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ウィリアム・サマセット・モーム(William Somerset Maugham, CH、1874年1月25日 - 1965年12月16日)は、イギリスの小説家、劇作家。
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ウィリアム・サマセット・モーム William Somerset Maugham | |
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1934年5月、カール・ヴァン・ヴェクテン撮影 | |
誕生 |
1874年1月25日 パリ |
死没 |
1965年12月16日(91歳没) ニース |
職業 | 小説家、劇作家 |
国籍 | イギリス |
代表作 |
『人間の絆』(1915年) 『月と六ペンス』(1919年) 『お菓子とビール』(1930年) |
ウィキポータル 文学 |
フランス・パリ生まれ。10歳で孤児となり、イギリスに帰国し医師となり第一次大戦では軍医、諜報部員として従軍した。1919年に『月と六ペンス』で注目され、人気作家となった。平明な文体と物語り展開の妙で、最良の意味での通俗作家として名を成した。長編に『人間の絆』『お菓子と麦酒』、また短編に「雨」「赤毛」、戯曲に「おえら方」など多くの作品がある。
ロシア革命時は、英国秘密情報部に所属した情報工作員であった[1]。題材にした作品に『アシェンデン』がある。同性愛者としても知られている[2]。
1874年1月25日にパリで出生する。両親ともにイギリス人で、父ロバート (1823年生まれ)は、パリのイギリス大使館勤務の顧問弁護士で、サマセットは4人兄弟の末子であった。父と母とは17歳離れており、母メアリは名家の出身で軍人の娘、非常な美人でパリ社交界でも花形であった。そのもとには作家メリメや、画家ドレも訪れたという。
1882年に母メアリが肺結核で、1884年に父ロビンが癌で没し、一家はバラバラとなる。モームはイングランド南東部ケント州のウィスタブルで、牧師をしていた叔父ヘンリー・マクドナルドのもとに引き取られた。叔父とは不仲で、慣れない田舎暮らしで孤独な生活を強いられた。13歳でカンタベリーのキングズ・スクールに入るが、英語をうまくしゃべれず、加えて生来の吃音のため迫害され、生涯のコンプレックスとなった。これらの経験は、自伝大作『人間の絆』の前半部分に描写されている。
14歳から15歳には、肺結核を病んで南仏で転地療養し、初めて気ままな青春の日々を送った。16歳のときドイツのハイデルベルク大学に遊学する。この間、多くの人と接する法律家や牧師の仕事が不向きと悟り、作家を目指すようになるが、牧師を望む叔父と対立し、結局18歳の時に、ロンドンの聖トマス病院付属医学校に入学する。学業には打ち込まず、主に耽美派などの文学書を読みふけった。また貧民街に居住し、インターンで病院勤務したことで、赤裸々な人間の本質をよく知ることとなった。
一連の経験を生かし、1897年にフランス自然主義文学に学んだ処女作『ランペスのライザ』を出版、一定の評価を得るが、売れ行きは芳しくなかった。同時期に卒業し、医師の資格を得た。文学者となることを決め、その後も作品を発表し続けたが成果を得られず、試行錯誤を繰り返した(自身も納得できず、以下の一覧にわかるように、この時期の作品の多くを封印している)。
モームは生涯、度々長期旅行したが、作家として世に出るとまずスペイン・アンダルシア地方を旅行、1905年に印象旅行記『聖母の国』(The Land of the Blessed Virgin )を発表した。以後度々訪れ1920年に滞在記(Andalusia : sketches and impressions )を、1935-36年に歴史物語『ドン・フェルナンド』(Don Fernando )を出した。30歳辺りからパリに長期滞在し、イタリア各地やシチリアも多く訪れている。1902年頃から戯曲執筆を開始、『信義の人』『ドット夫人』『ジャック・ストロー』『スミス』などが上演され、劇作家として名をあげた。1912年より半生を振り返る意味での大作『人間の絆』の執筆を開始した。
1914年、第一次世界大戦が起こると、志願してベルギー戦線の赤十字野戦病院に勤務した。やがて諜報機関に転属、スイス・ジュネーヴに滞在し活動を行う。表向きは劇作家を続けた。1915年に大作『人間の絆』が出版されたが、戦時中だったため注目されなかった。だが同時期に書いた戯曲『おえら方』は、1917年にアメリカで上演されて大成功を収めた。この時期に結婚し、一人娘ライザが誕生した。
1916年、健康を損ない諜報活動を休止すると、アメリカへ渡り、さらにタヒチ島などの南太平洋の島々を訪れている。翌1917年にアメリカから大正期の日本、シベリアを経由し、ペトログラードへと向かった。ロシア革命の渦中のペトログラートでは、MI6の諜報員としてケレンスキーと接触し、資金援助した。ドイツとの単独講和阻止のために送り込まれたのであったが、単独講和を唱えるボリシェビキが戦争継続派のケレンスキー臨時政府を倒し、失敗に終わった。
激務でもあり、肺を悪化させ帰国し、スコットランドのサナトリウムで療養した。この時期に画家ゴーギャンの生涯をもとに『月と六ペンス』の構想を練り著述を始める。1919年に出版されアメリカでベストセラーとなり、『人間の絆』も再評価され英語圏作家として世界的名声を得た。
1930年代末の第二次世界大戦勃発まで『木の葉のそよぎ』『カジュアリーナ・トリー』をはじめとする太平洋を舞台にした短編集、当時の文豪ハーディをモデルとしたことで物議を醸した『お菓子とビール』、中年になった舞台女優の恋を描いた『劇場』などの長編や、「おえら方」「ひとめぐり」などの戯曲を発表し、旺盛な創作活動を行った。なおこの時期、執筆料の最も高い作家といわれた。
1920年代は、取材も兼ね世界各国に船旅を続け、ニューヨークをはじめアメリカ各地・南太平洋へ、後に中国大陸、マレー半島、インドシナ半島を訪れ、主に短編作品に結実している。1926年にはフェラ岬[3](モナコやニースに近い超高級住宅地)に、本拠となる大邸宅を購入した。1927年に夫人シリー[4]と離婚した。以上の出来事をはさみつつ、キプロスほか地中海各地、北アフリカ、西インド諸島などにも長期旅行し、南海旅行記(My South Sea Island )や、1930年に東南アジア地域の旅行記『一等室の紳士』(The Gentleman in the Parlour )を出している。
シンガポールに建つラッフルズ・ホテルを「ラッフルズ、その名は東洋の神秘に彩られている」と絶賛し、長期滞在した。シンガポールMRTのサマセット駅はモームの名から採られている。他にタイ・バンコクのザ・オリエンタル・バンコクを高く評価した。長期滞在もしており、現在同ホテルにはモームの名を冠したスイートルームがある。
1933年に『シェピー』を機に戯曲創作を終了する。1935年に自作評論を兼ねた自伝『要約すると』を出版、1936年に娘ライザがロンドンで結婚し、家を贈った。1937年から翌年にかけインド各地を旅行した。
第二次世界大戦勃発前後は、イギリス当局からの依頼でフランスでの情報宣伝活動を行うが、1940年6月のパリ陥落により、邸宅を撤収しロンドンへ亡命、翌年に体験手記『極めて個人的な話』を公刊した。10月にリスボン経由でニューヨークへ向かい、大戦終結までアメリカ各地に在住する。戦争中に大作『剃刀の刃』を刊行、多大な反響を呼び、1946年に映画化された。
大戦中にリヴィエラの邸宅は、枢軸軍・連合軍双方の軍に占拠され、激しく傷んだが、改修して1946年より再度居住し、同年チェーザレ・ボルジアとニッコロ・マキャヴェッリとの政治闘争を描いた『昔も今も』を発表した。1948年刊の『カタリーナ』を最後に小説の筆を絶った。その後は『世界の十大小説』『人生と文学』などの評論・エッセイを発表し、1958年に評論集『作家の立場から』をもって、約60年におよぶ執筆生活を終了宣言したが、1962年に短い回想記『Looking Back』を公表している。
1950年にモロッコを、1953年にギリシア、トルコを、1956年にエジプト、他にヨーロッパ各地を旅行訪問した。1954年に戴冠まもないエリザベス2世に謁見し、名誉勲位を叙勲した。
1959年にアジア各地を客船で旅行し、11月から12月に訪日[5]し約1か月間滞在、横浜到着の客船上では吉田健一と面会、主に帝国ホテルに泊まり、日本橋丸善本店での「モーム展」開会式に出席、関西旅行をはさみ(主に田中睦夫が同行案内)、訳者の英文学者らと交流した。帰路はサイゴンを経てバンコクに長期滞在している。
1961年を文学勲章位(the Order of the Companion of Literature )を受章。1962年に所有していた絵画多数をサザビーズ・オークションで売却し、同時に解説を付したコレクション画集『自らの楽しみのためだけに』(Purely For My Pleasure )を、1963年に序文などを収録した『Selected Prefaces and Introductions 』を公刊した。
最晩年は高齢による認知症により、親族と被害妄想などのトラブルを起こした。1965年12月暮れに長期入院していたニースのアングロ・アメリカン病院から、自身の希望でリヴィエラの邸宅へ戻り、間もなく没した。没年91歳だった。
モームの作品は平明な文体と巧妙な筋書きを本分としている。モームは面白い作品こそが自らの文学であるといい、ゆえに通俗作家と評されてきた。モームは小説の真髄は物語性にあると確信し、ストーリーテリングの妙をもって面白い作品を書き続けたが、作品の中にはシニカルな人間観がある。
幼少時に母メアリが42歳の若さで亡くなっており、この母への思慕は相当なもので『人間の絆』の冒頭部でも描かれている。またモームは吃音に苦しみ、ますます孤独感を強めていった。こういった境遇の後に、医学生時代に暮らした貧民街に住む人々と交わったことは、モームに人間の奥底をのぞかせた。訳者中野好夫[6]は、来日した晩年のモームと面談、その作品について「通俗というラッキョウの皮をむいていくと、最後にはなにもなくなるのではなく、人間存在の不可解性、矛盾の塊という人間本質の問題にぶつかる」と評している[7]。その姿勢は、『人間の絆』において「ペルシャ絨毯の哲学」として提出される、人生は無意味で無目的という人生観に現れている。人生を客観的に描いてきたモームは、自伝著作『要約すると』で「自分は批評家たちから、20代では冷酷(brutal)、30代では軽薄(flippant)、40代では冷笑的(cynical)、50代では達者(competent)と言われ、現在60代では浅薄(superficial)と評されている」と書いている。
その文体は非常に平明であり、ヴォルテールやスコットに学んだものでもある。作品(特に 要約すると Summing up )は、戦後日本の英語教育で入試問題、テキストとして広く用いられた。
没後に再刊された小説作品(日本独自の版も含む)
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