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広島市南区の地名 ウィキペディアから
町名の「本浦」は、かつてこの近辺が広島湾頭に浮かぶ仁保島であった時代、黄金山の麓に形成された漁業集落「仁保七浦」(仁保村 (広島県)参照)の一つ「本浦」に由来し、その名称からして仁保七浦の中では最も古い歴史を持つことが考えられる。
1662年(寛文2年)の東新開(現在の東雲など)の埋め立てにより仁保島は比治山など広島城下と地続きになったことで、本浦地区は海から切り離され、漁業集落としての性格は早くに失われた。村内には耕地が乏しかったため村民は新たに造成された新開地を耕作し米・麦、ついで棉花などを栽培した。明治に入り1889年(明治22年)、本浦を含む仁保島および向洋の集落は町村制による安芸郡仁保島村(のち仁保村と改称)となった。この時期になると村から海外への移民が盛んになり、1911年時点で淵崎地区からの海外移民は360人(うち276人がハワイへの移民)にのぼった。1874年には小学校として「仁富舎」(のち本浦尋常小学校)が創立されたが、1908年には淵崎(現在の仁保地区)の仁保尋常高等小学校(現在の仁保小)に統合され廃止された。
1929年(昭和4年)、仁保村は広島市に合併され、本浦を含む旧村域はすべて「広島市仁保町」となった。1930年代には海外からの輸入制限撤廃の影響で衰退した棉花栽培に代わって蓮根栽培が拡大、一時は蓮畑が町の代表的な景観となった。第二次世界大戦末期の1945年1月には、現・市立工業高校(市工)の校地(この時点での住所表示は東雲町)に市立工専(現在の広島大学工学部の前身校の一つ)が設立された(戦後この校地は県立商業高校が一時使用したのち1964年以降は市工の校地となり現在に至る)。同年8月6日の原爆投下に際しては、爆心地から3km以上離れていた本浦も、山陰に入っていない地域は爆風により家屋の多くが半壊に近い被害を受けた。また当日、淵崎とともに市内(竹屋町・鶴見町・宝町・富士見町など)での家屋疎開作業に動員されていた住民の中からも多くの犠牲者が出た。
戦後の1966年9月1日には町名変更が実施、仁保町が多くの新町名に分割された際に現在の「本浦町」「西本浦町」「東本浦町」の3町が新設、さらに東雲町の一部(市立工業高校の校地など)が東本浦町に編入された。さらに同年12月7日には新広島バイパス(現在の国道2号)が開通した。この結果本浦地区ではバイパスに近い区域や黄金山北側の丘陵地帯を中心に再開発・宅地開発が進行し、かつての蓮田や山林を中心とする景観は一変した。またもともと本浦地区は全域が仁保小学校の学区に属していたが、宅地化による人口増加を背景に1977年隣接する北大河町に黄金山小学校が開校すると、本浦町の一部と西本浦町が同小の学区に分離され、現在に至っている。
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