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ギリシア語の詩集、また『シビュラの書』の偽書 ウィキペディアから
『シビュラの託宣』(シビュラのたくせん、ラテン語: Oracula Sibyllina)は、シビュラが語った神託をまとめたと主張するギリシア語の詩集である。重複分を除けば12巻分と8つの断片が現存している。
シビュラとは恍惚状態で神託を伝えた古代の巫女で、彼女たちの神託をまとめた書物としては、伝説的起源を持つ『シビュラの書』が有名である。しかし、『シビュラの託宣』はそれとは全く別のもので、『シビュラの書』の名声にあやかるかたちで紀元前140年以降少なくとも数世紀にわたり、ユダヤ教徒たちやキリスト教徒たちによって段階的にまとめられてきた偽書である[1]。そこに含まれる歴史的事件に関する予言の多くは、後述するように単なる事後予言に過ぎない。
この文献は部分的に旧約偽典や新約外典に含まれ[2][3]、古典時代の神話だけでなく、グノーシス主義、ギリシア語を話すユダヤ教徒たちの信仰 (Hellenistic Judaism)、原始キリスト教などに関する貴重な情報源の一つとなっている。分類上は黙示文学に属し、散りばめられた詩句には、『ヨハネの黙示録』や他の黙示文学との類似性が指摘されているものもある[4]。
『シビュラの託宣』はその題名が示すように、古代のシビュラ、そしてその著書とされた『シビュラの書』に仮託して作成されたものである。
シビュラ (Sibylla) とは、古代の地中海世界における巫女のことである。推測される起源は紀元前7世紀から前6世紀頃のイオニアだが[5]、最古の言及は紀元前5世紀のヘラクレイトスのものとされる[6]。エウリピデス、アリストファネス、プルタルコス、プラトンら、シビュラに言及した初期の思想家たちは常に単数で語っていたが、後には様々な場所に住むといわれるようになった[7][8]。タキトゥスは複数いる可能性を示し、パウサニアスは4人とした[8]。
ラクタンティウス (Lactantius) はマルクス・テレンティウス・ウァロ(紀元前1世紀)からの引用として、10人のシビュラ、すなわちペルシアのシビュラ、リビアのシビュラ、デルポイのシビュラ、キメリアのシビュラ、エリュトライのシビュラ、サモスのシビュラ、クマエのシビュラ、ヘレスポントスのシビュラ、フリギアのシビュラ、ティブルのシビュラを挙げた[9]。
ローマで最も尊ばれたのは、クマエとエリュトライのシビュラであった[7]。クマエのシビュラは、『シビュラの書』をローマに持ち込んだと伝えられ、ウェルギリウスの『牧歌』などでもその名が挙げられている(後述)。エリュトライのシビュラは、ラクタンティウスが現在『シビュラの託宣』の「断片」として知られる箇所から引用する際に、常に神託を述べた者として挙げていた[10]。
中世に重視されたのはエリュトライのシビュラとティブルのシビュラで[11]、後者は4世紀の成立ともいわれる『ティブルティナ・シビュラ』(ティブルのシビュラの託宣)などの予言書の作成にも結びついた。ただし、その文献は『シビュラの託宣』と直接的に繋がるものではない[12]。
なお、中世後期になるとエウロパのシビュラとアグリッパのシビュラを追加して、12人とする文献も現れた[13]。
古代ローマにおいて『シビュラの書』として知られる文書があった。ハリカルナッソスのディオニュシオス、ウェルギリウス、ラクタンティウスなどは、元はギリシアないし小アジアに起源を持つとされるその文書が、クマエを経由してローマに持ち込まれた経緯を、以下のように伝えている。
クマエのシビュラがローマ王タルクィニウス(タルクィニウス・プリスクス[注釈 1]ないしタルクィニウス・スペルブス[注釈 2])に、9巻本の託宣を900ピリッポスで売ろうと持ちかけた。タルクィニウスがその法外な高さを理由に断ると、彼女は3巻分を焼き捨てて残りを再び900ピリッポスで売ると言い出した。それも断られると彼女はさらに3巻分を焼き、残りを900ピリッポスで売ると言った。王はその提案に興味を持ち(あるいは動転のあまりに)、それを受け入れ最後に残った3巻分を言い値で買い取った[14][15]。
『シビュラの書』がカピトリウムの丘にあったユピテル神殿に奉納されていたことは事実だが、上記の経緯は後に潤色されたもので史実としての裏づけを否定されている。こうした伝説の背景には、『シビュラの書』が実際にはエトルリアに起源を持つと推測されているため、それに敵愾心を持っていたローマが、自らの神託の出自をより好ましいギリシアに仮託する意図があったと指摘されている[16]。
ユピテル神殿に奉納された『シビュラの書』は、限られた聖事担当官(当初2人、のち10人、15人と増員された)しか参照することができず、特に必要とされた場合に聖書占いのように無作為に開いたページの章句を解釈して占ったという[17]。
この伝説的起源を持つ『シビュラの書』は紀元前83年の火災で焼失し、かわりに各地の神託を集めて新たな『シビュラの書』が編纂された。これはアウグストゥス帝の時代(紀元前12年)にパラティウムの丘のアポロン神殿に奉納されたが、408年、ホノリウス帝時代の将軍スティリコによって焚書された[18][19][20]。結果として、古代ローマで参照されていた本来の『シビュラの書』の内容は、当時の著書でごくわずかにそこからの抜粋と主張する詩句が引用されたりはしているものの[21]、ほとんど伝わっていない。
上記のセム系一神教に属さない神託が享受していた人気と影響力から、紀元前2世紀にアレクサンドリアにいたギリシア語を話すユダヤ教徒たちは同じ様式で預言をまとめ、それらをシビュラに帰したのである。それらは異教徒たちの間で、ユダヤ教の教義を宣布するために作成された。この習慣はキリスト教徒の時代になっても継続されたので、2世紀から3世紀にかけて、キリスト教徒起源で広められた新たな「託宣」が出現した[7]。これらが現存する『シビュラの託宣』であり、つまりは本物の『シビュラの書』とは別系統で編纂されてきた偽書である。
『シビュラの書』が伝説上ギリシア起源でローマに持ち込まれたとされるために、『シビュラの託宣』もギリシア語の長短短格六脚韻 (ダクテュロスのヘクサメトロス、Dactylic hexameter) で書かれている。この詩形は古代ギリシアの叙事詩などに用いられていたもので、ホメロスなどの文体を模倣している要素が指摘されているが、その詩作品としての文学的価値は否定されている[23]。ただし、ゼウスに用いられる枕詞を唯一神にも使うことなどは、読み手である異教徒たちが抱く神のイメージに影響した可能性が指摘されている[24]。
こうした経緯から、『シビュラの託宣』の内容は異教的、ユダヤ教的、キリスト教的な要素に分類することができる。ただし、キリスト教的な箇所には、キリスト教徒たちがユダヤ教文書を手直ししたり加筆したにすぎない要素も少なくない。その結果、キリスト教的要素には、ユダヤ教起源の託宣と、キリスト教徒によって書き下ろされた託宣という2種類が存在している。残っている文書のどれくらいがキリスト教的でどれくらいがユダヤ教的なのかを正確に決定させることには、多くの困難が付きまとってきた。キリスト教とユダヤ教は多くの点で一致することから、キリスト教徒たちはユダヤ教徒たちの手になる部分を、修正なしに受け入れることもしばしばだったからである[7]。
これらの託宣はもともと作者不明のものであったため、ユダヤ人やキリスト教徒たちは、自らの布教のために適宜、修正や拡大をする傾向があった。原始キリスト教においてそうした託宣の創出が一般的だったことから、ケルススはキリスト教徒を「シビュラに夢中な者たち」 (Σιβυλλισται) と呼んだ[8]。同じような視点から、キケロやプルタルコスも「シビュラに夢中な者たち」の偽作を指摘していた[25]。
19世紀の校訂者アレクサンドルによれば、最終的な編纂者は6世紀の人物と推測されているが、多くの部分は原著者、時代、宗教的信条がばらばらで、相互に関連しない断片が無原則にまとめられているに過ぎない[8]。
現存する『シビュラの託宣』は、重複する分を除けば実質的に12巻で構成され、時代の異なるさまざまな書き手が、異なる宗教的概念に従って作り上げてきたものである。それゆえ、統一的な話の筋道やモチーフは存在しない。歴史的事件に基づく事後予言は多いが、それとて時系列的に提示することが意識されている箇所ばかりではない。歴史的な関心はユダヤ教部分に強い一方、キリスト教部分はやや弱いことも指摘されている[26]。
ただし、ユダヤ教色が強いかキリスト教色が強いかに関わりなく、どちらの文書にもローマに対する強い敵意が共通しているとも指摘されている[27]。
以下で各巻の内容や成立時期を見ていくが、本編に関する情報を大まかにまとめておくと以下の通りである(第9巻、第10巻、第15巻を省いた理由は本文を参照のこと)。また、見解が複数に分かれる場合は、便宜上20世紀後半以降の見解を中心にまとめているので、より詳しくは該当する各節を参照のこと。
これらの巻は内容や成立時期のまとまりから、第1巻と第2巻、第3巻から第5巻、第6巻から第8巻、第11巻から第14巻の4つのグループに分類できる。以下では、このグループを基準にして概説を行い、併せて各巻の内容も略述する。なお、一部の巻の概説には参考として詩句の引用とともに画像を添えたが、画像はあくまでも参考程度のもので、いずれも『シビュラの託宣』そのものを直接的な主題とするものではない。
後述するように『シビュラの託宣』の3つの写本群のうち、1つの写本群にのみ「序文」が付けられており、それが1545年の最初の印刷版でも踏襲され、現在に至っている。
序文を執筆し追加したのは、第1巻から第8巻を最初にまとめたビザンティンの人物と推測されている[28]。そこに示された年代記がアダムから東ローマ皇帝ゼノン(在位474年 - 491年)までであることから、執筆は西暦500年前後のこととされている[26]。
その内容は『シビュラの書』の伝説的来歴を『シビュラの託宣』の来歴とすりかえるもので、上述の10人のシビュラを列挙するとともに、そのうちクマエのシビュラによって託宣がローマに持ち込まれた経緯を説明し、それはモーセ五書などが描く天地創造や、イエス・キリストによる救済を予言する内容だったと主張している。
第1巻と第2巻がユダヤ教的かキリスト教的かは過去様々な議論があったが、現在では、ユダヤ教徒が作成したものをキリスト教徒が改訂したと見なされている[31]。その時期については大きく分けて2つの立場があり、ユダヤ教的土台もキリスト教的加筆も3世紀のこととする説と、紀元前後にユダヤ教部分が成立し、西暦150年以前にキリスト教的加筆が行われたとする説である[32]。日本語訳を公刊した佐竹明は後者の立場を支持している[33]。
第1巻と第2巻には、第7巻、第8巻と強い類似性を示す箇所が複数存在し、どちらがどちらを真似たと見なすのかも、こうした成立年代の問題に関わってくる[34]。
第1巻と第2巻は小アジアのどこかで成立したと考えられている[26]。とりわけ、第1巻のユダヤ教部分には、ノアの大洪水と関連付けてフリギアを特別視する記述が複数見られることから、ユダヤ教的土台がフリギアで成立した可能性が高いとされている[34]。
第3巻から第5巻まではユダヤ教色が強いとされるが、その成立年代にはかなりの開きがある。これらの巻は地中海世界のさまざまな地名を挙げ、終末において「神の民」(ユダヤ人)に訪れる救済と、異民族が直面することになる災厄を予言するものとなっている[40]。
予言には事後予言が混じっていることも指摘されており、様々な国の著名な君主たちが登場している。彼らはゲマトリアや言葉遊びなどを利用して婉曲に呼ばれているが、そうした実在の人物や事件に引き寄せた記述は成立年代を推定する鍵となっている。なお、ホメロスやヘシオドスを模倣した要素が指摘されており、たとえば第3巻のバベルの塔を描いた箇所では、ホメロスの『オデュッセイア』と『イリアス』、それにヘシオドスの『神統記』との混合や並行が見られる[41]。
第6巻と第7巻がキリスト教徒によるものであることについては、現代の諸論者の間で異論がない[58]。それに対し、キリスト教的要素が強いとされる巻の中で最も長い第8巻は、様々な要素の組み合わせが指摘されている。
第9巻と第10巻は後述する3つの写本群のうち、1つの写本群(オメガ写本群)にしか収録されていない上、どちらも他の巻の寄せ集めに過ぎない。第9巻は第6巻全体に第7巻1行目と第8巻の218行目から428行目を繋ぎ合わせたものである。これを「ごちゃ混ぜの極致」(a masterpiece of confusion) と呼ぶ者さえいる[67]。第10巻に至っては第4巻と全く同じでしかない[68]。
こうした事情のため、14巻までの校訂版や翻訳書などでも、この2巻分は省略されるのが普通である[注釈 8]。概説の類では第9巻、第10巻に全く触れず、12巻分のみが伝存しているとする例もしばしば見られる[69][70][23]。
第11巻から第14巻までは、後述するように19世紀になって再発見された。巻数は写本に書かれていたものがそのまま踏襲されているが、19世紀末のミルトン・テリーのように巻数を前倒しにして、順に第9巻から第12巻とする者もいた(テリーは括弧書きの形で写本の巻数も併記している)[71]。なお、この記事でテリーの見解を紹介する際には、煩瑣になるのを避けるために一般的な巻数表記で統一している。
テリーは第11巻をエジプトのユダヤ人による2世紀初頭の作品、第12巻と第13巻を3世紀のキリスト教徒の作品、第14巻を著者・年代とも特定困難とし[72]、『カトリック百科事典』(1913年)はそれらの4巻本を、ユダヤ教徒の作品にキリスト教徒が手直しする形で3世紀から4世紀頃に成立した作品としたが[7]、現在ではいずれの巻もユダヤ教的(13巻のみキリスト教的とする見解もある[23][7])で、成立は7世紀まで[73]、あるいは9世紀とする見解[12]も提示されている。教父たちはこれらの書から何も引用しなかったが、それが直ちに彼らの時代に存在しなかったことを意味するわけではない。それらが引用されなかったのは、表明されている宗教思想が重要なものではなく、救世主や黙示文学的な要素がありきたりなものだったからとも考えられているためである[35]。
それとも関係するが、第11巻以降は政治史的な事後予言の色彩が強いとも言われており[73]、第11巻から第13巻までには終末論的色彩が希薄である[74]。第14巻は、そこまでの政治史的な流れを締めくくるかのように、ありきたりな描写ではあるものの、救世主や黄金時代の到来を語っている。
後述するオメガ写本群には、第8巻の1行目から9行目までを「第15巻」として収録している写本がある[67]。しかし、重複分として削除されるのが普通で、『シビュラの託宣』全体が「15巻本」と言われることもまれである[85]。
現存する実質12巻の『シビュラの託宣』には含まれていない断片も存在している。それらは教父たちの引用によってのみ知られている逸文で、いずれもユダヤ人が書いたと推測されている[12]。
断片は全部で8つあり、一般的に1902年のゲフケンの校訂版に従って、1から8までの通し番号が振られている。それらのうち断片1(35行)、2(3行)、3(49行)の出典はアンティオケイアのテオフィロスの唯一現存している著書『アウトリュコスに送る』第2巻(西暦180年代成立)である。ゲフケンはこれらに偽作の疑いを掛けたが、既存の巻のいずれかから脱落した内容とする反論もある[87][88]。短すぎる断片2はともかく、あと2つは唯一神を称える内容になっており、本来的には失われた巻などの導入部の役割を果たしていた可能性も指摘されている[35]。位置づけについては後述の#写本の系統も参照のこと。
断片4から7の出典はラクタンティウスの『神学綱要』だが、いずれも1行から3行程度の短いもので、断片7に至っては1行にも満たない。断片8の出典はエウセビオスに帰せられている偽書『聖なる集団への勧告』である[89]。
『シビュラの託宣』は、擬ユスティノス、アテネのアテナゴラス、アンティオケイアのテオフィロス、アレクサンドリアのクレメンス、ラクタンティウス、アウグスティヌスら、特に初期の教父やキリスト教の書き手たちによって頻繁に引用され[7]、バード・トンプソンの研究によればその数は22人[90]、回数はのべ数百回に及ぶ[91]。また使徒教父文書の『ヘルマスの牧者』にも引用が見られる[92]。
ウェルギリウスは『牧歌』の中で、クマエのシビュラが神童と「サトゥルヌスの治世」(黄金時代)の到来を予言していたと歌い上げた。このモチーフの一部は、紀元前2世紀に成立していた『シビュラの託宣』の最古の部分(現在の第3巻)で借用されていた『イザヤ書』に触発されたものだという[23]。
なお、ウェルギリウスのこの言及は、後年キリスト教徒たちからイエスの降誕を予言したものとして受け止められるようになり、それは結果として『シビュラの託宣』の地位を高めることにも繋がった[20]。
ただし、前述の通り、古代ローマにはキケロやプルタルコスなど、『シビュラの託宣』が偽作に過ぎないことを指摘していた者たちもいた。
『シビュラの託宣』の利用はキリスト教徒たちに特有の現象ではない。1世紀のユダヤ人歴史家フラウィウス・ヨセフスは、第3巻からバベルの塔に関連する記述を引用している。しかしながら、ヨセフスの引用は特段の反響を呼び起こさなかったようで、キリスト教文書としての広まりと裏腹に、ユダヤ教文書として広く受容されるには至らなかった[92]。
中世のユダヤ文学に至っても、『シビュラの託宣』へのいかなる言及も影響の痕跡も見出すことができない。16世紀のアブラハム・ザクト (Abraham Zacuto) らはシビュラに簡略に触れているが、それはタルクィニウスに神託書を売りつけた伝説的な巫女の方である。ほかには、ビザンティン帝国の歴史家ゲオルギウス・モナクス (Georgius Monachus) らが、シバの女王をシビュラの一人と位置付けたりした例があるが[35]、これもまた『シビュラの託宣』とは関係がない。
ヨセフスと同じ箇所はキリスト教徒によっても引用されている。キリスト教の護教論者で176年頃にマルクス・アウレリウス帝に『キリスト教徒のための申立書』ラテン語: (Supplicatio pro Christianis) を献じたアテネのアテナゴラスは、古典的でかつ異教的な出典との混合を見せている第3巻の長大なくだりの中から、ヨセフスと同じ記述を引用している。そして彼はこれら全ての作品が、ローマ帝国でよく知られたものだと述べた。
アンティオケイアのテオフィロス (Theophilus of Antioch) はその著『アウトリュコスに送る』第2巻で4箇所引用しているが、うち3箇所は上述の通り「断片」を形成する章句である。残り1箇所は第3巻序盤の8行分と第8巻の5行目である。第8巻が唐突に1行だけ抜粋されている不自然な引用は、これが第3巻の一部だった可能性などを想定させる[93]。なお、テオフィロスはユダヤ人にとっての預言者たちに対応する同格の存在として、ギリシア人にとってのシビュラを位置付けた。アレクサンドリアのクレメンスも、複数の著書において『シビュラの託宣』を引用し、異教徒たちにイエス・キリストの到来を預言した重要な存在と位置付けていた[94]。
殉教者ユスティノスに帰せられてきた偽書『ギリシア人への勧め』(3世紀後半 - 4世紀初頭)の著者、偽ユスティノスも『シビュラの託宣』から複数箇所を引用した。彼はそれを全てクマエのシビュラ一人の神託と位置付けた[95]。
アウグスティヌスも『シビュラの託宣』から引用し、特に『神の国』第18巻において、『シビュラの託宣』第8巻のアクロスティックを引用している。彼はそれを異教の巫女までもがイエスの到来を予言していた証拠として援用しており、これが中世ヨーロッパで広く知られる要因となった[96]。後述するように『シビュラの託宣』がまとまった形(全8巻)で刊行されるのは1545年が最初だが、このアクロスティックだけはそれに先立つこと50年、アルドゥスによるギリシア詩歌の選集(1495年)の中にすでに採録されていたのである。ただし、アルドゥスの直接的な出典はエウセビオスに帰せられていて、そのエウセビオスの記述自体が実際には5世紀から7世紀ころに成立した『聖なる集団への勧告』という著書からの孫引きだった[97]。
なお、アウグスティヌスは一貫して『シビュラの託宣』に好意的だったわけではなく、聖書を貶す目的でシビュラを称揚していたマニ教徒を論難する際には、『シビュラの託宣』をも攻撃した[98]。
これに対し、『シビュラの託宣』に一貫して好意的な立場から、自身の教説の中で積極的に肯定的な地位を与え続けた人物がいる。それが、教父の中でもそれを最も多く引用し、そして後世のシビュラ理解に影響力があったとも言われるラクタンティウスである[99]。彼はアウグスティヌスよりも前の時代の人物で、アウグスティヌスのシビュラ理解も彼から影響を受けたものであった[100]。また、ラクタンティウスは上述の通り、現存の14巻本には含まれない断片も4つ伝えている。さらに彼の著書が15世紀後半に出版されたことで、後述するようにキリスト教美術におけるシビュラの受容にも影響した。
こうした言及によって、『シビュラの託宣』は中世の西方教会でも東方教会でも知られ、用いられてはいたものの、異教に対してキリスト教が優位になるのに伴って、それへの関心は段階的に衰え、広く読まれることはなくなっていった[7]。『シビュラの託宣』は、その異教的要素にもかかわらず、聖書の外典や偽典と位置づけられることがある。しかし、どの教派でもこれが正典と位置付けられたことはなかった。
イタリアでルネサンスが花開いた頃には、まだ写本は再発見されていなかった。しかし、そんな中にあって人文主義者マルシリオ・フィチーノは『キリスト教について』で2つの章を割いて『シビュラの託宣』を論じている。彼の出典となったのは、ラクタンティウスの諸著作であった[101]。
すでに述べたように、『シビュラの託宣』に基づいた古代の教父たちの言及によって、シビュラは聖書に登場する(男性の)預言者たちと並ぶ存在として位置付けられるようになっていた。しかし、15世紀以前にはシビュラが美術の題材として使われることはあまりなかった[102]。
状況の変化は15世紀後半以降の印刷術の普及によってもたらされた。ラクタンティウスの『神学綱要』が1465年に早くも印刷物として公刊され、アウグスティヌスやヒエロニュムスを論じたフィリッポ・バルビエーリの著書(1481年)でも12人のシビュラが描かれて、『シビュラの託宣』の延長線上にあるシビュラのイメージが広められたのである。これらにより、本来異教的なシビュラがキリスト教美術のモチーフとして受容され、教会建築物の壁画や天井画、ステンドグラスなど様々な絵画、彫刻などに表現されるようになった[103]。
シエナ大聖堂の舗床には10人のシビュラが描かれ、彼女たちにはラクタンティウスの著書から引用された碑銘が添えられた。ほかに、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂に描いた天井画の12人の預言者とシビュラは、預言者に対置される女性預言者としてのシビュラを描いていることで有名である[104]。
現在伝わっているテクストは16世紀以降に再発見されたものであり、出版や校訂の歴史もそこから始まる。写本の発見に関わったのは、アウクスブルクの人文主義者クシストゥス・ベトゥレイウス (Xystus Betuleius) である。彼はラクタンティウスの著作集を出版しようと蒐集した写本群の中から、『シビュラの託宣』のギリシア語写本を発見した。彼はそれをもとに、第1巻から第8巻に6世紀のものとされる序文を添えたギリシア語版を、1545年にバーゼルで出版した[105]。『シビュラの託宣』が公刊されたのはこれが最初であり、この出版は知識人たちの間で大きな反響を呼んだ[35]。
翌年には、セバスティアヌス・カスティリオ (Sebastianus Castellio) によるラテン語対訳版が刊行された。カスティリオは1555年にも対訳の増補版を出版し、断片1、2、3を初めて公刊した[106]。
1599年にはよりよい写本を基にした版が、ヨハンニス・オプソポエウス (Johannis Opsopoeus) によってパリで出版された。これは初期のテクストの中で最良と評価されている[8]。逆に1689年にアムステルダムで刊行された版はその校訂上の価値が低い[8]。18世紀には、1713年にサー・ジョン・フロイヤー (John Floyer) によって英訳版が出版されたり、アンドレーア・ガッランディ (Andrea Gallandi) による『ビブリオテカ・ウェテルム・パトルム』(ヴェネツィア、1765年 / 1788年)に採録されたりした。しかし、学術的に正確を期した版と評価できるものは、19世紀まで出版されることがなかった[35]。
1817年にはアンジェロ・マイ (Angelo Mai) がミラノのアンブロジアーナ図書館で発見された写本に基づき、第14巻を初めて出版した[35]。さらに彼はヴァティカン図書館で新たな4巻本(第11巻から第14巻)も発見し、そちらも1828年にローマで公刊した。それらはコンラート・ゲスナーが『普遍的図書館』(1545年)で一度は報告していたものだったが、マイが再発見するまで失われていた[106]。全12巻分をまとめて出版したのは、ライプツィヒのフリードリープ (J. H. Friedlieb) の版(1852年)が最初だった[107]。フランスではシャルル・アレクサンドルが1841年に8巻分の対訳版を出して以降、第11巻以降の分も含めて改定を重ね、1869年には「決定版」 (editio optima) を刊行した。『カトリック百科事典』(1913年)では、このアレクサンドルの版が非常に有用な版として評価されている。
19世紀には他にも様々な校訂版が出されたが、1902年にはライプツィヒでヨハンネス・ゲフケンによって包括的な校訂版が出版された。この校訂版は、16世紀のカスティリオ、オプソポエウスのほか、19世紀になって出版されていたシュトゥルーヴェ、アレクサンドル、マイネッケ、バット、ヘルヴェルデン、メンデルスゾーン、ルザック、ブレシュ、ヴィラモーヴィッツらの校訂版を踏まえたものになっている[108]。なお、『エンサイクロペディア・ビブリカ』(1899年)ではルザックの版が高く評価されており、『ジューイッシュ・エンサイクロペディア』(1901 - 1906年)では、アレクサンドル、ルザック、ゲフケンの版が特筆すべき版として評価されている。
1951年にはクルフェスによる新しい校訂版が登場したが、これは組み換えや削除などの点で、ゲフケン版に比べてかなり大胆な校訂が行われたものだという[109]。ゲフケン版はJ.J.コリンズによる英訳や後述する日本語訳の際の底本になっているが、それらの訳書においても、クルフェスの研究成果は取り入れられている。
ゲフケンは校訂に当たって12あまりの写本を参照し、それをオメガ (Ω) 写本群、フィー (Φ) 写本群、プシー (Ψ) 写本群の3つの写本群にまとめ、後の写本群になるほど信頼性が落ちると評価した[110][109]。現在までにゲフケンが利用していなかった写本がさらに2つ発見されているが、ゲフケンの写本群分類は踏襲されている[68]。
写本群ごとに収録巻数には大きな違いがある。オメガ写本群は基本的に第9巻から第14巻までしか含まれていない。逆にフィー写本群とプシー写本群には第1巻から第8巻までしか含まれていない。フィーとプシーにも違いがあり、フィーは序文を含んでいる代わりに第8巻の末尾(487行目から500行目)が欠落している。他方、プシーは序文を含んでいない上に、フィーの第8巻の一部(これは現在の校訂版でも第8巻に置かれている)が最初に持ってこられている[68]。
写本に関する成立時期や関連情報をまとめておくと以下の通りである[注釈 10]。
略号 | 写本名 | 成立時期 | 備考 | |
---|---|---|---|---|
Ω | M | Codex Ambrosianus E64 sup. | 15世紀 | 1817年にマイが発見[35]。11巻から13巻を含まない[67]。 |
Q | Codex Vaticanus 1120 | 14世紀 | 1828年にマイが発見[35]。 | |
V | Codex Vaticanus 743 | |||
H | Codex Monacensis gr.312 | 1541年 | ||
Z | Codex Hierosolymitanus Sabaiticus 419 | 14世紀末 | ゲフケンは言及していなかった。 | |
Φ | A | Codex Vindobonensis hist gr. XCV16 | 15世紀 | 1555年にカスティリオが利用した[106]。 |
P | Codex Monacensis 351 | 1545年のベトゥレイウス版の底本となった[106]。 | ||
B | Codex Bodoleianus Baroccianus 109 | 15世紀末葉 | ||
S | Codex Scorialensis II Σ 7 | |||
D | Codex Vallicellianus gr.46 | 16世紀 | ゲフケンは言及していなかった。 | |
Ψ | F | Codex Laurentianus plut. XI 17 | 15世紀 | |
R | Codex Parisinus 2851 | 15世紀末葉 | 1599年にオプソポエウスが底本とした[67]。 | |
L | Codex Parisinus 2850 | 1475年 | ||
T | Codex Toletanus Cat 99.44 | 1500年頃 |
これらの写本によって『シビュラの託宣』の内容が全て伝わっているとは断定できない。実際、写本群に含まれていない「断片」の存在は、失われた要素があることを示唆している。そして、もう一つ問題なのは、ベトゥレイウスが使用したP写本をはじめとする多くの写本で、第3巻冒頭(96行目まで)に混乱が見られることである。多くの写本では「第2巻から」と記載されており、それらが第2巻の一部であることを示唆している。さらにプシー写本群の一部に至っては、92行目と93行目の間に断絶を設定し、そこに入るべき第2巻の末尾と第3巻冒頭が失われたことを示唆する書き込みまで存在している[111]。
また、「断片」1から3が第3巻冒頭の内容と密接に関係していることなどから、クルフェスのように、第3巻冒頭と断片1から3で、本来は別の一巻を構成していたと推測する者もいる。コリンズも、第3巻の46行目から92行目が特定の巻の結論部分のような側面を持っていることからこの仮説に好意的だが、1行目から45行目と46行目と92行目が最初から一体のものとして存在していたのかには疑問を呈している[111]。
『シビュラの託宣』は16世紀以降、ギリシア語以外にも翻訳されるようになった。すでに述べたように、初版の翌年にはカスティリオがラテン語との対訳版を出版していたが、原文の校訂などを踏まえた学術的な翻訳の登場は、19世紀末以降のことである。
ミルトン・テリーは1890年に英語訳を出版した[71]。これはルザックやゲフケンの校訂版よりも前に出版された英訳だが、デポール大学 (DePaul University) の准教授コリンズ[112]の主要なものに絞った書誌でも挙げられている[113]。
1900年にはブラスが第3巻から第5巻のドイツ語訳を発表した[114]。コリンズはこれをクルフェスの校訂版などとともに、「最重要の(英語以外の)翻訳」に分類している[113]。
同じ頃、第3巻から第5巻については、ランチェスター[115]とベイト[116]による英語訳も相次いで出版された。ランチェスターの英訳と注釈は、柴田による日本語訳(後述)でも参考になった先行研究のひとつとして挙げられている[108]。
1951年にはすでに述べたようにクルフェスによる11巻までの校訂版が出され、ドイツ語訳も付けられていた[113][117]。クルフェスはウィルソンとともに、キリスト教的部分、つまり第1巻と第2巻の抄訳と第6巻から第8巻までの全体を対象とした英訳も発表している[118][113]。
限定的な翻訳ということでは、ニキプロヴェツキーが1970年に第3巻のギリシア語原文とフランス語による対訳を発表した[119]。この文献は、多くの論者が第3巻の最初の96行分を残りの部分と分けて考えているのに対し、統一的に把握することを提示したという点で、例外的な研究書である[113][111]。
以上に挙げた校訂や翻訳を元に、第1巻から第8巻、第11巻から第14巻までの英訳を提示したのがコリンズである。1983年に出版されたその英訳は、2009年に再版された。
『シビュラの託宣』のうち、第1巻から第8巻までと3つの断片については、専門家による日本語訳が存在している。教文館の『聖書外典偽典』第3巻(旧約偽典I)には、ユダヤ教色の強い第3巻から第5巻までと断片1から3の訳(訳者柴田善家)が収められている。同じく『聖書外典偽典』第6巻(新約外典I)には、キリスト教色の強い第1巻と第2巻、および第6巻から第8巻の訳(訳者佐竹明)が収められている(一部の非キリスト教的箇所は割愛)。いずれの翻訳もゲフケンの校訂版を底本としている。
関連する年表を掲げる。なお、煩瑣になるのを避けるため、『シビュラの託宣』は『託宣』と略し、現在の巻数で記載する。逐一「...と推測される」などと記載することは避けたが、上で述べてきたように成立年代などには確定されていない要素が多い。本文中で記載したように、『シビュラの書』『シビュラの託宣』『ティブルティナ・シビュラ』はそれぞれ別個の作品である。
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