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1961年長崎県長崎市に生まれ、幼い頃から父山下亨にギターを学ぶ[1]。16歳の時にラミレス(スペイン)、アレッサンドリア国際(イタリア)、パリ国際(フランス)の世界三主要ギター・コンクールにいずれも史上最年少で1位となる。
通常のクラシック・ギターのレパートリーのみならず、超絶技巧を駆使したオーケストラ作品の編曲でも知られ、ヴィヴァルディ「四季」(ジャズギタリストであるラリー・コリエルとのデュオ)、ストラヴィンスキー「火の鳥」、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータや無伴奏チェロ組曲、リストの「ハンガリー狂詩曲第2番」などをギター独奏に編曲、特にムソルグスキーの「展覧会の絵」(ドイツ・レコード賞受賞)の全曲演奏が知られている。
その音楽性とテクニックは作曲者にもインスピレーションを与え、「アストラル・フレイクス」(渡辺香津美)、「天馬効果」(吉松隆)など多くのオリジナル作品が彼に捧げられている。近年は藤家渓子の作品に加え、アジアの新進作曲家のオリジナル曲の紹介に力を入れている。また、妹山下尚子とのデュオも高い評価を受けているほか、子ども3人との合奏も始めた。
(課題曲および自由曲は、本選での演奏曲)
山下和仁はリサイタルでの世界初演を行う前、まずは父でありギターの師である山下亨が運営する長崎ギター音楽院の定例サロンコンサートで演奏し、観客の反応を試してから世に問うという経緯を必ずとってきた。よって厳密に言えば、どの曲も世界初演会場は長崎ギター音楽院となる。ここでは、世界初演曲は、リサイタルにおけるそれらを列記する。
ある意味では山下の代名詞になっているのが、それまでは誰もが考えもしなかった、ギター独奏によるオーケストラ曲の編曲と演奏である。
これは1980年代に集中しており、ムソルグスキー「展覧会の絵」(1980年)に始まり、その後、ベートーヴェン「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」Op. 61(1982年)、リスト「ハンガリー狂詩曲第2番」(1983年)、ストラヴィンスキー「火の鳥」(1985年)、ドヴォルザーク「交響曲第9番 新世界より」全曲(1986年)、妹・尚子とのデュオによるシベリウス「フィンランディア」(1985年)、リムスキー=コルサコフ「シェヘラザード」(1985年)と続いた。
1990年代以降は、2000年のビートルズ曲集というポピュラーものを除いて、ギター独奏によるオーケストラ曲の編曲・演奏・録音はない。
「展覧会の絵」「ハンガリー狂詩曲」「火の鳥」は長らく演奏されていないが、ドヴォルザーク「交響曲第9番 新世界より」第2楽章のみ、山下は近年でも好んで演奏している。
1990年代以降の山下に特筆される活動は、J・S・バッハによる「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」全曲、同「無伴奏チェロ組曲」全曲、同「リュート組曲」全曲、カステルヌオーヴォ=テデスコによる「ゴヤによる24のカプリチョス」(1991年)、同「プラテーロとわたし」(1997年)、そして「黎明期の日本ギター曲集」(1999年文化庁芸術祭大賞を受賞。2002年に第2集)などのギター本来のレパートリーやオリジナル作品に見られる。特に、「ソルのギター曲全集」(1989年)は、CD16枚にもおよぶ大きな企画であった。
先に述べたような膨大なレパートリーを持ちながら、なおかつギターのための新しいレパートリーの獲得にも積極的で、内外の作曲家たちへの働きかけ、また共同作業などにより、作曲家よりギターオリジナル曲を献呈されている。
チノ・トレド(フィリピン)、チナリー・ウン(カンボジア)、ロス・カレイ(ニュージーランド)、ナロングリット・ダーマブトラ(タイ)などのアジアの作曲家や、ガネシュ・デル・ヴェスコヴォ(イタリア)によるシューベルト「6つの楽興の時」Op. 94がある。国内では渡辺香津美「アストラル・フレイクス」、吉松隆「リトマス・ディスタンス」「ギター協奏曲天馬効果」などの献呈曲がある。
また、藤家渓子の「ギターソナタ青い花」他多数の独奏曲、ギターデュオ「彼女らの美しき生活」、3つのギター協奏曲、ギターが重要な役割を担うモノローグ・オペラ「蝋の女」「赤い凪」などの作品も、積極的に取り上げている。
山下はソロ演奏の研鑚を積む一方で、師たる父・山下亨が率いる長崎ギター合奏団にも所属し、ギター合奏によるギター協奏曲や一般のオーケストラ曲の演奏に親しみ、アンサンブル能力を磨いていた。かつて「ギター合奏をやっていたので『展覧会の絵』を編曲しようという発想が出た」と明言して、ギター合奏の可能性を力説していた。
山下は1979年、18歳にして日本人としては初めてギター協奏曲を録音している。曲はロドリーゴ「アランフエス協奏曲」と、カステルヌオーヴォ=テデスコ「ギター協奏曲第1番」Op. 99で、オーケストラ伴奏は東京フィルハーモニー管弦楽団。
その後、パイヤール室内管弦楽団との「アランフエス協奏曲」再録、ロドリーゴ「ある貴紳のための幻想曲」、ヴィヴァルディ、フェルディナンド・カルッリ、マウロ・ジュリアーニ、バークリー、カステルヌオーヴォ=テデスコ(ギター協奏曲全3曲)、野田曄行、吉松隆、藤家渓子などの多くの協奏曲を演奏・録音している。
中でも特筆すべきは、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲ニ長調Op. 61」をギター用に編曲・演奏・録音したことであろう(1982年)。この曲は、1986年12月6日のサントリーホール・オープニングシリーズでも、NHK交響楽団の共演で演奏された。
今までの共演者として、ジェームズ・ゴールウェイ(フルート、元ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団首席奏者)、ヴォルフガング・シュルツ(フルート、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団首席奏者(当時))、ゲーリー・カー(コントラバス)、ラリー・コリエル(ジャズギター)、東京カルテット、パイヤール室内管弦楽団、ヤナーチェク室内管弦楽団、イ・ソリスティ・ヴェネティなどがいる。
また日本国外においても、1984年トロント国際ギター・フェスティバル以降、毎年のように海外の国際フェスティバルに招かれて出演している。
クラシック・ギターのメソッド体系では、中級者以上の場合、マッテオ・カルカッシ「25のエチュード」Op. 60や、ソル「20のエチュード」(セゴビア編)の習得が必須である。これは全世界で共通しているオーソドックスなものだが、山下は父がギター教師で、父の運営する長崎ギター音楽院も生徒に対してカルカッシとソルを体系的に指導しているにもかかわらず、山下自身はこれらエチュードの類をほとんどやらなかった。
「禁じられた遊び」の後、ルイゼ・ワルカー「小ロマンス」、ヴィラ=ロボス「前奏曲第1番」、ソル「魔笛の主題による変奏曲」Op. 9、同「グラン・ソロ」Op. 14、そしてJ・S・バッハのシャコンヌという順序で、自分が弾きたい曲だけを選んで取り組んだという[4]。
山下和仁編「展覧会の絵」には従来になかった特殊奏法が多く登場するが、通常の曲でも山下の奏法は非常に特殊である。
例えば「禁じられた遊び」の場合、上声部はamiで弾くのが普通である。しかし山下は、mai, すなわち2弦をaで支えたまま、メロディーの1弦をmでアポヤンド後、支えのaで2弦をアルアイレ → 3弦を i でアルアイレ、でのアルペジオを行っている。また、p指の置き支えも頻繁であり、6弦をpでアルアイレ後、pは空中に止まるのが普通である。だが山下は、pでのアルアイレ直後に4弦上でpを置き支え、上声部のアルペジオを行なっている。
シベリウス編「蜘蛛の歌」など他の曲でも、通常は1弦をaでアポヤンドし2・3弦の中声部和音をmiのブロックで弾くところを、やはりaを2弦上で支えたまま1弦をmでアポヤンドし、2・3弦の中声部和音をaiで弾いたりしている。
2・3弦をmiのブロックで弾く場合は、1弦上をaで置き支えている場合がほとんどである。
1980年代のLPジャケットに登場する山下のギター(ラミレス製) は、サウンドホール下側(1弦側)付近の表面板ニスがはがれ落ちており、白い木目がむき出しになっている。これは右指のストロークが余りにも強く大きく深すぎるあまり、表面板をひっかいてしまって出来たもの。
1973年12月に行なわれた、第16回東京国際ギターコンクールで12歳の山下は3位入賞を果たしたが、その選考と論評がちょっとした論争を起こした。きっかけとなったのは、音楽評論家の安達右一が「現代ギター」1974年2月号に寄せたコンクールレポートだった。
「山下が3位になった理由として、園部三郎審査員長がコンクール審査評で、強いていえばと前置きして、『バッハのシャコンヌという自由曲の選曲が無理だったことと、楽器が身体に比して大き過ぎたこと』の2点を挙げていたが、そんなことはどうでもいいといわんばかりに、万場は拍手を惜しまなかったのだから、リストの言葉も当てはまろうというものである」と、安達自身は優勝を予想した山下が、3位という予想外の結果に終わったことについて、会場の反応もまじえながら批判した。
安達を肯定する意見と、バッハのシャコンヌはそもそも12歳の少年には(音楽的に)無理だ、という一般論の立場から3位という結果を支持する意見とが、「現代ギター」誌に多く寄せられた。また、批判の矢面に立たされた園部自身も、安達への反論文を「現代ギター」1974年3月号に寄稿し、論争をにぎわした。
1979年、スペインの日本大使館公邸での天皇誕生日レセプションにエミリア夫人同伴で招待されたアンドレス・セゴビアは、スピーチにて「日本には、パリ国際コンクールに最年少で優勝した、将来が非常に有望な天才少年がいる」と山下を賞賛した[5]。
セゴビアが山下を知ったのは、山下が参加した1977年のサンティアゴ・デ・コンポステーラでの講習会とコンクール(どちらもスペイン政府文化省主催)にセゴビアが講習会講師および審査員として参加したことから始まる。山下はロドリーゴ「ファンダンゴ」でセゴビアのマスタークラスを受けた[6]が、この時、セゴビアは山下に対しあまり強く弾きすぎないようアドバイスしている。
ムソルグスキーが1874年にピアノ曲として書き、1922年に行われたモーリス・ラヴェルの管弦楽編が名高くした組曲「展覧会の絵」を、山下は全曲をクラシック・ギター独奏用に編み、演奏した(1980年)。いくつかの「プロムナード」のうちのひとつのみが省かれているが、これはラヴェルの管弦楽版にならったものである。
ピアノと異なり、クラシック・ギターには音域のほか同時に使用できる音の選択にもかなり大きな制限がある。「弾きやすい調性」が限られるのがギターの性格で、いろいろな傾向の曲を含む組曲は、各曲それぞれを任意の調に移す方が演奏は容易となる。しかし山下は、それではムソルグスキーが故あって「プロムナード」で曲間をつないだこの組曲のロジックが傷つくと判断し、あえて「全体を一貫して半音下げる」方法をとった。そのために増大した技術上の難問を、変則調弦と数々の特殊奏法を用いることにより切り抜けた。
クラシック・ギターは通常19フレットまでしかなく、スタンダードチューニングの場合の高音域の限界はBである。だが、ベートーヴェン「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」Op. 61第1楽章436・437小節目にはナチュラルCが出てくる。このため山下は、この曲を演奏する場合、マッチ棒の切れ端を付け足して20フレットを臨時に作り、ナチュラルCを確保している。これはアグスティン・バリオス「森に夢見る」などの対策で、おなじみの方法である。ナチュラルCを要求する現代ギター曲はある[7]が、メジャーではない。
ジャズギタリストの渡辺香津美はクラシック・ギター音楽にも関わりが深く、デビュー直後の山下とも親交を深めていた。当時、「ギター対話」というタイトルの山下と渡辺の対談集も径書房から発売されている。
渡辺はかねてから山下との二重奏を希望しており、山下のマネージャーが吉松隆にデュオ曲を依頼。1985年に曲が完成し、ホールを予約し日程も具体化しようとしていた矢先、マネージャーが行方をくらましてしまい、山下と渡辺の二重奏コンサートは幻になってしまった[8]。
1986年5~7月、欧州で山下和仁とジョイント・コンサートを行ったジェームズ・ゴールウェイは、山下のドヴォルザーク「新世界より」第2楽章独奏に対して、「ベルリン・フィルは本当に必要なのだろうか?」との賛辞を送っている。山下自身も「新世界より」第2楽章には愛着が深く、リサイタルでも度々披露している。
1987年6月、キングレコードにて行われた「新世界より」全曲録音時には、3台のカメラによる同時録画も行われていた。ビデオ撮りが実現したことは、山下にとっても長年の念願の1つであり、ソロ・ビデオが発表されることに期待していると当時の山下は語っていた[9]が、その映像は未だに発表されていない。
1992年6月5日、大阪・ザ・シンフォニーホールでの山下和仁&ガルシア・ナヴァロ指揮市立管弦楽団による「アランフェス協奏曲」の演奏中、第3楽章を高速で弾きまくる山下にオーケストラがついてこられず、オーケストラが止まりかけてしまうハプニングがあった[10]。
2006年9月現在、これまでCD枚数にして74枚を発表している(オムニバス形式のカップリングを除く)。
※いずれも廃盤につき入手困難。
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