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名古屋市西区の地名 ウィキペディアから
かつては鴛鴦の生息地であり、鴛鴦喜里(おしきり)と表記したことに由来するとされるが未詳[3]。また水が押し切って流れていた場所との説もある[4]。
『日本紳士録』によると、押切の商工業者は扇子商の井上・佐藤、金物商の石原、玉野屋海産物商の岩井、雑貨商の稲垣、八島屋玩具商の原、乾物商の林、酒醤油商の富田、菓子商の田中、麺粉商の森などがいた[8]。
2019年(平成31年)2月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[WEB 2]。
国勢調査による人口の推移
1995年(平成7年) | 783人 | [WEB 6] | |
2000年(平成12年) | 720人 | [WEB 7] | |
2005年(平成17年) | 862人 | [WEB 8] | |
2010年(平成22年) | 945人 | [WEB 9] | |
2015年(平成27年) | 910人 | [WEB 10] |
市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる[WEB 11]。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる[WEB 12]。なお、小・中学校は学校選択制度を導入しておらず、番毎で各学校に指定されている。
丁目 | 小学校 | 中学校 | 高等学校 |
---|---|---|---|
押切一丁目 | 名古屋市立榎小学校 名古屋市立なごや小学校 | 名古屋市立天神山中学校 名古屋市立菊井中学校 | 尾張学区 |
押切二丁目 | 名古屋市立榎小学校 | 名古屋市立天神山中学校 |
1901年(明治34年)には名古屋電気鉄道の手により、柳橋駅から押切駅間の路面電車である押切線が開業し、終着駅として押切駅が設置された[3]。1910年(明治43年)には郊外鉄道線として郡部線と称する路線が押切駅から枇杷島駅まで延長された[3]。この押切駅は市内の路面電車線と郊外の電鉄線の接続点であり、1941年(昭和16年)の新名古屋駅開業に伴う路線の付け替えにより廃止されるまでターミナル駅として機能した[3]。駅の跡地は、のちに西区役所庁舎、西消防署押切出張所、西区役所および西保健所の合同庁舎の敷地として使用された[9]。
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