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日本の元プロ野球選手 ウィキペディアから
藪 恵壹(やぶ けいいち、本名:藪 恵一〈読み同じ〉、1968年9月28日[1] - )は、三重県南牟婁郡御浜町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、解説者・評論家・YouTuber。
阪神競馬場トークイベントにて (2017年9月24日) | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 三重県南牟婁郡御浜町 |
生年月日 | 1968年9月28日(56歳) |
身長 体重 |
185 cm 98 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1993年 ドラフト1位(逆指名) |
初出場 |
NPB / 1994年4月13日 MLB / 2005年4月9日 |
最終出場 |
MLB / 2008年9月27日 NPB / 2010年9月4日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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投手として阪神タイガースでは1度のリーグ優勝に貢献。個人ではNPBで合計1個の主要表彰[注 1]を獲得している[2]。
愛称は「恵ちゃん」。
小学校時代、野球の試合中に右腕を故障したが、病院にも行かずプレーを続けた。その後何とか治癒したものの、その影響で雨が降ると痛みが出るのか、雨の日の登板では実力を出せないことが目立った。
高校は自宅から通学できることや東海地区よりも近畿地区の方がセンバツで甲子園出場の機会が多いと考えて、和歌山・新宮高へ進学[3]。2年先輩に山崎慎太郎がいたが、1年秋の大会後に部内の暴力事件が明るみに出て1年間の対外試合禁止となる[4] 。3年夏は県大会ベスト8で敗れ、県内に杉浦正則がいたこともあり、ほとんど注目されなかった。東京で数校のセレクションを受けたが実績もないため入学には至らず、都内で1年間の浪人生活を送るが志望校合格とはならなかった。野球を続けるために2浪は諦めて東京経済大学に進学し首都大学リーグに加盟している同校の硬式野球部では2部リーグながら通算36勝を挙げる[5]。登板しない試合では打者として出場し、首位打者争いをしたこともあった。この活躍で阪神を含む一部のスカウトからマークされることになった。
大学卒業後は朝日生命保険に入社、同社硬式野球部でプレーを続け、営業部員として勤務。在籍時の営業成績は全社の中でもトップクラスだったという。2年目には熊谷組の補強選手として都市対抗野球に出場し、準決勝で先発したが7回を投げて降板後にチームはサヨナラ負けする[6]。
複数球団から声がかかっていたが、無名の大学時代からマークしてくれていた阪神タイガースを逆指名し、ドラフト1位で入団。背番号にエースナンバーの18を与えられ、入団を機に、姓名判断で登録名を「恵市」とした。東京経済大出身のプロ野球選手は藪が初となる。
1994年、新人ながら一軍の先発ローテーションに定着し、チームトップの9勝(9敗)を挙げてセントラル・リーグ(セ・リーグ)の新人王を獲得。前半戦は6連勝し、オールスターゲームにも、セ・リーグ投手部門のファン投票1位で出場した。公式戦デビューから7試合目に先発で登板した5月24日の対読売ジャイアンツ戦(阪神甲子園球場)では、阪神の日本人投手として初めて「対巨人戦初登板初完封勝利」する。シーズン全体では、先発で登板した25試合のうち17試合でクオリティ・スタート、8試合で完投する[7]。
1995年、登録名を「藪 恵壹」に変更。前年に続き規定投球回に到達し、リーグ6位の防御率2.98、先発で7勝を挙げたものの、リーグ最多の13敗。
1996年、プロ入り後初めての開幕投手を務め、セ・リーグ最多の30試合の先発登板を記録。自身初の2桁勝利となる11勝を挙げる一方で、被安打数はリーグ最多で、チームメイトの湯舟敏郎と共に2年連続で最多敗戦投手となる。
1997年、チームトップタイの10勝を挙げ、2年連続の2桁勝利。
1998年、2年ぶりに開幕投手を務め、シーズン自己最多タイ11勝で3年連続の2桁勝利で、10敗ながらプロ入り後初めてシーズン勝ち越しとなる。
1999年は6勝16敗で自身3度目のリーグ最多敗戦投手となる(16敗は自己ワーストでこの数字を超える敗戦数を記録した投手は2022年時点でNPBにはいない)。
2000年、入団1年目から7年連続でセ・リーグの最終規定投球回に到達したが、6勝10敗で6年連続2桁敗戦。
2001年、右肩を故障した影響で、一軍公式戦17試合(先発8試合)に登板したが、プロ入り後初の未勝利。
2002年、NPBの投手としては珍しい1桁の背番号4に変更。春季キャンプの前に電話で出演した『週刊トラトラタイガース』(読売テレビ)で、かつて背番号4を着用していた川藤幸三から、変更を勧められたことによる。4月2日の対横浜戦では663日ぶりの勝利を完投で飾り、開幕から好調だったが、故障で途中離脱した影響もあり規定投球回に達しなかったものの、4年振りに10勝を記録し阪神入団後初めてシーズンの貯金を2つ以上にした。
2003年、開幕からローテーション入りしたものの好不調の波が激しく、7月に中継ぎに降格。後半は中継ぎと谷間の先発を担い、8勝3敗という成績(貯金は自己最多を更新)で、チームの18年振りセ・リーグ優勝に貢献。しかし、福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは登板機会がなかった。
2004年、前年に続き好不調の波が激しく、防御率は1点近く改善したが6勝9敗と負け越す。シーズン中に海外FA権を取得。シーズン終了後には、MLBへの挑戦を視野に、FA権の行使を宣言した。メジャー挑戦後から楽天での現役引退までは中継ぎで起用されたため、先発としてのキャリアはこの年が最後となった。
2005年1月、オークランド・アスレチックスへの入団が決定。野球を始めた時に与えられた背番号13を再び着用した。逆指名でNPB球団へ入った選手が、FA権を行使したうえで他球団へ移籍した事例は、NPB他球団への移籍を含めても藪が初めてである。この年にMLB公式戦デビューし、中継ぎで40試合に登板し、シーズン通算で4勝。しかし、契約オプションの2年目保有権をチームが行使しなかったため、シーズン終了後に自由契約となった。
2006年はコロラド・ロッキーズとマイナー契約したが3月31日付で解雇となる。その後6月29日にリーガ・メヒカーナ・デル・パシフィコのティフアナ・ポトロスと契約した。
2007年はどこの球団にも所属せず、1年間を自主トレーニングに費やした。この年は練習相手もいないのでネットや壁にボールを投げて投球練習をすることもあったという。アマチュア時代も設備など野球環境が恵まれていなかったが、さすがに練習相手がいないのは堪えたという。
2008年、メジャー復帰を目指し、サンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約。キャンプ・オープン戦での背番号は72。同年3月30日に開幕メジャー枠に入ったことが球団から発表された。背番号は22[8]。
4月14日の対アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦で3年ぶりの勝利を記録した。39歳と199日での白星は、当時の日本人メジャーリーガーの最年長記録となった[注 2]。また同年の5月30日の対サンディエゴ・パドレス戦の8回、3対3の同点で無死一・二塁の場面でリリーフ登板し、打者ケビン・クーズマノフを1球でトリプルプレーに仕留める、という珍しい記録も作った[9]。トリプルプレーを記録した日本人投手は1996年の野茂英雄以来2人目のことだった。
2009年はメジャー契約でキャンプに臨むもオープン戦は不調で、3月5日にマイナー降格。メジャー40人枠を空けるための措置として3月20日(日本時間21日)にジャイアンツから戦力外通告を受け、翌21日に傘下のAAA級フレズノと再契約したが、7月11日に解雇された[10]。
2010年はMLB球団からのオファーを待ちながら、アメリカ国内でトレーニングを続けていたが、7月26日から2日間にわたって千葉ロッテマリーンズの入団テストを受験。ブルペンでの投球で最速146km/hを記録したことから、テストに立ち会った一軍監督の西村徳文は獲得に前向きな姿勢を示していた。しかし、(当時)42歳という年齢面がネックになったため、結局は不合格となった[11]。
2010年7月29日から2日間にわたって今度は東北楽天ゴールデンイーグルスの入団テストを受けたところ、NPBにおけるシーズン中の支配下選手登録最終日に当たる同月31日に、球団から獲得を発表された。同年シーズン終了までの契約で、背番号は64[12]。ロッテの入団テストを受けたことを知った一軍監督のマーティー・ブラウンが、「一軍の試合で6回を任せられそうな救援投手が欲しい」と球団幹部に掛け合った末の緊急獲得であった[11]。
入団後、8月10日の対埼玉西武ライオンズ戦(クリネックススタジアム宮城)7回表にNPB復帰後初の一軍戦登板を果たした。しかし、1アウトを取っただけで4点を失って降板。その後は10試合で10回1/2投げて自責点2点と中継ぎとして好投していたが、9月16日に札幌ドームの練習中のランニングで、左足ふくらはぎの肉離れを起こしてしまい戦線離脱、その後は復帰することなくシーズン終了後に戦力外通告を受けた[13]。戦力外直後は他球団での現役続行も視野に入れていたが、12月7日に引退を表明。表明の場に選んだのは、当日にオークランドで開幕したばかりのMLBウィンターミーティングで、MLB時代に世話になった人々への挨拶を兼ねて「志半ばですが、ランディング(着陸)します。まだ(野球を)やれるが、もう42歳なので、誘ってくれる球団はないでしょう」と述べていた[11]。
引退後は古巣・阪神に復帰し、二軍投手コーチ(2011年, 2013年[14])・一軍投手コーチ(2012年)を務めた。
2010年12月17日に阪神との間で二軍投手コーチとしての契約を締結し、楽天からの戦力外通告直後からの就任要請を受ける格好で、現役時代以来7シーズン振りに阪神へ復帰。背番号は、岡田彰布の監督退任に伴う退団以降、空番になっていた80に決まった。
コーチ就任のオファーを受けると、メジャーや他球団での豊富な経験を踏まえ、最新のトレーニング法や練習に関し、パワーポイントで資料を作成した上で、球団首脳とのミーティングに臨み、プレゼンテーションを行った[15]。
退団後は神戸市東灘区のスポーツクラブ「Japan Athlete Club STAY COOL」の講師へ就任し[16]、2014年からは毎日放送・GAORA解説者、2015年からは読売テレビ阪神戦中継(ゲスト)・J SPORTS「メジャーリーグ中継」解説者も務めている。
2017年からは夕刊フジ、2023年からはサンケイスポーツの評論家としても活動するほか、『週刊ベースボール』の名物企画「連続写真で見るプロのテクニック」で投手を取り上げる場合には、投球フォームの解説を担当。
2018年12月には、解説者としての活動と並行しながら、学生野球資格の回復に向けて講習会を受講[17]。
2019年2月5日付で日本学生野球協会から資格回復の適性を認定されたため、同協会に加盟する大学・高校の硬式野球部での指導も可能になった[18]。藪自身は、「(同協会加盟の高校の硬式野球部に所属する現役野手の)息子に(日本のプロ野球でのプレーを経験した選手では学生野球資格回復者にしか認められていない)アドバイスを送れるようにしたかった」とのこと[17] で、同年シーズン以降も解説者としての活動を続けている。
同年3月22日には、アスレチックスのOBを代表して、岩村明憲と共にMLB開幕カード第2戦・アスレチックス-マリナーズ戦(東京D)の始球式へ登場。岩村とバッテリーを組んだうえで、マリナーズOBのケン・グリフィー・ジュニアを相手にピッチングを披露した[19]。その一方で、同年12月4日〜10日にはタンザニアで野球を指導している[20]。
インコースを苦手としていた清原和博に対して徹底した内角攻めを行い、多くの死球を与えたことで知られる。1997年8月20日の対巨人戦(東京ドーム)でシーズン3個目の死球を与え、清原が憤慨しながら指を3本突き出し 「3回目やぞ」と怒声をあげた。これに対し藪は「年俸3億ってこと?」「内角は弱点だし、清原さんの技術があるならよけられるでしょ」と挑発し、ますます清原を怒らせてしまったという[21]。翌年の1998年7月10日の対巨人戦(東京ドーム)においても、シュートが内角高めに抜け、清原の右手親指をかすめ死球を与えてしまう。怒りで顔を紅潮させた清原はマウンドに歩み寄り藪を睨みつけ、睨み合いは約2分間も続いた[22]。通算では6つの死球を与え、対戦成績50打数8安打0本塁打と、清原を手玉に取った[21]。
藪は引退後にこの「対清原」ともいえる執拗な内角攻めについて真相を明かしており、巨人移籍当時の清原は1995年の右肩脱臼の影響で内角を捌き切ることが出来ない状態だったため、阪神のスコアラーも「4、5月はインコースを攻めてくれ。芯に当たっても全部レフトの方にファウルになるから」と投手陣に指示、清原もそれに臆するタイプではなかったため死球になるケースが増えたと解説している[23]。
引退後の2012年11月18日に甲子園球場で行われた巨人対阪神のOB戦では、清原がキャッチャーの矢野燿大に「当時みたいに当ててくれ。」と頼み、矢野はそれを藪に伝えに行ったが、藪は「当てるのは嫌だ。背中の後ろを通すので勘弁して。」と断った。藪が打席の清原に対し背中の後ろを通るようなとんでもないボールを投げ、清原がマウンドに詰め寄るという当時の再現パフォーマンスをし、球場を大いに沸かせた[24]。
年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1994 | 阪神 | 26 | 25 | 8 | 1 | 0 | 9 | 9 | 0 | -- | .500 | 743 | 181.1 | 174 | 12 | 42 | 3 | 2 | 110 | 2 | 1 | 67 | 64 | 3.18 | 1.19 |
1995 | 27 | 27 | 7 | 2 | 2 | 7 | 13 | 0 | -- | .350 | 813 | 196.0 | 185 | 19 | 50 | 1 | 10 | 118 | 4 | 1 | 73 | 65 | 2.98 | 1.20 | |
1996 | 30 | 30 | 6 | 1 | 0 | 11 | 14 | 0 | -- | .440 | 834 | 195.1 | 204 | 14 | 51 | 1 | 11 | 145 | 1 | 1 | 97 | 87 | 4.01 | 1.31 | |
1997 | 29 | 26 | 4 | 1 | 0 | 10 | 12 | 0 | -- | .455 | 768 | 183.0 | 172 | 23 | 62 | 6 | 10 | 111 | 9 | 0 | 79 | 73 | 3.59 | 1.28 | |
1998 | 24 | 24 | 3 | 2 | 1 | 11 | 10 | 0 | -- | .524 | 692 | 164.0 | 159 | 11 | 51 | 0 | 8 | 90 | 4 | 2 | 74 | 64 | 3.51 | 1.28 | |
1999 | 28 | 27 | 4 | 2 | 1 | 6 | 16 | 0 | -- | .273 | 737 | 173.1 | 175 | 16 | 57 | 8 | 11 | 95 | 4 | 0 | 80 | 76 | 3.95 | 1.34 | |
2000 | 25 | 24 | 1 | 1 | 0 | 6 | 10 | 0 | -- | .375 | 638 | 151.0 | 162 | 19 | 30 | 4 | 4 | 95 | 7 | 0 | 76 | 70 | 4.17 | 1.27 | |
2001 | 17 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | -- | .000 | 250 | 55.0 | 55 | 2 | 33 | 4 | 5 | 26 | 5 | 0 | 32 | 25 | 4.09 | 1.60 | |
2002 | 20 | 20 | 5 | 2 | 2 | 10 | 6 | 0 | -- | .625 | 532 | 131.2 | 118 | 14 | 30 | 1 | 6 | 97 | 3 | 0 | 48 | 46 | 3.14 | 1.12 | |
2003 | 23 | 15 | 0 | 0 | 0 | 8 | 3 | 0 | -- | .727 | 405 | 97.2 | 97 | 13 | 27 | 0 | 2 | 67 | 4 | 0 | 50 | 43 | 3.96 | 1.27 | |
2004 | 19 | 19 | 1 | 1 | 0 | 6 | 9 | 0 | -- | .400 | 480 | 116.1 | 108 | 8 | 36 | 0 | 6 | 75 | 5 | 0 | 44 | 39 | 3.02 | 1.24 | |
2005 | OAK | 40 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 1 | 1 | 1.000 | 262 | 58.0 | 64 | 6 | 26 | 3 | 8 | 44 | 2 | 0 | 34 | 29 | 4.50 | 1.55 |
2008 | SF | 60 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 6 | 0 | 9 | .333 | 302 | 68.0 | 63 | 3 | 32 | 4 | 8 | 48 | 5 | 1 | 33 | 27 | 3.57 | 1.40 |
2010 | 楽天 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | ---- | 48 | 11.0 | 9 | 2 | 6 | 0 | 2 | 6 | 0 | 0 | 6 | 6 | 4.91 | 1.36 |
NPB:12年 | 279 | 245 | 39 | 13 | 6 | 84 | 106 | 0 | 2 | .442 | 6940 | 1655.2 | 1618 | 153 | 475 | 28 | 77 | 1035 | 48 | 5 | 726 | 658 | 3.58 | 1.26 | |
MLB:2年 | 100 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 6 | 1 | 10 | .538 | 564 | 126.0 | 127 | 9 | 58 | 7 | 16 | 92 | 7 | 1 | 67 | 56 | 4.00 | 1.47 |
野球解説者としてのレギュラー番組のみ記載。
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