加藤久

日本のサッカー選手、監督 ウィキペディアから

加藤 久(かとう ひさし、1956年4月24日 - )は、日本サッカー指導者、元サッカー選手、スポーツ研究者(博士(学術))。宮城県宮城郡利府町出身。

概要 加藤 久, 名前 ...
加藤 久
名前
愛称 カトキュウ、キュウさん、キュウちゃん
カタカナ カトウ ヒサシ
ラテン文字 KATO Hisashi
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1956-04-24) 1956年4月24日(68歳)
出身地 宮城県宮城郡利府町
身長 174cm
体重 70kg
選手情報
ポジション DF
利き足 右足
ユース
1972-1974 仙台第二高校
1975-1979 早稲田大学
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1980-1993 読売/ヴェルディ川崎 216 (11)
1993 清水エスパルス 20 (0)
1994 ヴェルディ川崎 7 (0)
通算 243 (11)
代表歴
1978-1987 日本 61 (6)
監督歴
1997 ヴェルディ川崎
2000 湘南ベルマーレ
2002-2004 沖縄かりゆしFC
2007-2010 京都サンガF.C.
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj
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経歴

要約
視点

現役時代

県内屈指の進学校である宮城県仙台第二高等学校の出身[1]。仙台二高在学時より将来を嘱望され、早稲田大学に憧れていたため、猛勉強の末に一般入試で同大教育学部へ進学(同じ18歳入学の同級生たるPL学園高校硬式野球部の不動の3番二塁手だった金森栄治とは現在も大親友)、早稲田大学ア式蹴球部へ入部、DFやディフェンシブな中盤の選手としてプレーした[1]関東大学リーグ大学サッカー選手権を始め多くのタイトルを獲得した。また在学中の1977年日本代表に選出された[1]

1979年に早稲田大学を卒業し、1年のブランクを経て1980年からは日本サッカーリーグ(JSL)1部の読売サッカークラブに入団。スイーパーを務め、守備のリーダーとしてチームを統率。1980年代から1990年代初頭に掛けてJSL1部5回、天皇杯3回など、DFとしてクラブ黄金時代を支えた[1]

日本代表としては、1977年7月5日カルクム・ビトラーとの親善試合で代表デビューを果たした[2]。翌年12月15日、アジア競技大会での韓国戦で代表初得点を決めた。1985年に行われた1986 FIFAワールドカップ・アジア予選[3] では主将を務め、最終予選まで勝ち進んだが、出場を懸けた最終予選の韓国代表との第1戦では、CKから放ったヘディングシュートがクロスバーに当たって得点を奪えず、1-2で破れた[4]。続く第2戦0-1と敗れ、本大会への出場を逃した[5]

1987年ソウルオリンピック予選においても最終予選まで駒を進め、第1戦で中国代表に1-0と勝利、引き分けでも1968年メキシコ以来のオリンピック出場権を得られる条件に加え、ホームでの対戦であったが、第2戦で0-2と破れ[6]、オリンピック出場は得られなかった。この試合を最後に日本代表から退いた。

1991年、読売クラブでの現役、それもレギュラーの選手ながら、日本サッカー協会から強化委員会の一員に選ばれた。日本代表としての活躍と、早稲田大学助教授という高い学識の双方の経験を買われての起用だった。1993年には強化委員会の副委員長になり、日本代表監督のオフトファルカンへの評価を下す立場になった。

1993年5月15日横浜マリノスとのJリーグ開幕戦に先発出場したが、松木安太郎監督とポジショニングを巡り対立し[7]、以降の試合では数試合でベンチ入りするも[8][9]イェーネ・ハンセンにポジションを奪われるなどもあって起用されず、移籍を希望するようになった[10]。ヴェルディの副社長との話し合いの末、一度は残留に傾いたが、結局、Jリーグ移籍第1号選手として7月に清水へと移籍[7]、移籍後初戦のジェフ市原戦では額を切って包帯を頭に巻きながらのプレーを強いられた[11]。加藤加入後の清水の守備は安定して優勝争いに加わったが[12]、ヴェルディに競り負け優勝を逃した[12]Jリーグカップでも清水は決勝でヴェルディに敗れて優勝を逃した。同年7月17日にはJリーグオールスターサッカーに先発出場した[13]

1994年シーズンも清水と契約したが、埼玉県所沢市にある早稲田大学所沢キャンパスで学生指導、あるいは東京都渋谷区(当時)での日本サッカー協会で仕事をした後、東京から清水まで移動する長距離通勤生活は限界があった。チーム練習参加が難しかったこともあり、常時出場は難しく、1stステージ6節でようやくベンチ入り、7節で初出場したが、僅か6試合の出場に留まった。14節の鹿島アントラーズ戦では2枚のイエローカードを受けて退場となった[14]。一方、V川崎ではネルシーニョがヘッドコーチとなって松木監督との共同指導体制に移行し、一時は移籍を決断したラモスなどのベテラン選手の不満を容れて再びブラジルスタイルへ回帰していた。この状況で、加藤は再びV川崎へ移籍(復帰)することになった。同年7月23日にはJリーグオールスターサッカーに2度目となる先発出場した[15]

同年7月、2ndステージから1年ぶりにヴェルディへ復帰したが、センターバックはペレイラ廣長優志が先発起用されていたこともあり、出場機会は限られたことから、現役引退を発表した。現役最後の公式戦はJリーグチャンピオンシップサンフレッチェ広島戦、11月26日の第1戦(1-0)に続いて[16]12月2日の第2戦でも先発出場[17]、ラモスがループシュートを決めて1-0と連勝し、V川崎が2年連続での王者に輝いた。試合後に加藤は親友のラモスと抱擁し、有終の美を飾り、現役を(日刊スポーツ・加藤の写真あり)。

引退後と指導者経歴

要約
視点

1995年からは大学での指導と協会の仕事に携わり、ファルカン解任で就任した加茂周監督の評価を行った。1996年アジアカップで日本代表はクウェートに敗れてベスト8に終わり、更に加茂が帰国時に体調不良を訴えると、強化委員会は加茂の更迭を主張し、後任にネルシーニョを推薦した。しかし、協会会長の長沼健はこれを退け、加茂の続投を決めたことで、強化委員会は存在意義を失い、加藤は強化委員を辞任した。

1997年、ヴェルディの監督に就任。元JリーガーとしてJリーグクラブチームの監督になった人物は史上初である。この時に早稲田大学も退職し、初めてサッカーに専念する生活になった。しかし、メンバーの高齢化、前園らの新戦力が活躍出来なかったこともあり、12試合で4勝8敗の16位と低迷した責任を取って、1stステージ途中の6月に辞任した。その後はテクニカルディレクターとして活動し、1998年には東京工業大学の博士課程に進学して、再び大学とサッカーを両立させる生活に戻った。

1999年にはヴェルディを離れ、Jリーグの技術委員として活動した後、2000年にはJ2・湘南ベルマーレの監督に就任した。ヴェルディ時代に獲得した前園真聖をレンタルで呼び、松原良香などアトランタオリンピックに出場した選手を中心として戦ったが、1年でのJ1復帰というチーム目標は達成できず、シーズン終了後に解任された。この解任劇でフロントに不信感を持った前園、松原らこのシーズンを支えた主力もチームを去った。

その後は解説者などとしても活動し、東京工業大学で博士の学位を取得した2003年沖縄かりゆしFC九州サッカーリーグ)の監督に招聘されたが、チームの運営に関する内紛に巻き込まれてシーズン途中の9月に今シーズン限りのでの辞任が発表された。それでも加藤はチームを九州サッカーリーグ優勝に導いたが、全国地域リーグ決勝大会で敗れて日本フットボールリーグ(JFL)昇格は逃した。しかし、加藤は沖縄との関係を残し、小学生から高校生まで、女子を含めて青少年世代の育成を目指すヴィクサーレ沖縄FCをNPOとして設立し、その理事長となった。このチームはU-15(中学生年代)で高円宮杯U-15、U-12(小学生年代)で全日本少年サッカー大会に出場するなど、沖縄県内の強豪ユースとしての地位を固めた。

2007年シーズンを前にJ2・京都サンガF.C.に招聘された。ヴィクサーレ沖縄との関係維持を条件にこれに応じ、京都の専務取締役(実質上のゼネラルマネージャー職)に就任。当初はGMとしてチーム編成などにかかわり、美濃部直彦監督を支える立場にあったが、シーズン途中からは総監督として現場指導にも関わった。さらに、チームに敗北が増えて目標のJ1復帰が危うくなってきた同年10月に美濃部監督を解任し、自らが監督に就任して残りのJ2リーグ戦とJ1・J2入れ替え戦を戦い、チームの大目標だった1シーズンでのJ1復帰を達成した。

当初は暫定監督扱いだったが、結果を残したことから、以後もGM職との兼任で引き続き京都を指揮。選手を大きく入れ替えてJ1に臨んだ2008年シーズンは、特定の形にこだわらず、相手に応じて様々なシステムを併用する采配を見せ、賛否両論を読んだ。年間通じて残留争いに苦しんだが、結果は14位で、J1残留という最低限の目標を達成。2009年シーズンは上位進出を目指して更に積極的に補強に動いたが、再び下位に沈み、2008年と全く同じ勝ち点での12位に終わる。それでも、2部制導入以降でクラブ史上初となる、3シーズン連続のJ1残留に導いた。

2010年シーズンは、足掛け4年目の長期政権となったが、やはり開幕から下位に沈み、10戦未勝利で最下位となった第14節終了後の7月27日に解任が発表された。合わせて、契約途中だった専務取締役職も退いた。 2011年、東日本大震災の発生直後から被災地域での復興支援活動に取り組んでいたが、日本サッカー協会に任ぜられ、同年10月よりJFA復興支援特任コーチとして活動していたが、2012年10月末で退任。

2013年12月16日、ジュビロ磐田ゼネラルマネージャーに就任[18]

2018年8月1日、第15回日本サッカー殿堂へ掲額されると発表された[19]

2019年2月から2020年9月までFC町田ゼルビアの未来プロジェクトリーダーを務めた[20]

2020年10月2日、京都サンガF.C.の強化育成本部長に就任した[21]。2022年8月10日、強化部からの異動を打診され固辞し、退団[22]

研究者生活

加藤は大学卒業後も研究を志向した点で、サッカー選手の中では異彩を放っている。早稲田大学教育学部を卒業後、筑波大学大学院体育学研究科修士課程に進学し、スポーツ選手では異例の1年間の空白期間を作り研究生活を続けた。1981年に修士課程を修了し、母校の早稲田大学で助手となった。その後も学生の指導と自己の研究を続け、1984年に早稲田大学体育局専任講師1991年に早稲田大学人間科学部助教授に嘱任(担当科目は体育学スポーツ社会学)。当時から少年向けのサッカー技術解説書を執筆していた。

1997年にヴェルディ川崎の監督に専念するために早稲田大学を退職したが、監督辞任後の1998年東京工業大学大学院社会理工学研究科博士課程に入学した。東京工業大学大学院在学中の1999年には、自らが客員研究員を務めた電通総研スポーツ文化研究チームとの共著で『スポーツ生活圏構想』を出版し、Jリーグの設立理念にも盛り込まれているスポーツを中核とした地域社会の再構築について提言を行った。2003年に東工大博士課程を修了(指導教員:石井源信)。東工大に博士論文「中学生サッカー選手におけるストレスの構造分析」を提出し「博士(学術)」の学位を取得した。

その他

1993年のW杯アジア予選時、強化委員会副委員長を務め、スカウティング責任者であったことから、対戦相手の代表チームの情報を得るために、相手国の人に成りすますため、変装したり、練習をしているスタジアムの壁にはしごをかけて練習を覗き見するなどして情報を集めていたという[23]

Jリーグ開幕を控え、サッカーブームとなり、選手の年俸が大きく上がるなどしていた頃、加藤は「地に足を着けていないとダメだ。」と、浮かれるチームメートたちに警鐘を鳴らしていた[24]

所属クラブ

個人成績

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国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本リーグ戦JSL杯/ナビスコ杯天皇杯期間通算
1980読売26JSL1部1402031191
198151831051244
19821800030210
19831803130241
19841600051211
19851624120223
1986-872210050271
1987-882221050282
1988-892003131262
1989-901001010120
1990-912132020253
1991-922000050250
1992V川崎-J-9150141
19931010-20
清水1400030170
19946000-60
V川崎70000070
通算日本J 28010180461
日本JSL1部 2151117342427418
総通算 2431127450432019
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JSL東西対抗戦 8回出場(1981年、1984年、1986年、1987年、1988年、1989年、1991年、1992年)

その他の公式戦

代表歴

出場大会など

試合数

  • 国際Aマッチ 61試合 6得点(1978-1987)
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日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1977008181
1978514091
1979000000
1980306191
198181121202
198280140220
198371120191
19846140101
19858050130
1986504090
1987112120232
通算 6168131429
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出場

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No.開催日開催都市スタジアム対戦相手結果監督大会
1.1978年11月23日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ソビエト連邦●1-4二宮寛国際親善試合
2.1978年11月26日日本の旗大阪府長居陸上競技場 ソビエト連邦●0-3国際親善試合
3.1978年12月11日タイ王国の旗バンコク クウェート●0-2アジア大会
4.1978年12月13日タイ王国の旗バンコク バーレーン○4-0アジア大会
5.1978年12月15日タイ王国の旗バンコク 韓国●1-3アジア大会
6.1980年06月09日中華人民共和国の旗広州 香港○3-1渡辺正広州国際サッカー大会
7.1980年06月11日中華人民共和国の旗広州 中華人民共和国●0-1広州国際サッカー大会
8.1980年06月18日中華人民共和国の旗広州 香港○2-0広州国際サッカー大会
9.1981年03月08日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 韓国●0-1川淵三郎日韓定期戦
10.1981年06月02日日本の旗埼玉県さいたま市大宮公園サッカー場 中華人民共和国△0-0森孝慈ジャパンカップ
11.1981年06月19日大韓民国の旗大邱 マレーシア○2-0韓国大統領杯
12.1981年06月21日大韓民国の旗釜山 韓国●0-2韓国大統領杯
13.1981年08月30日マレーシアの旗クアラルンプール マレーシア○2-0ムルデカ大会
14.1981年09月08日マレーシアの旗クアラルンプール アラブ首長国連邦○3-2ムルデカ大会
15.1981年09月14日マレーシアの旗クアラルンプール インドネシア○2-0ムルデカ大会
16.1981年09月18日マレーシアの旗クアラルンプール イラク●0-2ムルデカ大会
17.1982年03月21日大韓民国の旗ソウル 韓国●0-3日韓定期戦
18.1982年06月02日日本の旗広島県広島県総合グランドメインスタジアム シンガポール○2-0ジャパンカップ
19.1982年07月15日ルーマニアの旗スチャバ ルーマニア●0-4国際親善試合
20.1982年07月18日ルーマニアの旗ブカレスト ルーマニア●1-3国際親善試合
21.1982年11月21日インドの旗ニューデリー イラン○1-0アジア大会
22.1982年11月23日インドの旗ニューデリー 南イエメン○3-1アジア大会
23.1982年11月25日インドの旗ニューデリー 韓国○2-1アジア大会
24.1982年11月28日インドの旗ニューデリー イラク●0-1(延長)アジア大会
25.1983年03月06日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 韓国△1-1日韓定期戦
26.1983年06月07日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 シリア○1-0ジャパンカップ
27.1983年09月04日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 フィリピン○7-0オリンピック予選
28.1983年09月15日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 チャイニーズタイペイ○2-0オリンピック予選
29.1983年09月20日チャイニーズタイペイの旗台北 チャイニーズタイペイ△1-1オリンピック予選
30.1983年09月25日ニュージーランドの旗オークランド ニュージーランド●1-3オリンピック予選
31.1983年10月07日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ニュージーランド●0-1オリンピック予選
32.1984年04月15日シンガポールの旗シンガポール タイ●2-5オリンピック予選
33.1984年04月18日シンガポールの旗シンガポール マレーシア●1-2オリンピック予選
34.1984年04月21日シンガポールの旗シンガポール イラク●1-2オリンピック予選
35.1984年04月26日シンガポールの旗シンガポール カタール●1-2オリンピック予選
36.1984年05月31日日本の旗埼玉県さいたま市大宮公園サッカー場 中華人民共和国○1-0ジャパンカップ
37.1984年09月30日大韓民国の旗ソウル 韓国○2-1日韓定期戦
38.1985年02月23日シンガポールの旗シンガポール シンガポール○3-1ワールドカップ予選
39.1985年03月21日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 北朝鮮○1-0ワールドカップ予選
40.1985年04月30日朝鮮民主主義人民共和国の旗平壌 北朝鮮△0-0ワールドカップ予選
41.1985年05月18日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 シンガポール○5-0ワールドカップ予選
42.1985年08月11日日本の旗愛知県神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 香港○3-0ワールドカップ予選
43.1985年09月22日香港の旗香港 香港○2-1ワールドカップ予選
44.1985年10月26日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 韓国●1-2ワールドカップ予選
45.1985年11月03日大韓民国の旗ソウル 韓国●0-1ワールドカップ予選
46.1986年08月01日マレーシアの旗クアラルンプール マレーシア●1-2(延長)石井義信ムルデカ大会
47.1986年09月20日大韓民国の旗大田 ネパール○5-0アジア大会
48.1986年09月22日大韓民国の旗大田 イラン●0-2アジア大会
49.1986年09月24日大韓民国の旗大田 クウェート●0-2アジア大会
50.1986年09月28日大韓民国の旗大田 バングラデシュ○4-0アジア大会
51.1987年04月08日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 インドネシア○3-0オリンピック予選
52.1987年04月12日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 シンガポール○1-0オリンピック予選
53.1987年05月27日日本の旗広島県広島県総合グランドメインスタジアム セネガル△2-2キリンカップ
54.1987年06月14日シンガポールの旗シンガポール シンガポール○1-0オリンピック予選
55.1987年06月26日インドネシアの旗インドネシア インドネシア○2-1オリンピック予選
56.1987年09月02日タイ王国の旗バンコク タイ△0-0オリンピック予選
57.1987年09月15日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ネパール○5-0オリンピック予選
58.1987年09月18日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 ネパール○9-0オリンピック予選
59.1987年09月26日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 タイ○1-0オリンピック予選
60.1987年10月04日中華人民共和国の旗広州 中華人民共和国○1-0オリンピック予選
61.1987年10月26日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 中華人民共和国●0-2オリンピック予選
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得点数

さらに見る #, 年月日 ...
#年月日開催地対戦国スコア結果試合概要
11978年12月15日タイ王国の旗 タイバンコク大韓民国の旗 韓国1-3敗戦アジア競技大会
21981年9月8日マレーシアの旗 マレーシアクアラルンプールアラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦3-2勝利ムルデカ大会
31983年9月4日日本の旗 日本東京フィリピンの旗 フィリピン7-0勝利ロサンゼルス五輪予選
41984年5月31日日本の旗 日本大宮中華人民共和国の旗 中国1-0勝利ジャパンカップ
51987年9月15日日本の旗 日本、東京ネパールの旗 ネパール5-0勝利ソウル五輪予選
61987年9月18日ネパールの旗 ネパール9-0勝利
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学歴

  • 1979年 早稲田大学教育学部教育学科体育学専修卒業(教育学士(早稲田大学))
  • 1981年 筑波大学大学院体育学研究科修士課程修了(体育学修士(筑波大学)
  • 2003年 東京工業大学大学院社会理工学研究科博士課程修了(博士(学術)(東京工業大学))

職歴

  • 1981年 - 1984年 早稲田大学体育局助手
  • 1984年 - 1991年 早稲田大学体育局専任講師
  • 1991年 - 1997年 早稲田大学人間科学部助教授

指導歴

監督成績

さらに見る 年度, クラブ ...
年度クラブ所属試合数勝点順位ナビスコ杯天皇杯
1997V川崎J1124-81016位予選リーグ敗退-
2000湘南J24015124438位1回戦敗退3回戦敗退
2003沖縄かりゆし 九州22180454優勝-2回戦敗退
2004181503252位-県予選敗退
2007京都J28431153位-3回戦敗退
2008J134118154114位予選リーグ敗退5回戦敗退
200934118154112位予選リーグ敗退3回戦敗退
2010142481018位予選リーグ敗退-
通算--184802478---
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主な著書

  • 単著
    • 『完全敵地』 (集英社、2005年)
    • 『まるごとワールドカップ』 (ポプラ社、2002年)
    • 『ひとりの集団』 (講談社、1997年)
  • 訳著
    • (原作:Bill Beswick) 『サッカーのメンタルトレーニング』 (大修館書店、2004年)

脚注

関連項目

外部リンク

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