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アサヒビールが製造、販売しているビール ウィキペディアから
アサヒスーパードライは、アサヒビールが製造、販売しているビール。1987年3月17日に販売が開始された[4]。スタイルはドライビール[1][2]。アサヒスーパードライの登場で、日本のビール市場にドライビールというジャンルが定着した[5]。また、日本のビール業界で発生したドライ戦争の発端(引き金)となったビールである。
開発当時に進行していた日本の食生活の変化に対応したビールとして開発された[6][7]。同時代の日本で販売されていたビールに比べ、苦味を抑え、甘さも少なくしたビールである[8]。甘さを少なくしたことでそれまで主流であったアルコール度数4.5%と比べて0.5%高い5.0%となっている[8][9][注 3]。また、苦くてコクがあるビールよりも、キレのあるビールを目指して開発された[9][10]。使用する麦芽をぎりぎりまで減らし(約70%)[注 4]、副原料(スターチ)の比率を高めることですっきりした味を実現[11]。アサヒビールはこの味を「ドライ」という言葉で表現した[10][注 5]。また、アサヒスーパードライは、アサヒビールのもつそれまでの経験に頼らず、ゼロから開発されたビールであった[12]。以上は、概ねアサヒビールからの情報発信に基づいた成書・記事による。
発売当初から2013年12月時点において、基本的な味・パッケージの変更は一切行っていない[13]。ただし、細部の小変更としてメインラベルは1989年1月に「SUPER "DRY"」の上部と「生」の周囲の英文表記を現在のものに変更し、1992年4月に「生」の下の表記を現在の「スーパードライ 生ビール(非熱処理)」に変更し、その際に缶の背景を無地から薄い横縞が入るように変更している[14]。また、瓶のラベル外周部、ネックラベルや裏ラベル、缶のラベル上部や側面の表記についても数年ごとに変更され、2012年2月頃には缶の右下に「お酒」マークが入っている。なおスリムボトル缶は、他の製品とは異なるデザインを採用し、1年毎にデザインをリニューアルしている。2014年2月には製法の年次改良が実施され、「生」の上に「洗練されたクリアな味、辛口。」と表記されるようになった。2019年4月(令和元年)にも製法の改良が実施され、ラベルの意匠が若干変更され、ラベル内に「ザ・ジャパンブランド」の表記が追加されたほか、ラベル最上部の「“KARAKUCHI”」から「KARA 辛口 KUCHI」に表記を変更した。
ビール商品としては麦芽の使用率が低いため、日本で低税率系発泡酒が再度展開され始めた1990年代中盤頃の発泡酒商品の味に類似する面があり[11]、自社製品同士の競合が懸念され[15]、それが影響してアサヒビールは発泡酒市場への参入を躊躇したり難色を示したとされる[11][15]。
なおアサヒビールは、沖縄県のオリオンビールを実質的に傘下に置いており、県内・奄美消費分の350mLと500mLの缶製品並びに10Lと20Lの樽製品は同社の名護工場で作り供給している[3]。
日本では、景気浮揚期には新しいものを受け入れる消費者行動が顕著となり、大型のヒット商品が誕生する傾向にある[5]。また、それは新しいライフスタイルを形成していく[5]。アサヒスーパードライは景気浮揚期に販売されたことがヒットに繋がった[5][注 6]。1987年は、団塊の世代が30代後半~40代前半に踏み入れた時節であった。
スーパードライは容器のバリエーションについても業界一を誇る。他社の撤退した大型容器(ミニ樽や1L缶)も展開されている。派生商品以外の中身はどの容器でも基本的に共通であるが、容器・ラベル・パッケージの限定デザイン、出荷時期や提供方法の違いによる限定バリエーションもある。
スーパードライは、2013年12月下旬(Cロット)製造分より初の年次改良を行い、アサヒビール独自の酵母管理技術「S-3(Super Screening System)」を導入することにより、厳選された優良な酵母は発酵力に優れ、泡を分解する酵素の溶出量が少なくなり、辛口のうまさはそのままに、キレと泡のきめ細かさをそれぞれ1割向上させることを実現した[16]。
2014年12月下旬(Cロット)製造分には厳選優良ドライ酵母の活性度を高めるクオリティアップを行い、新仕込み技術により、時間経過による味の変化を抑制し飲みごたえとキレがそれぞれ1割向上した[17]。
2018年4月上旬(Aロット)製造分には脂質酸化物を低減するクオリティアップが行われ、泡持ちとキレ味がさらに向上した。
2018年11月中旬(Zロット)製造分には品質基準を高めるクオリティアップが行われ、中長期のブランドテーマをザ・ジャパンブランドと設定するなどの印象的なデザインとなった。
2021年4月6日より缶のフタがフルオープンする生ジョッキ缶をコンビニエンスストアで先行発売(その他業態は20日発売)[18]。飲料でのフルオープン缶の採用は日本初となる[18]。
2022年2月中旬(Zロット)以降の出荷分より1987年2月の発売開始以来、初めて原料のレシピの変更を伴う全面改良が行われた。レイトホッピング製法を採用し、キレのよさを維持しながら飲みごたえが向上したのに合わせ、シンプルで洗練されたデザイン缶となった[19](例・30年ぶりに缶の背景から横縞が消え、ラベルから麦のイラストとザ・ジャパンブランドの文字、お酒マークの左側の内容量の表示が消える)。
当時の日本のビール業界では、サントリー以外の大手ビールメーカーは、ビール純粋令があったドイツから技術を学んではじまったこともあり、味わいが重厚なビールばかりであった[7][注 12]。この時期まではビールに関して、世の中の人からは「ビールは苦く重い」、ビール業界では目隠しテスト(ブラインドテスト)の結果から「客はビールの味がわからない」という考えが常識化していた[20][54][55]。アサヒスーパードライが製造開始される1987年前後の日本は食中酒としてのアルコール飲料を探していた時代といえた[56]。
アサヒビールは1980年代前半から中盤にかけて低迷していたが、社長に村井勉が就任してからさまざまな改革を行っていた[57]。1984年夏から1985年夏にかけて[注 13]、アサヒビール[注 14]は東京と大阪でそれぞれ5000人を対象に味覚・嗜好調査を実施[7][20][54][55]。これで得られたデータや前述のビールに関する常識から推考したり発想を変えて「嗜好は変化する」「客は味が分かる」と仮説を立てて調査・分析すると下記の事柄が浮き彫りになってきた[20][55]。
各種の調査・研究・分析結果を踏まえ、将来に渡っても、油脂の多い食事と合うさらっとしたビールが求められていると、アサヒビール技術開発部長は分析した[7]。
これらの結果から、消費者はビールに「軽快で飲みやすい」「味わい」「爽快感」を求めていることが判明[7][58][54]。この傾向は20代、30代の消費者に顕著であった[7]。これにマッチする味は辛口という仮説が生まれ[20]、新ビールのコンセプトは「辛口・生ビール」とした[54]。
1986年3月、コードネーム「FX」として開発プロジェクト開始[49][注 11]。苦味を抑え、甘さも少なくしたビールを目指した[8]。開発の最初はレシピ作成からで、コンセプトに合う酵母を同社の酵母バンクから探した結果、発酵能力がズバ抜けて高く独特の香味特性を備え、コンセプトに適合していた「アサヒ318号酵母」に決定[54]。次に原材料の種類・使用比率や発酵条件など様々な条件や組み合わせを細かく設定しながら試作して、コンセプトを満たす必要条件を決め込んでいった[54]。アルコール度数は当時の一般的なビールの度数4.5%に対し、5%と高めにしてスッキリとした味わいを出した[55]。出来上がった数々の試作品と共に様々な和食・洋食・中華料理・つまみを用意して、実際の飲食シーンに近い状況で試飲を多数繰り返した結果、コンセプトに合致する味に到達した[54]。3ヶ月後の同年6月、試作品が完成し、当時の社長である樋口廣太郎など複数の役員を対象に試飲を実施し、高評価を得る[9]。商品化の最終段階では、前年に発売した新アサヒ生ビール (コクキレビール) が好調であったため、自社製品である新アサヒ生ビールとの競合を懸念する声が社内から挙がったが、樋口の判断で1987年3月17日に名称「アサヒスーパードライ」として地域限定で販売開始[9]。販売開始年には年間100万箱を目標としていた[9]。
『スーパードライ』のネーミングに用いられた「スーパー」は、根拠も無く商品を優れていることを誇示し、優良誤認のネーミングで「ビールの表示に関する公正競争規約」に違反していた。アサヒも当初から違反を認識していた。そこで、銀行から派遣されていた当時の社長(樋口)が、大蔵省から天下っていた専務(竹山勇治)に大蔵省への工作を命じた。大手ビール会社の業界団体であるビール酒造組合が大蔵省へ、公正取引委員会の裁定を仰ぐことを事前に相談に行った。すると、大蔵省はビール酒造組合に対して、事を荒立てずに更に話し合うようにと指導した。アサヒビールの工作が功を奏し、『スーパードライ』は使われ続け、後にアサヒは、「スーパーイースト」も発売した。
『スーパードライ』のヒットを受け、この状態に歯止めをかけるべく競合3社も追随して、翌1988年1月にドライビールの発売概要を発表。これに対し、アサヒは1月に知的所有権侵害の問題として「名称・ラベルが『スーパードライ』に似すぎており消費者に誤解を与える」という抗議文を内容証明でキリンとサッポロビール(以下「サッポロ」)に送付するなど、ドライビールの名称について議論(ドライ論争)が行われたが、競合各社が名称変更しアサヒ側が譲歩したことで同月中に収束した。この論争が加熱して新聞などで報じられたことで、ドライビールに関する消費者の認知度が高まった。2月以降、各社からドライビールが発売された。他社のドライビール発売が『スーパードライ』新発売から約1年遅れた理由として、ビール新商品の開発・試作・生産には時間が掛かることや、1980年代において主力新商品の発売は本格シーズン到来前の春が恒例であったことが挙げられている。アサヒ以外の3社の動向は次の通りだった。
各社が発売したドライビールは想定以上の需要が押し寄せ2月下旬には品不足状態となったが、アサヒは前年から需要拡大の販売計画を立て供給力に余裕があったことから、他社の潜在需要も在庫があった『スーパードライ』に流れた。さらにアサヒは生産能力の向上に努め、『スーパードライ』に傾斜した生産体制をとり、他社も独走体制の阻止を図るためにドライビールの生産増強や販促・宣伝活動に注力した。この状態をマスコミは「ドライ戦争」と表現して盛んに用いた(前述)。
ビール業界の間では、前述のように先々を見据えた展開を行ったアサヒがドライ戦争の勝者となると序盤戦から予想されていた。同年6月27日、アサヒは新聞各紙において『スーパードライ』の広告掲載を行い、「この味が、ビールの流れを変えた。」の表現が事実上の“ドライ戦争の勝利宣言”と捉えられて大きな反響を呼んだ。
同年夏の需要期にはアサヒを含めた各社ドライビールの品薄状態が目立つようになっていたが、夏商戦も引き続きアサヒが有利に展開した。その結果が明らかになり始めた8月終盤から新聞において「ドライ人気は一時的」「ドライ人気に秋風!?」「ドライにかげり?」といった見出しが目立つようになり、競合他社はドライビールは一過性のブームと捉えていたことから、同年後半はドライ偏重戦略を改めて従来の主力商品に力を入れたり、新たな次期主力商品を模索し始めるなど、アサヒ以外の各社はドライビール戦争から戦線離脱した状態となった。
他社が発売したドライビールの売上で1988年は従来の新製品と比べると好調の部類に入り、1988年のドライビール市場は1億5000万ケースの規模となり全ビール市場における割合は前年の3%(アサヒのみ)から34%(全社合計)と急上昇した。一方でドライ以外の銘柄が売上低下する共食い現象も発生したり、前年に「ドライビール=スーパードライ」のイメージが消費者にて形成されていたことで、他社がドライビールを宣伝しても客は元祖の『スーパードライ』に流れる状況となっていた。
結果的に時代の新たな潮流を生むと確信してドライビールに取り組んだアサヒが圧倒的支持を受け、1988年の販売数量実績で7500万ケースを記録した『スーパードライ』の勝利でドライ戦争は終了した。この好影響を受け、同年のビール市場占有率でアサヒはサッポロを抜き2位に上昇した。
ドライ戦争は他にも影響を及ぼしており、亀田製菓の柿の種はビールに合うおつまみとして需要が拡大・定着するなどの要因で、同時期において売上は3倍弱の伸び率を記録した。
1996年6月、アサヒスーパードライはキリンビールのキリンラガービールを抜いて月間シェアNo.1の座につく[51]。当時の社長瀬戸雄三は7月1日の夕方、本店の社員を社員食堂に集め、このことを報告した[51]。このとき、瀬戸は社員の前で涙を流した[51]という。
1997年には年間シェアもNo.1となり[52]、1998年の年間シェアではキリンラガービールとキリン一番搾り生ビールのシェアを合計したよりも多くのシェアを獲得する[59]。
また新しい試みとしてJR貨物とタイアップして、アサヒビール輸送用に割り当てていた汎用20 ft級の30A形コンテナに、横長側の2面(2種類の内容)又は、4面全体(1種類の内容)の3種類内容パターンラッピングコンテナを投入し、絶大な宣伝効果を発揮していた。
2011年には1989年以来、23年連続で年間販売数量1億箱を突破した[50]。
エクストラコールドとはビールの提供方法・飲み方のひとつで、通常の樽生ビールの提供温度である4 - 8度程度に比べてさらに低い温度に設定した、「摂氏マイナス2度 - 2度で提供する樽生ビール」とアサヒでは定義している[20]。これは1998年にイギリスで若者のビール離れに対する対応策や新たな顧客獲得を目指して、ビールを摂氏2度で提供してスムースさをアピールした[20][53]。それ以降、ヨーロッパで導入が進んで普及し、現在では一般的な提供方法のひとつとなっており、他の地域ではアジアでも普及してきている[20][53]。
この提供方法をスーパードライでも新しい飲み方として提案し、安定して低温ポイントに設定可能な専用ディスペンサーを新開発して、「スーパードライ エクストラコールド」として2009年9月より一部で展開を始め、2010年3月より本格展開を開始した[20][21][22][53]。専用ディスペンサーが設置された飲食店にて提供可能で、アンテナショップの「エクストラコールドBAR」も期間限定で開設している[23]。「氷点下のスーパードライ」として、スーパードライを0度からマイナス2度と凍結寸前まで冷却して提供しており、通常のビールに比べ「苦みが感じにくくなり、ビール離れが進む若者・ビールが苦手な人・女性層に支持されている」傾向がある[22][23][26]。取り扱う飲食店も年々増加し、若い世代や女性など新たな顧客層の拡大に結びついている[23]。
2000年代後期にウイスキーを炭酸水で割ったハイボールがブームとなり、ウイスキー市場が活性化したことをヒントに、黒ビールのポジショニングがウイスキーに似ていると考察され「黒ビールも、飲みやすくする提案があれば新たな需要を生み出せるはず」との発想が同社から出てきた[31]。ターゲットは黒ビールのヘビーユーザーではなく、これまで黒ビールをあまり飲んでこなかった新規ユーザーとし、黒ビールに対して良いイメージを持っている半面、味については苦手意識を抱いている層の取り込みを目指し、従来の黒ビールのイメージとはかけ離れた、ゴクゴク飲めて食事との相性も良い味に仕上げた[31]。
2012年4月3日、「スーパードライ」ブランドとして初の派生商品となった黒ビールの「アサヒスーパードライ ドライブラック」を発売[30]。初年度売上目標は日本の黒ビール市場規模[注 15]の2倍に当たる200万箱(大瓶換算)が当初の目標であった[13][30]が、6月末までに累計170万箱を販売し、初年度売上目標を300万箱に上方修正している[32]。また、先に発売した缶2種が好評なため、飲食店向けに小瓶を2012年7月18日に、樽生を9月4日に発売し、7月19日より「アサヒスーパードライ エクストラコールドBAR」限定で『ドライブラック』の樽生ビール“氷点下のドライブラック”を先行販売[32]している。韓国においても、7月2日より350ml缶を販売開始している[60]。
1990年代後半以降、アサヒビールでは日本国外展開を積極的に進めており、その中でもスーパードライは主力ブランドに位置づけられている。
北米では1994年に提携先であるカナダ・モルソン社のバンクーバー工場でスーパードライの現地生産を開始したのを皮切りに本格的に販売を開始し、1998年に現地法人を設立した[61]。その後2020年10月より、従来は他の国とは一部異なっていた北米向けスーパードライのデザインをと統一するとともに、イタリアのペローニ社に移管されている[62]。
ヨーロッパでは、1999年にチェコのスタロップラーメン社(Staropramen Brewery)へ現地生産委託を開始して本格的に進出[63]。2005年からはイギリスでもシェパード・ニーム社(Shepherd Neame Brewery)の工場で現地生産を行っており、2009年にはイギリス国内での年間販売数量が30万ケースに達したほか、スーパードライの樽生を扱う飲食店もイギリス国内だけで500店舗を超えた[64]。また、シェパード・ニーム社製のスーパードライは、英国の国際ビール品評会“ブルーイング・インダストリー・インターナショナル・アワーズ2011”(Brewing Industry International Awards)の“樽詰ラガー部門”クラス2(アルコール度数4.8 - 6.9%)で金賞を受賞している[65]。ロシアでは2008年からバルチカ社(Baltika Breweries)と提携し現地生産を開始している[61]。2017年以降は、2016年にアサヒグループホールディングスに売却されたイタリアのペローニ社が欧州向けのスーパードライの製造を行っている。2017年9月末よりパドヴァ工場で瓶と樽生の製造を開始し、2018年1月より英国とイタリアで販売開始している。さらに2020年6月上旬よりローマ工場で缶と瓶の生産を開始し、欧州各国向けのスーパードライをペローニ製に全面切り替えしている[66][67]。
アジアでは、中国で1999年に青島ビールとの合弁企業である「深圳青島ビール朝日有限公司」にて現地生産を開始し、2004年に北京市の「北京ビール朝日有限公司(中国語: 北京啤酒朝日)」が操業を開始し、中国国内で2拠点体制を築いている。2009年には青島ビールの発行済み株式の約20%を取得し体制を強化した[68]。韓国には2000年に輸出開始し、2004年にロッテグループの酒類販売会社に出資して販売を本格化させ、2010年には最需要地のソウル特別市を南北2支店制にして営業活動の強化に努め同国輸入ビール市場2位となり、2011年はCM放送やイメージ戦略が好影響を及ぼし同国輸入ビール市場のシェアは28.3%で日本メーカー初の首位獲得に貢献した[69]。2012年7月2日より、ドライブラックについても日本以外では初めて発売している[60]東南アジアに対しては、2002年にタイのブンロートグループ(Boon Rawd Brewery)への現地生産・販売委託を始めている[70]。
オセアニアでは、従来は日本やタイからの輸入販売を行っていたが、2019年1月よりオーストラリアのアサヒプレミアムビバレッジズのラバトン工場でスーパードライ330ml瓶の製造を開始している[71]。
2022年8月にはシティ・フットボール・グループとパートナーシップを締結し、日本の横浜F・マリノスのみならず、英国のマンチェスター・シティFC、オーストラリアのメルボルン・シティFC、中国の四川九牛足球倶楽部のホームゲームで提供されるビールとなった[72]。
2023年、フランス各地で行われる、ラグビーユニオンの世界選手権である「ラグビーワールドカップ2023」において、アサヒスーパードライがアジアの酒造メーカーとして史上初となるワールドワイドパートナーに認定され[73]、大会オフィシャルビールとして、会場内の観客・応援団にふるまわれることになった。ただし、同国内においてはアルコール・タバコの広告が法律で禁じられている(エヴァン法)ため、姉妹品の「アサヒドライゼロ」(ヨーロッパにおいては「アサヒスーパードライ0.0%」の銘柄名で発売[74])を含め、場内の広告掲示は「辛口」「Aaah! 0.0% SUPER TRY」とカラーリングで間接的に連想させつつ、直接商品名を表示しない配慮を行っている[75]。
経済ニュース通信社・ブルームバーグの取材に答えた、アサヒグループホールディングス社長の勝木敦志は、「ブランド認知を高める絶好の機会」としており、通常のフランス国内の約1年分相当の売り上げがラグビーワールドカップ2023で超える可能性があると見越し、供給を切らさないように準備するという[76]。
2024年10月9日、ラグビーワールドカップのグローバルパートナーシップを2029年まで延長することを発表した。これにより、ラグビーワールドカップ2025女子イングランド大会、ラグビーワールドカップ2027男子オーストラリア大会、ラグビーワールドカップ2029女子オーストラリア大会の3大会で、アサヒスーパードライがオフィシャルビールとなる[77]。
アサヒスーパードライの登場で、日本のビール市場は拡大された[5]とも言われている。日本のビール市場は、アサヒスーパードライ発売前の1986年と1990年では32%も成長した[5][注 16]。
※2024年8月現在
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