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徳川家定

日本の江戸時代の武将、江戸幕府の第13代将軍 ウィキペディアから

徳川家定
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徳川 家定(とくがわ いえさだ)は、江戸幕府の第13代将軍(在任:嘉永6年(1853年) - 安政5年(1858年))。第12代将軍・徳川家慶の4男。

概要 凡例徳川 家定, 時代 ...
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生涯

要約
視点

将軍就任以前

文政7年(1824年)4月8日、第12代征夷大将軍・徳川家慶の四男として江戸城で生まれる。母は幕臣・跡部正賢の娘・堅子。第11代征夷大将軍・徳川家斉は祖父、徳川治済は曽祖父、徳川宗尹は高祖父にあたる。家慶は14男13女を儲けたが、成人まで生き残ったのは家定だけであった。しかし家定も幼少の頃から病弱で、人前に出ることを極端に嫌った。

家定の病状については、大変な癇癪持ちで、目や口が時には痙攣し、それとともに首まで動く奇態を見せる始末だった。おまけに正座ができず、言葉もやや訥して、吃るようだったという。しかも17歳の時には、重い疱瘡にかかり、これは回復したものの、顔全体に痘痕が残ったといわれる。つまり、身体を制御するのがうまくできず、言葉も不明瞭で、肉体的な障害があり、家定自身もそれを恥じてか、いささか鬱病的なところがあったというのである[1]

天保12年(1841年)に大御所徳川家斉(第11代将軍。家定の祖父)の死後、(第12代将軍・家慶の)世嗣となる。しかし家慶は、家定の継嗣としての器量を心配して、一橋家徳川慶喜を将軍継嗣にしようと考えたほどである。だが、老中阿部正弘らが反対したため、結局は家定を将軍継嗣とした。

黒船来航の19日後にあたる嘉永6年6月22日(1853年7月27日)、家慶が病死したことを受け家定は第13代将軍となった。

将軍時代

嘉永7年1月16日1854年2月13日)、マシュー・ペリーが7隻の艦隊を率いて再来日すると、幕府は同年3月3日3月31日日米和親条約に調印した。

家定は元々健康が優れなかったが、将軍就任以後はさらに悪化し、廃人同様になったとまで言われている。このため、幕政は老中・阿部正弘によって主導され、安政4年6月17日1857年8月6日)に正弘が死去すると、その後は老中・堀田正睦によって主導された。

安政4年10月21日1857年)に米国総領事タウンゼント・ハリス江戸城で引見している。

将軍継嗣問題

家定は鷹司政煕の娘任子(天親院有君)[注釈 2]一条忠良の娘秀子(澄心院寿明君)を御簾中に迎えたが、いずれも早世し、近衛忠煕の養女敬子(天璋院)を御台所に迎えるも実子は生まれなかった。このため、将軍在職中から後継者争いはすでに起こっていたが、家定の病気が悪化した安政4年(1857年)頃からは、それが激化する。

家定の後継者候補として、井伊直弼南紀派が推薦する紀州藩主徳川慶福(後の徳川家茂)と、島津斉彬徳川斉昭一橋派が推す一橋慶喜(徳川慶喜)が挙がり、この両派が互いに将軍継嗣をめぐって争った。

家定はこの間にも表舞台に出ることはほとんど無かったが、安政5年6月25日(1858年8月4日)、諸大名を招集して従弟である慶福(後の家茂)を将軍継嗣にするという意向を伝え、安政5年7月5日(1858年8月13日)に一橋派の諸大名の処分を発表するという異例の行動を見せた。家定が将軍らしい行動を見せたのは、これが最初で最後であった。

安政5年7月6日(1858年8月14日)、死去。享年35。養子となった慶福改め家茂が跡を継いだ。

幕末の動乱期という時局のため、また安政の大獄が開始された直後の死去のため、幕府は家定の死去をしばらくの間秘匿した。公表されたのは8月8日であった[2]

8月18日に上野寛永寺に葬られ、8月21日に正一位太政大臣を追贈され、温恭院の院号を与えられている[3]

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人物

  • 安政紀事』には「疾ありて政をきくことあたはず、ただ廷中わずかに儀容を失はざるのみなり」と記されている。松平春嶽も「凡庸の中でも最も下等」と酷評したと伝わる。しかし、幕臣であった朝比奈昌広明治期に「凡庸だ暗愚だと言われているが、それは越前(春嶽)や薩摩(島津斉彬)らと比較するからであり、300諸侯の中には家定公より劣る大名も多くいたはずである」と弁護している。
  • 家定は就任直後から後継問題が浮上するほど病弱であった。また、しばしば癇を起こし、幼少の頃から人前に出ることを極端に嫌い、乳母である歌橋にしか心を開かなかったとされ、幕末の難局にもかかわらず、将軍としての指導力を示すことは出来なかった。
  • 上記の行動から、家定は障害を患っていたと考えられており、脳性麻痺とする説もある(癇を起こすのはアテトーゼ型の典型症状である)。ハリスの日記によると、引見した際に家定は言葉を発する前に頭を後方に反らし、足を踏み鳴らすという行動を取ったと記されている。これは脳性麻痺の典型的な症状と言われる[4]。しかし、家定はハリスに対して「遥か遠方より使節をもって書簡の届け来ること、ならびにその厚情、深く感じ入り満足至極である。両国の親しき交わりは幾久しく続くであろう合衆国プレジデントにしかと伝えるべし」と告げ、将軍らしい態度も見せたという。
  • 幼少の頃に患った痘瘡のため、目の辺りにが残ったが、肖像画などには描かれていない。これが人前に出るのを嫌った一因ともされている。
  • カステラ饅頭を作ったりするなど、菓子作りが趣味だったとされている。また煮豆やふかし芋などを作り、自分だけで食べずに、時には家臣たちに振る舞っており、春嶽からは「イモ公方」などと呼ばれた。しかし自分でよく調理をしたのは、猜疑心が強く暗殺を恐れての事であったとも言われる。家定が大御所として西之丸で生活していた祖父・家斉を訪れた際、出された食事に毒が入っているかもしれないと考えてをつけなかったという逸話も残っており、これは後に家定が家斉と不仲であったという俗説を生んでいる。
  • 庭の鳥を追いかけるなどしたというのは『朝野新聞』の記事から派生した訛伝である。
  • 天璋院(島津斉彬の養女・篤子、のち近衛忠煕の養女・敬子)の入輿について、家定や大奥が長命で子沢山だった祖父・家斉にあやかって薩摩出身の夫人を望んだことが明らかになっている(家斉の御台所広大院島津重豪の娘)。この縁組は自らの推す一橋慶喜を次期将軍に擁立するための島津斉彬による政略ではないかと考えられた時期もあるが、島津家から大奥への御台所の申し入れは家定が将軍となる以前から行われていたため、現在では入輿と継嗣問題は無関係と考えられている[5]
  • 大樹寺に収められている各将軍の位牌が、遺骨から判明したそれぞれの身長と同じ高さであるとする説から、家定の身長については149.9cm程度であったと推測される。また、父・家慶の位牌が153.5cmで実際の身長より誤差が0.9cm余りであることから、家定は150.8cmであったとも考えられる。
  • 生来病弱であったため、御台所及び2人の御簾中側室との間に子はなかった。また、継室たる御簾中一条秀子は、極めて矮小な体躯をしており、立っていても首が襖の引き手の下にあったという。一説に彼女は、片足が短いため跛行して歩いたと伝えられる。
  • 自らの後継者候補となった慶喜とも不仲であった。家定に影響を及ぼした大奥の意向を反映したものと考えられているが、側小姓であった朝比奈閑水(後に外国総奉行町奉行勘定奉行を務める)の回想によると「単に自分より慶喜の方が美形であったから」という私怨に近いものであった。なお、慶喜は(生母・登美宮(貞芳院)が家慶の御台所楽宮(浄観院)の姉妹にあたるので)義理の従弟である[6]。また、家定自身は「まだ若く世子誕生の見込みもある」と考えていたため、慶喜擁立論が自分を暗愚・病弱であることを前提にしたものだと捉えて反発していたとする指摘もある[7]
  • 家定は子女の誕生はまだ望めるほど若かったが、病弱なため最初からそれは絶望視されていたらしく、一次史料では嘉永6年(1853年)6月に野村休成という数寄屋坊主組頭の上書に「慶福を将軍の養君として江戸城西の丸に迎え、立派な守役をつけて養育し、将来に備えるようにすればよい」と述べられている。既にこの時点で家定の将軍継嗣問題が浮上していたことがわかる[8]
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死因

  • その死は一橋派の諸大名処分の翌日であったため、一橋派が奥医師・岡櫟仙院を使って家定を毒殺したのではないか、という噂が流布されたことがある。
  • 家定の死因は、通説では持病の脚気が悪化したため[4]とも、その頃流行していたコレラによるものとも言われている。
  • 家定の死の直前、大老・井伊直弼と実母・本寿院との判断で、漢方医の青木春岱・遠田澄庵蘭方医伊東玄朴戸塚静海が江戸城登城を許され家定を診察した。以降、幕府内部にも西洋医学が導入されることになる。

系譜

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官歴

※日付=旧暦

偏諱を与えた人物

家定時代(将軍在職中)

家定の在任期間は数年であり、この間に偏諱を賜った人物も上記の2名だけであった。

(補足)
  • 家定は初め家祥(いえさち/いえさき)と名乗っていたが将軍就任に際して家定に改名している。これは名にのついた江戸幕府の将軍()には実子がないか、いても早世したため縁起が悪いとされたためだという。しかし家定にも結局実子を得ることができなかった。また後継の徳川家茂が慶福から家茂に改名したのも同様の理由だと考えられるが、結局家茂も子宝に恵まれないまま死去した。
  • 将軍の一字(偏諱)を拝領する家柄は固定していたので、元来「定」の字を使用していた大名が遠慮して改名するという現象を生じた(例:久松松平氏の松平定穀→松平勝善、松平定猷→松平猷松平定保→松平勝道)。
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関連作品

テレビドラマ
テレビアニメ
漫画
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脚注

参考文献

外部リンク

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