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広島県、広島湾にある島 ウィキペディアから
似島(にのしま)とは、瀬戸内海の広島湾に浮かぶ島。行政区分としては広島県広島市南区似島町に属し、市域の最南端に位置する。広島市内の島としては最も大きい。2018年6月末時点の人口は797人、世帯数は498世帯[1]。郵便番号は734-0017。
広島港の南、約3kmに位置する。島の北側には安芸小富士(あきのこふじ)と呼ばれる山(標高278m)があり、広島市街や広島湾岸からも望むことができる。また、中区富士見町は、この安芸小富士が綺麗に見えるところから、その名が付いたという。
島には平地が少なく、山がちである。南側には天然の砂浜と干潟がある。
江戸時代には、荷継ぎの港として栄え「荷の島」と呼ばれていた。これは、広島湾が遠浅で、大きな船舶が岸まで入れなかったためで、一度似島に荷を下ろし、そこからより小さな船で本土へと運んでいたという。古い文献では「二の島」「見の島」「似の嶋」「箕島」などの表記も見られるが、後に「富士山に似た山のある島」から来ているといわれる似島の表記が定着する。
行政区分上は江戸時代から1929年に至るまで安芸郡仁保島村(のち仁保村)に属していた。1929年に仁保村が広島市に編入合併されて以降は「仁保町」の一部であり、1933年に仁保町から分離して「似島町」が新設され現在に至っている。
1895年から第二次世界大戦終了直後まで陸軍の似島検疫所が置かれており、現在でも石積桟橋、軍馬焼却炉などの当時の軍事施設の遺構が残っている。日露戦争、第一次世界大戦当時は検疫所内に捕虜収容所も併設された。第一次大戦時に収容されていたドイツ人捕虜カール・ユーハイムが、収容中に日本初のバウムクーヘンを焼いたというエピソードがあり、日本におけるバウムクーヘン発祥の地といわれる[2]。
1945年、広島市への原子爆弾投下後には、検疫所が臨時の野戦病院として使用され、1万人とも言われる被災者が似島に運び込まれた。島に埋められた死者も多く、2018年時点も遺骨の発掘が行われている[3]。慰霊碑も設置されている。検疫所跡地には、原爆投下により生じた戦災孤児、戦災浮浪児に対する福祉を目的とした似島学園が設立されている。
また、早い時期からサッカーが盛んに行われた場所でもある。1919年には、第一次世界大戦で日本軍の捕虜となり、島内の似島検疫所に収容されていたドイツ人と広島高等師範学校(現:広島大学教育学部)学生による親善試合が広島市内で行われ、これが「日本で初めてのサッカー国際試合」とも言われる[4]。1954年には似島中学校教師であった渡部英麿が全日本(現在のサッカー日本代表)に選ばれている。似島中学校は広島サッカー界でも古豪として知られ、1970年には第1回全国中学校サッカー大会で準優勝している。
本州や他の島との間に橋などはなく、船舶による連絡に依存する。島の西側、家下(やじた)地区に「似島港(似島桟橋)[5]」、東側の長谷地区にある似島学園前に「似島学園前桟橋[6]」があり、似島汽船とバンカー・サプライが広島港との間に定期航路を運航している。
島内にはバスやタクシーなどの交通機関はない。似島港近隣にて自転車の貸し出しが行われている。外周道路の南側を除く多く道路は車両の通行ができなくなっている。また、島内には信号機が一つも設置されていない。
かつて砂利運搬船の保有数が日本で最も多かったほど砂利採取運搬が盛んであった。
漁業では牡蛎養殖が盛んで、島を取り巻くように数百の牡蛎筏が浮かべられている。ナマコ、タコ、メバルなどの沿岸漁業も行われる。
以下の作品の舞台となった。
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