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日本の映画プロデューサー ウィキペディアから
1964年、早稲田大学政治経済学部卒業。在学中は、「ワセダミステリクラブ」に参加していた。在学中の1963年、『宝石』(1963年10号 臨時増刊 38年度新人中篇力作10人集)に短編「白い翼の郷」が掲載された。
大学を卒業し、同年、東宝撮影所に入社[3][4][5]。文芸部に配属され[4][2]、プロデューサー補佐を務めた後、1969年に文芸部が廃止され製作者室に所属[5]。同年に映画『野獣の復活』でプロデューサーとしてデビューし、血を吸うシリーズなど、ホラー・SFを中心に活躍[3][4][5][2]。1971年に東宝の映画製作部門が東宝映画へ独立したことに伴い、東宝テレビ部に移籍[6]。その後、映像調整部長となった瀬戸勇に誘われ[要出典]映像調整部に移籍[6]。
1974年には東宝映像(現・東宝映像美術)に移籍し[6][2]、映画プロデューサーに復帰[6]。その間に「夏の旅人」が『SFマガジン』の「SF三大コンテスト小説部門」(のちのハヤカワ・SFコンテスト)に佳作入選。1975年に田中友幸が社長にスライド就任した東宝映画に移籍、1976年には短編ミステリ「さすらい」(滝原満名義)が第1回幻影城新人賞の佳作となった[注釈 2]。
1981年にヒロイック・ファンタジー作品「大魔界」シリーズの第1作『竜神戦士ハンニバル』を刊行し、本格的な作家活動を開始する。「大魔界」シリーズを継続して書きつぐ一方で、並行してホラー小説を多数執筆。1984年に契約者となり、1986年に作家専業となる[7]。
晩年は、田中文雄名義で主に「異形コレクション」シリーズにホラー短編を執筆していたほか、「草薙圭一郎」名義で架空戦記や時代小説を多数執筆していた[2]。
2008年12月、『幻影城の時代 完全版』(講談社)に短編「走屍の山(カンキシのやま)」を発表。
2009年4月12日、脳出血のために死去(享年67歳)[8]。
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