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一龍斎 貞水(いちりゅうさい ていすい)は、日本の講談師(講釈師)の名跡。四代目までは真龍斎 貞水。四代目は早川 貞水を名乗った。
四代目 早川 貞水(はやかわ ていすい、1861年12月 - 1917年5月15日)は、日本の講談師。本名:早川 与吉、旧姓「長島」。
1878年、17歳の時に初代旭堂南慶の門下に入り慶寿を名乗る。その後四代目真龍斎貞山、二代目松林伯圓、初代桃川如燕らの門下を転々とし1891年に三代目真龍斎貞水の門下で三代目双龍斎貞鏡、1899年に四代目真龍斎貞水、1911年に早川貞水になった。
「教育講談師」と称し寄席にはほとんど出ず旅廻りが多かった。
相撲ネタが得意で「お相撲貞水」という異名があった。また大正天皇及び各皇族の御前講演を行い、内務省嘱託となって地方を巡回公演したため「御用講談師」とも呼ばれた。
六代目 | |
本名 | |
---|---|
生年月日 | 1939年6月29日 |
没年月日 | 2020年12月3日(81歳没) |
出身地 | 日本・東京都文京区 |
師匠 | 五代目一龍斎貞丈 |
名跡 | 1.一龍斎貞春 (1955年 - 1966年) 2.六代目一龍斎貞水 (1966年 - 2020年) |
活動期間 | 1955年 - 2020年 |
活動内容 | 講談師 |
所属 | 講談協会 |
受賞歴 | |
1975年 芸術祭優秀賞 - 「鉢の木」[1] 1976年 放送演芸大賞講談部門賞[1] 1999年 下町人間庶民文化賞[1] 2003年 文京区区民栄誉賞[1] 2009年 旭日小綬章[1] 2020年 正五位 | |
備考 | |
講談協会会長(2002年 - 2006年、2010年 - 2020年) | |
六代目 一龍斎 貞水(いちりゅうさい ていすい、1939年6月29日 - 2020年12月3日)は、日本の講談師[1]。本名∶浅野 清太郎[1]。位階は正五位、勲章は旭日小綬章。講談師初の人間国宝[1]。血液型はB型。
東京府東京市本郷区湯島天神町(現在の東京都文京区湯島)生まれ[1]。父は日本画家の浅野宇清。
役者志望であったが、小さい頃からラジオで演芸に親しんでいた。講談組合頭取(会長)の四代目邑井貞吉と出会い、寄席本牧亭の楽屋に出入りするようになる。周囲に貞吉の孫と勘違いされて可愛がられ、五代目一龍斎貞丈から「ちょっと噺出来るか」と言われ、学生服姿で初舞台を踏んだところ喝采を浴び、講談の道に入ったという[2]。
1955年、都立城北高校入学と同時に、五代目一龍斎貞丈に入門[1]、「貞春」を名乗る[1]。1966年、真打に昇進し、「六代目一龍斎貞水」を襲名[1]。2002年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定[1]。
2002年から2006年にかけ、講談協会会長[1]。その後、講談協会相談役に就き[1]、2010年より再び講談協会会長に就任[1]。
2020年11月まで高座を務めていたが、同年12月3日、肺炎のため死去した[3]。81歳没。最後の高座は、11月25日の連続講談の会での「金毘羅利生記」だった[4]。生前の故人の意向では、芸人として「しっかりお別れをする場を作りたい」とお別れの会の開催を望んでいた[5]というが、コロナ禍のためにかなわなかった。死没日付をもって正五位に叙された。
2021年11月28日、東京・善養寺に顕彰の碑が建立され、一周忌法要と建立式典が執り行われた。顕彰碑は橘左近の揮毫、長井好弘による碑文、碑側面には貞水筆の「言葉は心 芸は人」という座右の銘が刻まれた[5]。
「怪談の貞水」の異名を持ち、照明や音響、大道具などを効果的に用いた「立体怪談」を得意とする。
実家は湯島で居酒屋「酒席 太郎」を営んでいる(店主は貞水の妻)。
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