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日本の江戸時代の武将、第13代江戸幕府征夷大将軍 ウィキペディアから
徳川 家定(とくがわ いえさだ)は、江戸幕府の第13代将軍(在任:1853年 - 1858年)。第12代将軍・徳川家慶の四男。
時代 | 江戸時代後期-末期(幕末) |
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生誕 | 文政7年4月8日(1824年5月6日) |
死没 |
安政5年7月6日(1858年8月14日) 享年35(満34歳没) |
改名 | 政之助(幼名)→家祥(初名)→家定 |
別名 | イモ公方 |
戒名 | 温恭院殿贈正一位大相国公 |
墓所 | 東京都台東区上野の寛永寺 |
官位 |
従二位・権大納言、正二位、従一位 右近衛大将、内大臣 贈正一位・太政大臣 |
幕府 |
江戸幕府 第13代征夷大将軍 (嘉永6年10月23日(1853年11月23日) - 安政5年7月6日(1858年8月14日)) |
氏族 | 徳川将軍家 |
父母 |
父:徳川家慶 母:跡部堅子 |
兄弟 |
竹千代、嘉千代、円常院、家定 慶昌、暉姫、他多数 |
妻 |
御簾中:鷹司任子(天親院) 御簾中:一条秀子(澄心院) 御台所:近衛敬子(天璋院) 側室:志賀 |
子 |
実子:なし 養子:家茂 |
文政7年(1824年)4月8日、第12代征夷大将軍・徳川家慶の四男として江戸城で生まれる。母は幕臣・跡部正賢の娘・堅子。第11代征夷大将軍・徳川家斉は祖父、徳川治済は曽祖父、徳川宗尹は高祖父にあたる。家慶は14男13女を儲けたが、成人まで生き残ったのは家定だけであった。しかし家定も幼少の頃から病弱で、人前に出ることを極端に嫌った。
天保12年(1841年)に大御所・徳川家斉(第11代将軍。家定の祖父)の死後、(第12代将軍・家慶の)世嗣となる。しかし家慶は、家定の継嗣としての器量を心配して、一橋家の徳川慶喜を将軍継嗣にしようと考えたほどである。だが、老中・阿部正弘らが反対したため、結局は家定を将軍継嗣とした。
黒船来航の19日後にあたる嘉永6年6月22日(1853年7月27日)、家慶が病死したことを受け家定は第13代将軍となった。
嘉永7年1月16日(1854年2月13日)、マシュー・ペリーが7隻の艦隊を率いて再来日すると、幕府は同年3月3日(3月31日)日米和親条約に調印した。
家定は元々健康が優れなかったが、将軍就任以後はさらに悪化し、廃人同様になったとまで言われている。このため、幕政は老中・阿部正弘によって主導され、安政4年6月17日(1857年8月6日)に正弘が死去すると、その後は老中・堀田正睦によって主導された。
安政4年10月21日(1857年)に米国総領事タウンゼント・ハリスを江戸城で引見している。
家定は鷹司政煕の娘任子(天親院有君)[注釈 2]や一条忠良の娘秀子(澄心院寿明君)を御簾中に迎えたが、いずれも早世し、近衛忠煕の養女敬子(天璋院)を御台所に迎えるも実子は生まれなかった。このため、将軍在職中から後継者争いはすでに起こっていたが、家定の病気が悪化した安政4年(1857年)頃からは、それが激化する。
家定の後継者候補として、井伊直弼ら南紀派が推薦する紀州藩主徳川慶福(後の徳川家茂)と、島津斉彬や徳川斉昭ら一橋派が推す一橋慶喜(徳川慶喜)が挙がり、この両派が互いに将軍継嗣をめぐって争った。
家定はこの間にも表舞台に出ることはほとんど無かったが、安政5年6月25日(1858年8月4日)、諸大名を招集して従弟である慶福(後の家茂)を将軍継嗣にするという意向を伝え、安政5年7月5日(1858年8月13日)に一橋派の諸大名の処分を発表するという異例の行動を見せた。家定が将軍らしい行動を見せたのは、これが最初で最後であった。
安政5年7月6日(1858年8月14日)、死去。享年35。養子となった慶福改め家茂が跡を継いだ。
※日付=旧暦
家定の在任期間は数年であり、この間に偏諱を賜った人物も上記の2名だけであった。
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