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会津若松市市街地の中部に位置しており、国道118号の西側を町域とする。
会津盆地南東部に位置する会津地方の中心都市、会津若松市の北西部に位置する。周囲の地域とともに阿賀川の支流、湯川などやその支流により形成された扇状地上に発達した会津若松市の中心市街地を形作る。東は追手町、西は本町、湯川町、南は米代、北は西栄町、東栄町に接する。
1384年、小田垣に蘆名直盛が東黒川館を築いた。これがのちに黒川城、小田垣城と言われるようになる。その後、伊達政宗の入城を経たのちに蒲生氏郷により黒川が若松と改められ、1593年には城の改築をはじめた。これによって完成したのが天守閣(七層)、馬出、櫓などを備える城で、この際に内外の郭もつくられた。また、1640年、加藤明成は城の追手を北にしたほか、天守閣を五層に改めた[4]。
江戸時代、現在の山鹿町付近には本丁などがあった。本丁は、若松城下城郭内のうち東西6条の通りで、城郭内では最重要の通りであった。追手側から本一之丁、本二之丁、本三之丁、本四之丁、五之丁、六之丁があり、役所、士屋敷が多かったとされている。また、城郭外との間には天寧寺口、融通寺口、桂林寺口が設けられていた。このうち、天寧寺口は蒲生時代に大手門であった[5]。
明治時代に入ると、民生取締所、民生局による統治を経て、1870年に若松県が置かれたほか、江戸時代からの若松城下の町は再編され、本丁、米代、小田垣、横道、権現下郭に加えて、小田町、半兵衛町のそれぞれ一部(加えて外小田垣を含むともされる)が合わさり、若松栄町となった。栄町の町名は、戊辰戦争により周辺の地域が大きな被害を受けたため、以後栄えることを願い付けられたものされている[7]。また、若松県庁が城内に置かれていた時期があったほか、1875年、新政府の方針により若松城は取り壊されている[6]。
その後、1877年に旧来の福島県、磐前県、若松県が合併されて福島県となったことから若松県は廃止されたほか、1889年に町村制の施行によりそれぞれ若松町内の町名となる。1889年、合わせて若松栄町は栄町の町名となり、1899年には若松町の市制施行により若松市の町名となる[7]。
1955年、当時の若松市と高野村、一箕村、神指村、門田村、東山村、大戸村、湊村が合併、会津若松市となったことから、以後栄町は同市の町名となる。その後、1960年代に会津若松市の住居表示が実施され、現在の山鹿町周辺も対象となる。そして、1965年、栄町の一部により山鹿町が誕生する[8]。
町域西側を通る国道118号などで会津乗合自動車によるバスが運行されている[9]。
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