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蜂須賀 重喜(はちすか しげよし)は、阿波国徳島藩の第10代藩主。号は公熙、南山、清風齋[1]。
蜂須賀重喜像 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 元文3年2月27日(1738年4月15日) |
死没 | 享和元年10月20日(1801年11月25日) |
改名 | 岩五郎(幼名)、佐竹義居(初名)、蜂須賀政胤、重喜 |
別名 | 大炊(通称)、公熙、南山、清風齋(号) |
墓所 |
徳島県徳島市下助任町の興源寺 徳島市の万年山墓所 |
官位 | 従四位下・侍従、阿波守、大炊頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重→家治 |
藩 | 阿波徳島藩主 |
氏族 | 佐竹氏→蜂須賀氏 |
父母 |
父:佐竹義道、母:内藤政森の娘 養父:蜂須賀至央 |
兄弟 | 佐竹義明、佐竹義敏、佐竹義忠、重喜、松平直道室 |
妻 |
正室:伝姫 側室:時、千枝ら |
子 | 治昭、喜翰、喜和、喜儀、允功、允迪、允澄、允穎、昭則、昭義、昭栄、儀子、幸子、中院通知正室、成姫、寿美姫、定姫、理姫、伊与姫ら |
元文3年(1738年)、出羽秋田新田藩の第2代藩主・佐竹義道の四男に生まれる。母は内藤政森の娘。幼名は岩五郎、初名は佐竹義居(さたけ よしすえ)。
宝暦4年(1754年)8月25日、阿波徳島藩第9代藩主・蜂須賀至央の末期養子として第10代藩主に就任する(至央は第8代藩主・蜂須賀宗鎮の実弟で、兄弟ともに讃岐高松藩松平家の一門松平大膳家からの養子である)。養子入りに際して諱を政胤(まさたね、「政」は藩祖・蜂須賀家政の1字を取ったもの)と改名する。この末期養子は、相次いで後継ぎが早世したために、家老の賀島出雲[2]の提案により決定した。同年9月15日、第9代将軍・徳川家重に御目見する。同年11月25日に元服して家重より偏諱を受けて重喜と改名、従四位下阿波守に叙任する。後に侍従に任官する。[5]
宝暦5年(1755年)4月15日、初めて領国に入部する許可を得る。留野留川の規制という法令を出し、家中の統制を図る。宝暦・明和期の藩政改革の萌芽といえる(中期藩政改革)。重喜が中心となって行なった改革の内容は、財政再建としての倹約令の施行と、藩体制の変革としての役席役高の制、若年寄の創設などであった。役席役高とは第8代将軍徳川吉宗(家重の父)の享保の改革で行なわれた足高の制を模範としているが、身分序列の崩壊を招いたことで、その性格は異なる。
明和6年(1769年)10月晦日、藩政宜しからずとして幕府より隠居を命じられ、長男・喜昭(のち治昭に改名)に家督を譲る。
隠居後は明和7年(1770年)5月、江戸小名木屋敷に移り、大炊頭を称す。安永2年(1773年)、療養のため国元へ帰り大谷別邸に住む[6]。天明8年(1788年)、かなりの贅沢三昧の生活を幕府に咎められ、江戸屋敷への蟄居を強要されそうになったので、同年8月、阿波の富田屋敷へ移り、江戸行きは免れた。
享和元年(1801年)10月20日、富田屋敷で卒去した。享年64。[8]
蜂須賀家の膨大な蔵書は、重喜以降に増加したと推定される[9]。数代にわたり蜂須賀家が収集した典籍は、阿波国文庫と呼ばれる[10]。
蜂須賀家では重喜以降、公家との婚姻が進む。これは、7代藩主蜂須賀宗英(寛保3年(1743年)没)の墓が京都の清浄華院にあり、墓参と称した京都入りができたためと言われている。
子供は16男14女。
なお、次男、四男、六男、十男、十三男、十四男、十六男およびその子孫は臣籍に下り、家老などに登用されて藩政に参画した。
重喜時代
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