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日本の政治家 ウィキペディアから
益谷 秀次(ますたに しゅうじ、1888年1月17日 - 1973年8月18日)は、日本の政治家。
益谷 秀次 ますたに しゅうじ | |
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益谷秀次 | |
生年月日 | 1888年1月17日 |
出生地 | 日本 石川県鳳至郡宇出津町(現・鳳珠郡能登町) |
没年月日 | 1973年8月18日(85歳没) |
出身校 | 京都帝国大学法科大学卒業 |
前職 |
浦和地方裁判所判事 弁護士 |
所属政党 |
(立憲政友会→) (政友本党→) (立憲政友会→) (無所属→) (日本自由党→) (民主自由党→) (自由党→) 自由民主党 |
称号 | 勲一等旭日大綬章、従二位 |
第46代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1955年3月18日 - 1958年4月25日 |
元首 | 昭和天皇 |
内閣 | 第2次岸改造内閣 |
在任期間 | 1959年6月18日 - 1960年7月19日 |
第2-3代 建設大臣 | |
内閣 |
第2次吉田内閣 第3次吉田内閣 |
在任期間 | 1948年10月19日 - 1950年5月6日 |
選挙区 |
(石川県第5区→) (石川県第2区→) (石川県全県区→) 石川県第2区 |
当選回数 | 14回 |
在任期間 |
1920年5月10日 - 1924年1月31日 1932年2月20日 - 1937年3月21日 1946年4月10日 - 1972年11月13日 |
その他の職歴 | |
第7代 自由民主党幹事長 (総裁: 池田勇人) (1960年7月 - 1961年7月) | |
第5代 自由民主党総務会長 (総裁:岸信介) (1959年 - 1959年) |
1888年1月17日、石川県鳳至郡宇出津町(現在の鳳珠郡能登町)に生まれる。旧制海城中学校から神田神保町にあった大成中学に4年編入後、専検から東京外国語学校(現東京外国語大学)仏語科、京都帝国大学法科大学仏法科を卒業。浦和地方裁判所判事から、弁護士となった。
1920年、第14回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で石川5区[注釈 1]から立候補し初当選[1]。1924年に床次竹二郎一派が政友会を脱党し、政友本党を発足したあたりから政友会で鳩山一郎派に所属していた。戦後の1945年、鳩山一郎を総裁とする日本自由党の結成に参加する。しかし、鳩山が公職追放されたため、吉田茂首相兼外相の下、外務政務次官となり、吉田の知遇を得る。
以後、第2次吉田内閣の建設大臣、自由党総務会長、第3次吉田内閣の建設大臣(副総理格)を歴任し、大野伴睦・林譲治とともに「党人御三家」と称された。吉田退陣後は、池田派に所属した。1955年に、全野党から推される形で与党候補の三木武吉を退けて衆議院議長に就任する。最初の自民党総裁選では2票獲得。その後も第2次岸改造内閣の副総理、池田内閣で自民党幹事長の要職を歴任する。
1964年、内閣総理大臣の池田勇人が病気退陣を表明した際には、後継総裁に佐藤栄作を据えるため両者の仲介役としての労を取った。1972年、政界を引退し、後継に自らの秘書の瓦力を指名。同年には、学校法人金沢医科大学の理事長に就任。1973年8月18日、85歳にて死亡。
林譲治・大野伴睦とともに「政界三酒仙」といわれるくらい、政界きっての酒豪として知られた。また、世界連邦運動の推進団体である世界連邦日本国会委員会第6代会長であった。
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