八幡丸 (初代)

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八幡丸(やわたまる)は日本郵船の貨客船[2]

概要 八幡丸, 基本情報 ...
八幡丸
基本情報
船種 貨客船
クラス 春日丸級貨客船
船籍 大日本帝国
所有者 日本郵船
運用者 日本郵船
 大日本帝国海軍
建造所 Robert Napier and Sons社
母港 東京港/東京都
姉妹船 春日丸、二見丸
信号符字 HVGN[1]
IMO番号 3647(※船舶番号)[1]
経歴
進水 1898年5月21日
竣工 1898年11月
就航 1899年4月[1]
その後 1934年12月26日 解体のため売却
要目
総トン数 3,818.46トン[2]
純トン数 2,367.44トン[2]
載貨重量 3,950トン[2]
垂線間長 114.23m[2]
型幅 13.41m[2]
型深さ 8.47m[2]
主機関 三連成レシプロ機関 1基[2]
推進器 1軸
最大出力 4,303PS(連続)[2]
最大速力 16.6ノット(試運転)[2]
旅客定員 一等:11名
二等:26名
三等:136名[1]
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船歴

「八幡丸」は日本郵船がオーストラリア航路用としてイギリスに3隻発注したうちの一隻で[注釈 1]Robert Napier and Sons社で建造され[3]1898年5月21日に進水、同年11月竣工[2]1899年3月3日に日本に着き、オーストラリア航路に就航した[2]

日露戦争の際、「八幡丸」は1904年3月に横浜・上海線に転用されるも、1航海したのみで同月29日に陸軍に徴傭された[4]。同年6月26日に解傭されるとオーストラリア航路に戻ったが、2航海したのみで12月24日に海軍に徴傭され、仮装巡洋艦となった[5]南シナ海沿岸の要地偵察をする「南遣支隊」に参加後[6]日本海海戦では信濃丸などとともに哨戒に従事した。1906年2月4日に解傭後、再びオーストラリア航路に復帰した[7]

1913年7月11日から「八幡丸」は神戸・上海線や横浜・上海線で運行された[8]

第一次世界大戦では海軍の病院船になった[9]1914年8月18日、徴傭発令[10]8月20日に病院船に指定され、呉鎮守府所管、第二艦隊附属となり、8月23日に軍医長として西勇雄軍医大監が着任した[11]。病院船への艤装は呉海軍工廠で行われ、9月11日に完了した[12]

「八幡丸」は9月13日に呉を出港して八口浦へ向かい、それから労山湾へ移動[13]。患者を収容して10月2日に佐世保に戻ると患者を佐世保海軍病院へ移し、再び労山湾へ向かった[14]。この時は急性虫垂炎の手術が行われたり、イギリス戦艦「トライアンフ」の負傷者2名を受け入れたりしている[15]。また赤痢患者が多数出たため、佐世保に戻ると伝染病用の病床を増やす改装が行われた[16]。その後も「八幡丸」は10月24日から11月10日まで労山湾で患者を収容し、11月12日に佐世保に戻ると横須賀鎮守府に転属となった[17]

横須賀海軍工廠で遠洋進出のための改修が行われた後、「八幡丸」はトラック、フィジーへ進出した[18]1915年1月8日、解傭発令[10]1月10日、「八幡丸」は横須賀に戻った[10]1月14日、呉で上陸の際、傳馬船の転覆事故が発生して3名が死亡した[19]

シベリア出兵に際し、「八幡丸」は1918年8月6日から10月12日までと1919年4月15日から4月28日まで陸軍に徴傭された[20]

1923年度から南洋航路の東廻線で運行された[21]

1934年12月26日、「八幡丸」は第一次船舶改善助成施設を適用して建造される「鳴門丸」(N型貨物船)の解体見合い船に指定されて売却され[1][22][23]、その後解体された[3]

脚注

参考文献

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