞する。同作品はラジオドラマ化され、4日後の1月20日にNHK-FMで放送された[18]。
2002年3月、夫の転勤のために兵庫県芦屋市に転居[19][5]。その後、隣接する西宮市に転居して現住。
2004年、記憶が80分しかもたない数学博士と家政婦の母子との交流を描いた『博士の愛した数式』で読売文学賞、本屋大賞を受賞し、ベストセラーとなった。のちに文庫版は当時最速の2か月で100万部を突破した[20]。同作は2006年に映画化された。2004年『ブラフマンの埋葬』で泉鏡花文学賞を受賞する。2005年には『薬指の標本』がフランスで映画化される。2006年『ミーナの行進』で谷崎潤一郎賞を受賞する。2013年『ことり』で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞する[21]。
2004年から2015年まで太宰治賞、2008年から2011年まで三島由紀夫賞、2011年から2018年まで読売文学賞の選考委員を務めた。
2007年7月から芥川賞、2013年から河合隼雄物語賞、2014年から野間文芸新人賞の選考委員を務めている。
2014年、『寡黙な死骸 みだらな弔い』の英語訳(英訳タイトル『Revenge』)がインデペンデント外国小説賞の最終候補にノミネートされたが受賞には至らなかった[22]。
2020年、『密やかな結晶』の英語訳(英訳タイトル『The memory police』)がブッカー国際賞の最終候補にノミネートされたが受賞には至らなかった[23]。それまで同賞にノミネートされた日本人の作品は、大江健三郎の『水死』(英訳タイトル『Death by Water』)のみだった(2016年)。
日本の現役女性作家では、作品が世界で最も多く翻訳されている作家である[要出典]。
作風は、日本の伝統である「私小説」からは遠く、内田百閒や川端康成の幻想小説に近い。初期から現在にいたるまで題材は変化しているが、物語展開で読者にカタルシスを与えるのではなく、現実の隙間にあるどこでもない場所、それ故に普遍的に存在するような異世界を描く。初期の装飾的な文体が次第に鳴りを潜め、幻視感を恐怖だけに頼らず、平易な文体で表すように変化して、円熟味を増している。
小説を書くときに一番重要視していない要素は「ストーリー」だとし、「とにかく描写につきる」という。人物の内面という形のないものから構想を始めるのではなく、まず、場所や情景や物など、人物の周辺にあるものが語りだすまで徹底して描写を膨らませ、映像化する。自分はそれを書きとっているというイメージだと語る。ストーリーはそれらを収めて読み手に届けるための器であり、人物の内面はそれぞれの読み手の中に生まれるもの。ストーリー自体で見せようとするのは小説というものの本来的な目的ではないとしている[24]。
随筆も多作であり、「描写につきる」作風は小説と同様に一貫している。
「」内が小川洋子の作品
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