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日本の北海道上川郡上川町にあった北海道旅客鉄道の駅 ウィキペディアから
天幕駅(てんまくえき)は、北海道上川郡上川町字天幕に存在した北海道旅客鉄道(JR北海道)石北本線の鉄道駅である。2001年(平成13年)7月1日に廃止された。電報略号はテマ。事務管理コードは▲122509[3]。
もともと同地は明治30年代に「上留辺志部」の名称で殖民区画が募集され(当時は入植者が現れず不成功に終わった)[8]、開業時点の地名も「上川村字ルベシベ[4]」であったがその後字名は整理改称されている。
「天幕」の名称は1889年(明治22年)から1893年(明治26年)にかけて中央道路(のちの国道39号に相当)建設にあたって天幕(テント)が張られたことから出た通称とされ、『駅名の起源』(1939年版)ではこの説を採る[9]。この天幕については、測量時に張られたテントであったという説や[10]、土木工事に際しての天幕張りの事務所であったという説[9][11]がある。
このほか、後述の当地に住んでいた男性の渾名が「天幕三次郎」であったことから、それに由来するとした俗説があり、しばしば人名由来の地名・駅名と紹介される[12][13]。
殖民区画の制定前、おそらく中央道路建設と同時期の1890年(明治23年)ごろから[8]、同地の留辺志部川畔で清水三次郎[注釈 3]という男(以下三次郎)が小屋で狩猟生活をしていた[10]。彼は「天幕三次郎」の渾名で呼ばれていた。この名がついた経緯については、中央道路測量のテントを張った場所に住みついたことから三次郎が自称したとする説[10]や、三次郎が天幕生活をしていたことからついた名とする説[12]などがある。
三次郎は1897年(明治30年)頃には広い家を建て、同地で私設駅逓の役割を果たしていたが、同棲していた未亡人の連れ子であったお花という女性と1903年(明治36年)に駆け落ちし、六号野上(現在の遠軽町栄野)の駅逓で駅逓夫として働いた[10]。
その後、住民との間にお花とのうわさ話が広まったことと、1年後の10月に中央道路の郵便駅逓が廃止されたのを機に、瀬戸瀬にある隠れ沢(現在の字名では栄野)でお花と共に再び猟業を始めた。しかし三次郎は翌春までに熊害に遭い死亡し、残されたお花は湧別の屯田兵佐藤小三郎と再婚し、白滝において旅館を営んだ後、雄武に移って時計店を開業した[10]。
三次郎が当地で暮らしていたころの、1896年(明治29年)8月21日、北海道庁鉄道建設部長として鉄道敷設調査を行っていた土木技師、田辺朔郎らの一行は、同地で泊地を探している途上で彼の小屋に一泊することとなった。三次郎は彼らの寝食の世話をし、風呂までこしらえるなどの歓待をしたとされる[10][14][13]。
このため、1973年に国鉄北海道総局が発行した『北海道 駅名の起源』をはじめとし、田辺による三次郎への感謝の気持ちの表れ、として、同地に設置される駅の名称が「天幕」となったと紹介する文献もある[14][13]。
その後、1933年(昭和8年)6月に田辺は開通4年後の石北本線に乗車し、天幕駅を通過した際、三次郎を思い出し、恩返しをしたいと思い立ち、当時の遠軽駅長に「おそらく亡くなっているであろうが、もし遺族がいたらこれを届けてほしい」と香典を託した。その後、駅長は雄武で暮らしていたお花のもとへ香典を届け、お花は駅長の計らいで旭川駅に立ち寄った田辺と鉄道電話で三次郎の思い出話を交わしたという[10]。
1993年(平成5年)時点で相対式ホーム2面2線を有する交換駅であり、下り本線側に駅舎が設けられていた[15]。しかし、廃止直前に交換機能が廃されたことにより、末期は1面1線の単式ホームとなっていた。
旅客営業当時の乗車人員の推移は以下のとおり。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。乗降人員のみが判明している場合は、1/2した値を括弧書きで記した。
年度 | 乗車人員 | 出典 | 備考 | |
---|---|---|---|---|
年間 | 1日平均 | |||
1965年(昭和40年) | (22,264.0) | (61.0) | [16] | 年間乗降客数:44,528 |
1966年(昭和41年) | (19,435.0) | (53.2) | 年間乗降客数:38,870 | |
1967年(昭和42年) | (16,233.0) | (44.4) | 年間乗降客数:32,466 | |
1968年(昭和43年) | (15,099.0) | (41.4) | 年間乗降客数:30,198 | |
1969年(昭和44年) | (13,418.0) | (36.8) | 年間乗降客数:26,836 | |
1970年(昭和45年) | (10,791.0) | (29.6) | 年間乗降客数:21,582 | |
1971年(昭和46年) | (8,114.0) | (22.2) | 年間乗降客数:16,228 | |
1972年(昭和47年) | (7,373.0) | (20.2) | 年間乗降客数:14,746 | |
1973年(昭和48年) | (8,039.0) | (22.0) | 年間乗降客数:16,078 | |
1974年(昭和49年) | (6,208.0) | (17.0) | 年間乗降客数:12,416 | |
1975年(昭和50年) | (4,527.0) | (12.4) | 年間乗降客数:9,054 | |
1976年(昭和51年) | (1,112.0) | (3.0) | 年間乗降客数:2,224 | |
1977年(昭和52年) | (590.5) | (1.6) | 年間乗降客数:1,181 | |
1978年(昭和53年) | (651.0) | (1.8) | 年間乗降客数:1,302 | |
1979年(昭和54年) | (278.0) | (0.8) | 年間乗降客数:556 | |
1980年(昭和55年) | (372.0) | (1.0) | 年間乗降客数:744 | |
1981年(昭和56年) | (292.0) | (0.8) | 年間乗降客数:584 | |
1982年(昭和57年) | (359.0) | (1.0) | 年間乗降客数:718 | |
1992年(平成 | 4年)(0) | [17] | 一日平均乗降客数:0 |
廃止後に駅舎は解体されたが、信号関係の建物は今でも残っている。かつての構内を通る本線の線形は2016年現在でも直されておらず、駅舎側に寄ったそのままの形に残されている。
駅舎があった所には旭川支社により記念碑が設置された。
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