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堀 親寚(ほり ちかしげ)は、江戸時代後期の外様大名、信濃飯田藩第10代藩主。伺い譜代として、幕閣に連なり、老中にまで登りつめた。身体強壮、目から鼻に抜けるような傑物で、天保の改革を主導した水野忠邦の右腕として「堀の金壺」「堀の八方睨み」と称された。
第7代藩主堀親長の五男として、1786年に江戸で生まれる。生母は親長の側室であった。第8代藩主親忠(親長の長男)と第9代藩主親民(親長の四男)が相次いで早世したため、1796年に、11歳で家督を相続した。17歳の時、従五位下・大和守に叙任されている。飯田藩きっての名君と言われ、文化6年(1809年)に起きた藩政改革反対一揆も無事に収めた。幕府では、伺い譜代として奏者番、寺社奉行、若年寄、老中などを歴任した。水野忠邦を補佐して天保の改革にあたり、天保14年(1843年)には7000石を加増された。しかし、弘化2年(1845年)の水野忠邦失脚に連座して老中職を御役御免となり、蟄居を命ぜられると同時に加増7000石、本地3000石、計1万石を減封され、1万7000石となっている。弘化3年(1846年)に次男(長男死去)の親義に家督を譲って隠居し、嘉永元年(1848年)に63歳で没した。
父母
正室
子女
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