Loading AI tools
ウィキペディアから
孟春(もうしゅん / 旧仮名:まうしゆん[9])は日本海軍(兵部省[4]、海軍省)の軍艦[3]。元佐賀藩の軍艦「孟春丸」[9]。
孟春 | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | イギリス、ロンドン[2] |
運用者 |
佐賀藩[2] 大日本帝国海軍[3](兵部省[4]、海軍省) |
艦種 | 砲艦[2] |
建造費 | 購入金額:88,500 両[2] |
母港 | 横須賀(1886年12月28日時点)[5] |
艦歴 | |
竣工 | 1867年1月(慶応2年12月頃)製造[6] |
就役 |
慶応4年1月(1868年2月頃)、佐賀藩が購入[2] 明治4年5月22日(1871年7月9日)、兵部省受領[7] |
除籍 | 1887年(明治20年)10月8日[8] |
その後 |
逓信省へ移管[8] 1896年(明治29年)7月、廃船[9] |
要目 | |
排水量 | 357 英トン[8][10] |
トン数 | 305 トン[6] |
長さ | 22 間 3 尺 6 寸[11] (41.09 m) |
全長 | 142 尺 5 寸[12] (43.18 m) |
幅 |
3 間 4 尺 8 寸[11](6.91m) 甲板幅:21尺2寸[12] (6.42 m) |
深さ | 10 尺 3 寸[6] (3.12 m) |
吃水 |
8 尺[6] (2.42m) または7フィート7インチ (2.31 m)[10] |
主缶 | 角缶×2基[13] |
主機 | 2気筒直動機械[6]×2基[14] |
出力 | または120馬力 (89 kW)[2]、100名馬力[6] |
推進器 | 2翼普通型青銅製スクリュー[15]×2軸[注釈 1] |
帆装 | 3檣トップスル・スクーナー[2] |
速力 |
14.2ノット (26.3 km/h)[10] か14.1ノット (26.1 km/h)[4] または 12ノット (22 km/h)[2] あるいは 8.0ノット (14.8 km/h)[13] |
燃料 | 炭団:98,000 斤[6][13] |
航続距離 | 燃料消費:15,000斤/日[6] |
乗員 | |
兵装 |
|
その他 |
船材:鉄骨木皮[8] 信号符字:GQBR(1886年-)[22] |
元佐賀藩の軍艦で佐賀藩時に戊辰戦争に参加[2]、日本海軍では台湾出兵、西南戦争などに参加し、京城事変では朝鮮警備に就くなど[9]、明治初期に日本海軍の軍艦として非常に活躍した[23]。日本海軍での正式名称は「孟春艦」[3]。
3檣トップスル・スクーナー型で鉄骨木皮の砲艦[2]。右表の船体の主要寸法は主に明治4年『記録材料・海軍省報告書第一』[6]、明治元年[11] と明治7年の『公文類纂』[12] によった。他の文献での主要寸法は以下の通り。
主機は直動機関2基[14]。なお斜動機関とする文献もあるが[13]、『幕末の蒸気船物語』32頁によると斜動機関(ダイアゴナル型またはイングランド型)は外輪用の機関形式になる[26](孟春はスクリュープロペラ[13])。2気筒でシリンダーの直径25 in (640 mm)、ピストンの行程は18 in (460 mm)[15]。注射復水器を装備した[15]。
ボイラーは角缶2基[13]。鉄製で大きさは径6 ft 8 in (2.03 m)、長さ15 ft 7 in (4.75 m)。1基につき炉筒はそれぞれ2基、缶管は直径3 in (76.2 mm)で長さ6 ft 12 in (2.13 m)の鉄管が100本、総受熱面積1,205.6ft2、総火床面積57.26 ft2[15]。1878年(明治11年)にボイラーが交換された[27]。
出力は右表の通りに色々な値が出ており191実馬力[15]、120馬力[2]、100名馬力[6] などの値がある。速力も同様に、14.2ノット[10] から7ノット[25] までの値がある。
兵装については『公文類纂』によると1874年(明治7年)時にはアームストロング砲を4門搭載していた(右要目表参照)[21]。その他の文献では以下の記載がある。
※日付は明治5年まで旧暦
元は1867年1月(慶応2年12月頃)にロンドンで建造された原名「ヨーゼニー[14]」(Eugenie)[9]。慶応4年1月(1868年2月頃)、長崎で佐賀藩が購入し[2]「孟春丸」と命名された[9]。
戊辰戦争では、慶応4年2月18日に関東御征伐海軍先鋒として三重津を出港、2月22日に神戸に到着した[28]。2月30日に大原重徳が海軍先鋒総督に任命され、「孟春丸」と「豊瑞丸」(薩摩藩籍)、「雄飛丸」(久留米藩籍)が日本で初めて艦隊行動を行い、大坂から横浜まで兵員の輸送を行っている[23]。「孟春丸」は3月19日に兵庫を発し、3月23日に横浜港へ到着した[28]。閏4月19日品海へ回航した[28]。函館へ移動した榎本艦隊を追い[23]、閏4月25日に横浜港を出港し奥州へ進出した[28]。
明治2年(1869年)、陸奥国鍬ヶ崎(現岩手県宮古市鍬ヶ崎)付近で海嘯のため座礁[29]。または明治元年6月に鮫浦で荒天のため座礁[30]。
明治4年(1871年)4月17日に佐賀藩から新政府へ「孟春丸」献納の申し出があり[32]、5月15日に許可となり[33]、5月22日に受領された[7]。兵部省所管となり艦名は「孟春(艦)」となった[9]。11月15日(12月26日)六等艦に定められた[9]。
明治5年(1872年)5月18日の時点で中艦隊に所属[34]、5月23日、「鳳翔」「雲揚」「孟春」は品川を出港し[35]、7月11日に帰着した[35]。8月17日、中艦隊から除かれた[34][36]。9月5日、石川島で修理するために造船局の管轄となり[37]、入渠した[27]。
1873年(明治6年)1月16日、陸揚げの届が出された[27]。2月2日、「孟春」は主船寮所轄から提督府所轄になったが[38]、3月13日に主船寮所轄に戻された[39]。12月に修理が完了し[27]、12月13日、中艦隊に編入された[34][40]。
1874年(明治7年)2月23日に試運転が行われた[27]。台湾出兵に「日進」「雲揚」とともに参加、4月7日(または4月6日[41])に出兵命令が出て[42]、4月10日(または4月9日[43])品川を出港した[44]。その後、清国の諸港を巡り、揚子江に入った[41]。11月10日に長崎港に帰着し[44]、11月29日に品川へ帰港した[43]。
江華島事件が起き釜山へ進出するため[23]、1875年(明治8年)10月18日、「孟春」と「第二丁卯」は中牟田倉之助少将を指揮官として、居留民保護のために釜山回航を命じられ[45]、「孟春」は10月19日(または10月20日[45])に横浜港を出港した[44]。10月28日、中艦隊は解隊、日本周辺を東部と西部に分け、東部指揮官には中牟田倉之助少将、西部指揮官には伊東祐麿少将が任命され[45]、「日進」「春日」「浅間」「第二丁卯」「孟春」「千代田形」「肇敏丸」「快風丸」は西部指揮官所轄となった[45]。また「孟春」は11月9日に艦隊から除かれた[注釈 3]。12月11日、「孟春」は釜山派遣から長崎港に帰着した[46]。12月15日、黒田清隆が「玄武丸」に乗組み朝鮮へ出張するため、「日進」「孟春」「高雄丸」が釜山までの護衛を命令された[46]。「孟春」は翌1876年(明治9年)1月8日に長崎を出港し[46]、3月15日に横浜港に帰港した[44][47]。
1876年(明治9年)3月15日、ボイラーと機械の修理の申し出があった[27]。10月には缶管65本が損傷のため返納との届出が出ている[27]。10月28日、萩の乱を鎮圧するために(横浜港を[48])出港[44]、12月11日、「孟春」は「春日」と共に横浜港に帰港した[44][49]。
1877年(明治10年)1月24日、行幸出発に際し、「東」「鳳翔」「孟春」「千代田形」の4隻で小艦隊を編成して金田湾まで見送り、帰途は蒸気機関運転での艦隊運動訓練を行った[50]。
西南戦争では日奈久攻略に参加した[9]。2月8日、西南方面が不穏のため、「鳳翔」と「孟春」の2隻に回航命令が出され、翌日に2隻は横浜港を出港、神戸港に向かった[44][51]、2月18日午後8時、「孟春」は神戸港を出港し下関へ向かった[51]。 4月7日、西郷軍の扇動者5名を逮捕する[52]。6月29日、大分県浦大島で座礁[52]。9月には城山の戦いに参加した[53]。 10月29日、横浜港に帰港した[44]。
1878年(明治11年)4月15日(または4月14日[27])、横須賀に回航。翌日から6カ月余り横須賀造船所で修理(ボイラー交換[27])を行った[54]。9月頃に試運転を行った[27]。11月2日、横浜に回航。11月5日、更に品川に回航した[54]。11月29日、横須賀に回航。12月1日、兵庫へ向け出港したが、暴風のために当日は金田湾に避泊した[54]。12月5日、兵庫港着[54]。伊藤司令長官が三原へ巡見のために12月10日兵庫出港、瀬戸内海の多度津、三原糸崎、竹原湾、御手洗を巡り、12月16日兵庫に戻った[54]。12月21日兵庫を出港、暴風のために由良湾、的矢、御前埼灯台、清水港に避泊し、12月29日横浜に帰港した[54]。
1879年(明治12年)から1882年(明治15年)の間、「孟春」は測量任務に従事した[9]。1879年3月27日、山陰、北陸沿海の測量中は水路局所轄とされた[55]。
1880年(明治13年)2月3日、品川から横浜に回航[56]。4月26日、品川に戻った[56]。6月26日に品川発、横須賀港で富士山から的を借用し、同日館山湾に到着した[56]。館山湾で射撃訓練を行う[57]。7月3日、館山湾から網代へ回航した[57]。網代から真鶴岬まで戦闘訓練、7月9日に金田湾へ回航、翌日横浜港に帰港した[57]。10月27日、横須賀港に回航し海軍卿・榎本武揚が乗艦、横浜で下艦した[57]。
1881年(明治14年)2月1日、横須賀に回航[57]。2月15日から横須賀造船所で修理を行った[58]。4月9日、品川に回航[57]。4月13日、横須賀に回航された[57]。1882年9月5日に修理が完了した[59]。
1882年(明治15年)、朝鮮事変により朝鮮半島方面で警備に就いた[9]。8月28日、品川を出港して朝鮮へ向かい[44][60]、8月31日に兵庫港へ入港し、翌日出港[60]。下関を経て9月6日に朝鮮溝竹島に到着した[60]。9月7日、溝竹島を発ち[60]、ヘルソールス列島をへて9月9日に仁川港に到着した[60]。9月11日、南陽湾から豊浦に回航、翌日に仁川に戻った[60]。9月20日、駐朝鮮公使・花房義質を乗せて出港、南陽湾に到着した[60]。9月21日、南陽湾発、花房公使は「明治丸」に移乗し、「孟春」は仁川港に戻った[60]。9月28日、豊浦に回航した[60]。10月2日に豊浦発、10月4日に釜山浦に到着した[60]。11月27日に釜山を発ち[60]、各地に寄港して[60]12月11日に横浜港に帰港した[44][60]。
朝鮮派遣中の10月12日「扶桑」「金剛」「比叡」「龍驤」「日進」「清輝」「天城」「磐城」「孟春」「第二丁卯」「筑波」の11隻で中艦隊が再度編成された[61]。
1883年(明治16年)2月16日から3月26日まで横須賀造船所で修理を行った[62]。 3月21日、再度の朝鮮警備のため横浜港を出港[44]、的矢を経由し3月25日兵庫港に入港した[63]。4月4日に兵庫発、伊予興居島、豊後姫島、門司を経由し、4月17日釜山浦に到着した[63]。4月21日釜山浦から竹敷に回航、翌日に竹敷発、4月25日豊島に一時碇泊し、同日仁川に到着した[63]。6月10日仁川発、三島を経て、6月14日長崎に帰国した[63]。
7月3日、長崎を出港し門司に寄港、7月8日釜山浦に到着した[63]。7月12日釜山浦発、7月14日仁川に到着した[63]。8月1日仁川発、八尾島、南陽を経て仁川湾に戻った[63]。8月14日仁川発、豊島を経て、8月17日三島に到着した[63]。8月26日三島発、翌27日に長崎に帰国した[63][注釈 4]。9月15日長崎発、大村、呼子、門司、上ノ関、三原、兵庫、紀伊大島、清水を経由し10月15日品川に帰着した[63]。
1884年(明治17年)、朝鮮警備のため5月5日横浜港を出港[44]、10月14日長崎港に帰港した[44]。
1885年(明治18年)、朝鮮方面の航海のために8月13日厳原を出港[44]、10月5日仁位(現長崎県対馬市豊玉町仁位)に帰港した[44]。
同年(1885年)12月28日中艦隊は解隊[64]、同日「春日」を除く中艦隊に所属していた8隻(「扶桑」「金剛」「比叡」「海門」「筑紫」「清輝」「磐城」「孟春」)で改めて常備小艦隊が編成された[64]。
1886年(明治19年)、朝鮮警備のため9月2日竹敷を出港[44]、12月20日長崎港に帰港した[44]。 12月28日「孟春」は常備小艦隊から除かれて、横須賀鎮守府所轄予備艦に指定された[5]。
1887年(明治20年)10月8日に除籍され[注釈 5]、逓信省へ交付[8]、商船学校係留練習船「孟春号」となった[9]。1896年(明治29年)7月に廃船とされ、神奈川県港務部へ移管、検疫番船「孟春号」とされた[9]。
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.