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日本の研究者 ウィキペディアから
安本 美典(やすもと びてん、1934年2月13日 - )は、日本の心理学者・日本史研究家(古代史)。文章心理学、計量比較言語学[注 1]日本古代史の分野で著書及び論文がある。日本行動計量学会会員。
満洲国奉天省鞍山市に生まれ、1946年に帰国して岡山県高梁市で育つ。岡山県立高梁高等学校を経て、京都大学文学部(心理学)卒。京都大学大学院文学研究科(心理学)修了。国家公務員採用上級甲種試験(現在の国家公務員総合職)の心理職試験にトップで合格し、旧労働省(現在の厚生労働省)に入省。
旧労働省退官後、社会心理学者の南博(一橋大学教授)が設立した日本リサーチセンターに入社。産業能率短期大学助教授を経て、産能大学教授(2004年3月定年退職)。1972年に京都大学から文学博士の学位を取得。心理学・実験心理学専攻で博士論文は「心理測定のための因子分析法の理論的・実証的研究 : 文章性格学の方法論的基礎」
日本古代史の分野では、30数年来「邪馬台国=甘木・朝倉説」及び「大和への東遷説」を主張し続けている。「邪馬台国の会」主宰。『季刊邪馬台国』責任編集者。古代史研究は「数理文献学」(Mathematical Philology)の手法[注 2]に基づくとする[注 3]。
これらの仮説から次のように考えることができる。
卑弥呼と天照大神は同一視できる。『魏志倭人伝』のなかの地名との類似から邪馬台国九州説が有力である。文献によると邪馬台国には28万人もの人がいたとあり、そこから類推し、邪馬台国はいくつかの国の総合名称であり、吉野ヶ里遺跡は女王の支配国の一つであったと考える。つまり、卑弥呼の宮殿は筑後川の上流にあり、流域すべてが邪馬台国ではないかという説である(『歴史街道』1989年6月号)。
以下がその概要である。
地図に緯度と経度が必要なように古代史の問題を考える時には「年代」を考えることが根本的に必要であるとして、独自の年代論を展開している。すなわち、年代論の先駆者とも言える那珂通世は天皇の平均在位年数を約30年としているが、安本はその在位年数が歴史的事実として信頼できる用明天皇から大正天皇まで平均で14.18年と考える。またこれを4世紀ごとに区分して考えた場合、時代をさかのぼるにつれて在位年数が短くなる傾向にあり5世紀 - 8世紀では10.88年となる。西洋の王や中国の王の平均在位年数についてもほぼ同様の数字と傾向がある。これらのことから、1世紀 - 4世紀については「天皇」の平均在位年数は9年 - 10年程度であろうとする[注 4]。
いわゆる欠史八代については実在説をとる。井上光貞をはじめとする非実在説派はその根拠として次のような点をあげている。
これに対しては安本は以下のように非実在説を否定する。
以上のことから記紀に記載されている古代天皇の存在およびその順序、すなわち「代の数」は信じられるとする。ただし、父子継承は信じられない。また在位期間も引き伸ばされていると考えられるので信じることはできない。
これらの前提で天皇の平均在位年数を用いて神武天皇の活躍の時代を推定すると280年 - 300年頃となり、さらに記紀では天照大神は神武天皇の5代前となっているから約50年さかのぼれば230年 - 250年頃となり、まさに邪馬台国と卑弥呼の時代に重なる。
上述のように卑弥呼と天照大神は年代が重なること、また、二人とも女性であり神に仕える立場で宗教的な権威を持ち国を治めたこと、夫を持っていなかったこと、弟がいたこと、など共通点が多く見られることから、天照大神は卑弥呼の史実が神話化したものとして、二人は同一人物であるとする。また天照大神が天の岩戸に隠れると世界は闇に包まれ天照大神が岩戸から出てくると世界に光が戻ったが、天照大神は岩戸隠れの前と後で性格が変わっていることから、これは指導者の死と新たな指導者の登場を表したものだとし、卑弥呼の没後倭国は混乱したが台与の登場により平和が戻ったという記事と同じ出来事を伝えるものだとする。
この説は安本の独創ではなく彼は和辻哲郎がすでに大正時代にこの考え方を表していると述べている。諸説ある卑弥呼が誰であるかという説の中では神功皇后説、倭迹迹日百襲姫説などと並んで代表的な説の一つとなっている(「邪馬台国比定地一覧」には邪馬台国の比定地とその場合卑弥呼が誰であるとするかということが一覧にまとめられている)。
なお、安本はこの説をとった場合、台与は天照大神の息子天忍穂耳命の嫁である万幡豊秋津師比売に比定できるとしている(台与#人物比定を参照)。
卑弥呼が天照大神であるという仮説からは派生的に次の「系」が導かれる。すなわち、卑弥呼が統治していた邪馬台国と天照大神が統治していた高天原は同一のものである。したがって、高天原がどこかということは邪馬台国がどこかということと同じである。
第二次世界大戦後、日本神話作為説が有力になったために現在ではほとんど忘れられているが戦前には高天原論争というものがあった。日本神話で伝えられる高天原は本居宣長がいうような天上にあったものでも、山片蟠桃がいうように作為的なものでもなく(安本は現在の日本神話作為説の元となっている津田左右吉の説は山片蟠桃の説の焼き直しだとしている)、新井白石がいうように大和朝廷の中心となった勢力の祖先が遠い昔にいた場所のことを伝承的に伝えたものではないか、したがって高天原とは地上のどこかをさすのではないか、という論争である。この高天原論争では有力な説としては邪馬台国論争と同じく「九州説」と「畿内説」があった。(なお、高天原地上説には海外説もあり、戦後でも江上波夫は騎馬民族征服王朝説で高天原は南朝鮮であるとしている)安本は古事記に出てくる地名を分析しても、また考古学的な玉・鏡・剣の出土状況をみても、高天原は九州である可能性が高いとしている。
では邪馬台国=高天原は九州のどこと考えられるか。安本は以下のような理由からそれを福岡県の甘木・朝倉地方(現在の朝倉市一帯)であるとしている。
前述の「古代天皇実在説」、「卑弥呼=天照大神説」、「邪馬台国=高天原説」、「邪馬台国=甘木・朝倉説」に加え、『古事記』における九州・出雲地方の地名の頻出度の高さ(この2地域で『古事記』全体の過半数を占める)、甘木・朝倉地方を中心とした北九州と畿内の地名の類似点の多さ、及び鉄器の使用・副葬品などに見られる北九州の弥生文化と畿内の初期古墳文化との連続性などの点から、およそ3世紀後半から4世紀にかけて、記紀の「神武東遷」に対応する北九州から大和への勢力移動があったのではないか、という仮説が成り立つとした。
日本語の起源については、日本語の基層に「古極東語」を想定し、インドネシア系言語、カンボジア系言語、ビルマ系言語、中国語など複数系統の言語が順次流入・混合して日本語が成立したとする「流入混合説」を唱えている[6][7]。
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